4-6 フィオリトゥーラの剣
天井から下げられた小振りなシャンデリアが照らす食卓を、パンに肉や野菜、パスタ入りのスーブに果実と、様々な料理が鮮やかに彩っている。
それは、フィオリトゥーラが到着した日の晩餐にも似た豪華さだったが、全体の量自体はそれほどでもなく、またバランスも少し偏っていた。肉類が控えめで、代わりにパンや果実などが多めに出されてある。
並ぶ料理を前にしながら、ガルディアはちらりと隣のディルを横目で覗く。
この食事は、おそらくディルの指示によるものだろう。理由は不明だが、彼が試合を翌日に控えた際の夕食では、これほど豪華ではないものの、似たようなバランスの食事がよく出される。
「なんだよ。こんな時の飯は大事だぜ。ちゃんと食べておけよ」
ディルが一昨日の朝食の時同様に言った。
相変わらず食前の挨拶もなく食べ始めている彼を前に、フィオリトゥーラ、ガルディアも、それぞれ「いただきます」と挨拶すると、食事を始める。
クローディアが屋敷を去った後、丁度夕食の準備が終わりそうなタイミングではあったのだが、早速明日のことを話そうとするフィオリトゥーラを遮るようにして、ディルがすぐの夕食を提案したのだ。
スープを口にした後、フィオリトゥーラはディルを見つめる。
ディルは小さくパンを千切っては、少しずつ口に運んでいた。彼にしては珍しく、ゆったりとした食べ方をしていた。
「あの、明日のことなのですが……」
再び話しだそうとするフィオリトゥーラを上目で見ながら、ディルが手のひらを向けて、それを制する。
それから一旦間を置き、噛んでいた物を飲みこむと、ディルは顔を上げた。
「あー、喋るなってことじゃないぜ。その明日のことなんだけどな、俺が仕切っても構わないか?」
隣のガルディアは、黙って二人のやりとりを見守っている。
「あ、はい……」
フィオリトゥーラは思わずそう返事をしながら、少し呆気にとられたようにディルを眺めた。
ただ、何を考えているかわからなかったディルが、「明日のこと」と口に出したことで、彼女は安堵してもいた。
「もちろん、フィオ。リーダーはおまえだからな。色々段取りなんかは俺が考えるが、それをやるかやらないかは、全ておまえの判断で決めろ。何か引っかかったら素直に言えよ」
「承知いたしました。ありがとうございます」
フィオリトゥーラの表情が、晴れやかなものへと変わっていた。
……まあ、こういうのはディルに任せるのが一番か。
ガルディアも内心で納得し、あ、このパスタ美味しいな、などと考えながら、続くディルの言葉に耳を傾ける。
「じゃあ早速だが、細かいことを話すのは明日の朝にしようぜ。一応、それなりに考えてはいるから心配するな。スラクストンに頼んで準備も少しだけしてある。とりあえず、今は食べて寝るのが最優先事項だ。おまえも言ってただろ? 情報を得て考える余地を得れば不安が増える、みたいな。こういう時は、あれも正論だ」
それはラモン戦の翌日の朝、裏庭で、フィオリトゥーラがディルに向かって口にした言葉だ。
言い終えて、ディルは再びゆったりとしたペースの食事へと戻る。
「それじゃ、明日朝の作戦会議はどのぐらいから始めますか? ディル隊長」
「今言っただろうが。俺がリーダーじゃねえんだよ」
からかうガルディアにそう返しながらも、特に不機嫌な様子もなくディルは淡々と食事を続けた。
「朝一の鐘が鳴ってからじゃ遅いからな。日の出前には準備を始める」
「起きれるかなあ」
「少し気張っときゃ勝手に起きるだろ。あと、スラクストンにも頼んである。あいつはいつも〝真夜の刻〟で一度目覚めてるらしいからな。明日はそこから寝ずにいてもらう」
「じゃあ大丈夫だね」
そんな二人の会話が途切れると、フィオリトゥーラは手を止め、すかさず気になっていたことを訊ねる。
「あの、先のお話の中にもありましたが、〝真夜の刻〟というのはいつのことなのでしょうか?」
その使われ方から時刻を表す言葉であるとは理解できたが、彼女にとってそれは、クローディアが口にした時、初めて耳にした単語だった。
「そうか。寝てる間に鳴ってるから知らねえよな」
「真夜の刻はね、真夜中、日が変わる頃に大教会が鳴らす鐘のことだよ。他の刻と違って控えめな音だし、続けて鳴らすのは〝第二〟にある四つの教会だけだから、この辺りだとかなり小さな音で聞こえる感じだね」
「なるほど。夜中に聴こえた鐘の音がそうだったのですね」
フィオリトゥーラは自然とそう口にする。昨晩、なかなか眠れなかったために彼女はその音を耳にしていたのだ。
「え? フィオさん、そんな時間に起きてたの?」
言われて彼女はハッとし、少し狼狽した様子を見せる。
「いえ、その、昨晩は少し遅くまで起きていましたので……」
言葉を濁す彼女からなんとなく察し、二人はそれ以上を追及しようとはしなかった。
「まあ、今日はこれ食ったら、さっさと寝ちまおうぜ」
それからも三人は、黙々と食卓の上の料理を食べ続けた。
やがてガルディアは一人先に応接室へと移動し、同様に食事を終えたフィオリトゥーラは、まだ食事中の向かいのディルをなんとなしに眺める。
すでに最後に残された果実類を口にしているが、彼にしては珍しく、本当にゆっくりで長い時間をかけた夕食だった。
「そうだ、ガルディア。悪いけど、寝る前に少し〝模擬戦〟付き合えるか?」
ブドウを一粒口に放りこんだ後、ディルが背後の応接室にいるガルディアへと声をかけた。彼はまた、フィオリトゥーラにとって聞き慣れない単語を口にしていた。
「いいよ。僕も少し身体を動かしておきたかったし、明日じゃそんな暇なさそうだもんね」
「じゃあ、先に準備しててくれ。俺もすぐに行く」
そう言って向きなおしたディルの視界に、わずかに首をかしげるフィオリゥーラの姿があった。
「ああ。〝模擬戦〟か?」
「はい。疑似的な戦闘、ということでしょうか?」
「そうだな。剣を持って闘うんだが、互いに全ての速度を本来の半分以下に落とすイメージでゆっくり動く。で、攻撃が当たりそうになったら〝寸止め〟して仕切り直しだ。主に戦術と思考の訓練だな。あと、無理なく身体もほぐれる。前にライマーからやり方を聞いて、それ以来、ガルディアとソロンとは試合前なんかにはよくやってた」
ディルの口から当たり前のようにソロンの名が出たことで、フィオリトゥーラがかすかな戸惑いを見せる。
そんな彼女に気がつくと、ディルはその顔に冷ややかな笑みを浮かべた。
「あいつも、模擬戦だけならそれなりに上手かったんだけどな」
どこかふてくされたように言うと、金属製のコップに残った水を一気に飲み干し、そして彼は立ち上がる。
夜の闇に覆われたその空間の中、テラスにある燭台とその奥からもれるホールの明かりを頼りに、二人は緩やかに動き続ける。
ディルはシミター、ガルディアはショートソード。模擬戦とはいえ、それぞれが鞘から抜かれたその刃を煌かせていた。
延々と続く二人の攻防を眺めながら、フィオリトゥーラは納得した。
対峙し二人が剣を抜いた時こそどきりとしたが、実際戦闘が始まってみれば、ディルが事前に説明したとおり、その動きは意識的に抑えられていた。半分、いや、もっと。おそらく本来の四分の一ぐらいまで速度が落とされているだろうか。
本物の剣を使っているだけに緊張感こそあるが、ゆったりとした攻防が幾度繰り返されようとも、なかなかに「寸止め」となる気配は見られなかった。
ディルは開始前に「軽くだから、一回だな」と、ガルディアに向けて終了までの寸止め回数を宣言していたが、これならば確かに一回で十分だろうとも思えてしまう。
しばらく眺めていると、二人の動きの違いがよくわかった。
前後の動きが多いガルディアには、最短距離を狙う直線的な動きがよく見られ、攻撃回数が多い。これが本来の戦闘ならば、目まぐるしい数の連撃を打ちこんでいるのだろう。
対してディルは、横の動きや円の動きが多い。剣を振るう回数も圧倒的に少ない。
ゆっくりとした速度の攻防だけに、互いに自分と相手の状態をほぼ完全に把握しながら、自身の動きを行っている。
こういう剣の鍛錬もあるのだなと、フィオリトゥーラは感心した。
兄のアルトゥラステリオとの「遊び」も、いわば模擬戦であったのだが、それをそのように調整していたのは一方的に兄の側で、彼女はただ全力で木剣を振るい、必死に兄の剣を避けていたに過ぎない。
やがて、ディルの右肩の上で、ガルディアの小剣の剣先が一瞬だけ止まった。
それを最後に、二人は間合いを外し、それぞれ剣を鞘へと納める。
そんな彼らの様子から「寸止め」が行われたのだと認識できたが、先に説明がなければそうとわからないほど淡々としていて、何かの決着が着いたような雰囲気は微塵も感じられなかった。
「今のは、ガルディアさんの勝利ということなのでしょうか?」
フィオリトゥーラは歩み寄り、どちらへともなく訊ねた。
「ん? ああ、まあな。でも、これに勝敗なんてないけどな」
ディルが答えると、それにガルディアが続く。
「うん。寸止めは単なる仕切り直し点ってだけだからね。仮に当てられた側がそうと思ってなくても、当てた側が止めた時点でその回は終了なんだ」
ゆったりとした動作で行われていたにもかかわらず、二人はともに、いくらか呼吸を乱し、その額にうっすらと汗を浮かべていた。
「なんとなくですが理解しました。これは、二名で対戦する形をとっていても、勝敗を求めて何かを競うものではなく、あくまでそれぞれの自己鍛錬の機会ということなのですね」
「そうそう。でも、相手がいる分、新しいアイディアとかが浮かびやすいんだ」
ガルディアがうんうんとうなずく。
「フィオさんも、いずれ機会があったらやってみようよ」
「そうですね。私に務まるかわかりませんが、その時はよろしくお願いします」
フィオリトゥーラは微笑み軽く会釈を返す。
だが、そんな二人をよそに、ディルは裏庭の中心へと歩を進め、なぜか一人周囲を見回していた。
「どうしたの?」
「ガルディア。おまえ、この暗さ、どう思う?」
ガルディアの問いに振り向いたディルが、逆に質問を返す。
「え、何? 普通でしょ?」
「違えよ。明日の〝産業路〟だ」
「ああ、そういうこと」
ディルの説明は端的に過ぎるが、ガルディアはそれで理解したようだった。
「時間の幅が広いからなあ。月も出てるか微妙だよね。街灯のありなしで全く違うだろうけど、でもまあ、今のここより暗いってことはないんじゃない?」
そこまで聞いて、フィオリトゥーラもようやく会話の意味を理解する。
明日、剣を奪回するために行動する場所の暗さが、今この裏庭と比較してどうかという話をディルはしているのだ。
ガルディアの答えを聞いて後、ディルはその場でしばらく考えこむ。
「フィオ、頼みがある」
「なんでしょうか?」
「今、ここで剣を振ってくれないか? おまえのカルダ=エルギムのツーハンドだ」
ディルはすぐに、「嫌なら断わってくれて構わない」と付け加えたが、フィオリトゥーラにディルの頼みを断る理由などなかった。
早々にテラスを抜けて二階の七号室へ向かうと、そこから自身の両手剣を鞘入りのまま持ちだす。
裏庭に戻ってみれば、ディルはトントンと軽い跳躍をしたり、止まって両の膝を曲げ伸ばしたりしていた。何かの準備運動のようだった。
ガルディアは、そんなディルをぼんやりと眺めている。
剣を手にしたフィオリトゥーラの姿を目にすると、ディルは少し移動し、自身が立っていた場所、裏庭の中心辺りを指差した。
「その辺りで振ってくれ。ガルディア、鞘を頼む」
言われたガルディアが鞘を支え、水平にした両手剣をフィオリトゥーラが後ろに下がりながら引き抜いた。
薄闇の中、姿を現した剣身が明かりを受けて光を放つ。
くるりと剣を返し、フィオリトゥーラは剣先を斜め下に向けた。
ディルは、思わず息をのむ。
相変わらず独特な空気をその身にまとう剣だった。むき出しになった剣身から、漂う冷気がゆっくりと広がっていくさまが見えるようだった。
フィオリトゥーラは、そのままディルが指定した場所まで歩いていく。彼女はこの唐突な申し出に、何か訊き返すこともせず、戸惑う様子すら微塵も見せなかった。
「フィオ、本当に構わないのか? こう言っちゃなんだが、俺もいずれおまえの敵になるかもしれないんだぜ」
そんな彼女に対して、ディル自身が逆に不安を覚え、声をかけていた。
ディルが口にしたのは当然の話だった。剣闘士として聖地に存在する以上、いつ闘うことになっても不思議ではないのだ。ランクが異なる今はその機会がなくとも、互いに勝ち進んだ場合、それぞれのランクが上がれば上がるほど、そうなる可能性は次第に高まっていく。
「遠慮は無用です、ディル。今、お二人が私に何かを望まれるのならば、明日のことでなくとも、私はどのようなことでもお引き受けできればと、そう考えています」
華やかさを持つ、よく通る美しい声がそう告げた。
振り向いた彼女が微笑む。ディル、そしてガルディアも、そんな彼女の言葉に思わずどきりとしてしまう。
言葉の上だけではないとわかる、強い意志を感じさせる声だった。それだけに、そんなことをさらりと口にする彼女が、ひどく無防備にも思えた。
「……わかった。じゃあ遠慮なく見させてもらうぜ」
ディルは少しだけフィオリトゥーラへと近づく。足を止めた場所は、彼女の両手剣の間合いのわずかに外となる距離だ。
「どのようにいたしましょう?」
「そうだな。クローディアと闘った時、一回脚を狙われただろ?」
フィオリトゥーラは、あの闘いの最中の記憶を脳裏に思い浮かべる。即座に鮮明な映像が蘇った。闘いの序盤で受けたクローディアの息つく間もない連撃の最後が、レイピアで足を払う攻撃だった。
「はい」
「あれを躱した後、おまえが出した反撃の振りをやってみてくれ」
「承知しました」
フィオリトゥーラは左足をわずかに前へ出し、そして垂直に立てた両手剣を自らの胸元へと引き寄せる。
ディルがそれを選んだのは、単純な理由からだった。彼が見たこれまでの彼女の「剣」の中で、それが一番最速の攻撃と思えたからだ。
フィオリトゥーラは、すっと左足を膝の高さほどまで持ち上げた。完全にあの時を再現して見せているのだろう。
「ハッ!」
鋭い呼気とともにフィオリトゥーラの白金の髪が大きく揺れ、同時にカルダ=エルギムの両手剣が、縦に一瞬だけ直線の軌道を描いて消えた。
ヒュッ、と風切り音だけを残し、終わりに後方へ緩く弧を描いた剣は、そのまま上昇して天を差し、フィオリトゥーラの右脇に構えられて動きを止める。
離れてそれを見ていたガルディアは、反射的にその身体を硬直させていた。
この薄闇の中だが、先にイメージしていただけに、その動作はよく見えた。間近でその「剣」を目にしたディルは、すぐに頭の中で彼女の動きを反芻させる。
フィオリトゥーラは、上げた足を落とすのとほぼ同時に、剣を倒しながら上体ごと下に落としていた。彼女の髪が激しく揺れたのはそのためだ。また、剣の軌道が弧ではなく直線に見えたのは、剣を落としながら自身の右側へと引いたからだった。
レイピアの間合いの中で両手剣がこの速度で振られたことに、ディルはあらためて驚きを隠せなかったが、これで理解はできた。
最初の動きでは腕を振らずほとんど体重を乗せた落下のみ、そして、途中から腕を使って、剣を全力で踏みだした足と逆側へ引く。
適当に慌てて振ったわけではない。こうやって見事に再現できていることからしても、短い距離で両手剣を速く振るために練られた技なのだろう。
「うわあ。速すぎでしょ……」
背後からのガルディアの声を耳にしながら、ディルも内心で同意する。だが、それと同時に違うなとも思った。
「悪い。ちょっとそのまま構えててくれ」
こちらに視線を覗かせたフィオリトゥーラに向けて、ディルが言った。
彼女は視線を前方に戻すと、剣先を真上よりほんの少しだけ前に傾け、身体を横向きに左肩を相手に向けた右脇の構えを保つ。これもまたクローディア戦で見せていた構えだ。
最速なのは間違いないだろう。彼女の剣の中で、いや、ともすれば自分がこれまでに見た両手剣使いの攻撃の中においてすらも……。
それだけに、初見でこの剣を避けたクローディアの凄さもあらためて実感できた。
正直、同じ局面でこれをやられて自分が躱せるかどうか……。
ただそれでも、今自分が体感したいと願う剣には、まだ何かが足りない気がした。
「フィオ。次は、おまえが思う全力でその剣を振ってみてくれ。振り方は好きにしていい」
フィオリトゥーラは、こくりとうなずく。
「それでは、もう少し離れていてください」
ディルは視線を外さずに、大きく二歩後ろへと下がった。水平に剣が振られたとしても、この距離ならば当たりはしない。
フィオリトゥーラの構えは変わらなかった。いや、正確には足の開きがわずかに大きくなっていた。
その碧い瞳が、眼前の見えない何かを捉えているようだった。ディル、そしてその後ろのガルディアも彼女の動きに集中する。
フィオリトゥーラがかすかな予備動作を見せた瞬間、周囲の空気が、ふうっとそこに吸い寄せられていくような気がした。
「――ハアァッ!」
気合一閃。
ウォン、と豪快な風切り音を残し、凄まじい圧力が目の前で放出された。体験したことのない感覚が、ディルの背筋を走り抜け、全身を激しく震わせる。
剣の勢いそのままにくるりと横向きに一回転すると、彼女はまた元の構えに戻っていた。
その剣撃は、クローディア戦で彼女が見せた、横薙ぎに剣を回転させた振りと似ていたが、それともまた少し違った。
マジか……。これほどかよ。
ディルは理屈抜きに戦慄していた。だが、その裏では同時に歓喜してもいた。
ちらりと背後のガルディアを覗いてみれば、彼もまた愕然とし、その表情にはかすかな畏怖の念すら垣間見える。
「ふう……」
息を吐きだした彼女は、脱力し構えを解いた。
ディルの指示どおりに全力、全身全霊を込めた一撃だった。
彼女に意図したつもりはなかったが、それは、聖地に旅立つと告白した後、集まった彼女を支持する者たちに要求され披露したのと、寸分違わず同じ「剣」だった。
これだ――、とディルは確信する。
小刻みに震えようとする身体を必死に抑えた。
「フィオ」
「はい」
「今、何か目標物を思い描いて振ったか?」
ディルは、なかば確信していながらもそれを訊ねた。
「ええ。一応、目の前に何者かが対峙していると想像してみました」
「イメージでは相手を斬ってるってことだな。それじゃあ、もう一度同じように振って、今と全く同じ場所を斬れるか?」
「どうでしょう。可能とは思いますが、やってみなければわかりません」
「なら、今のと同じ振り方で、同じ場所を斬ってみてくれ」
フィオリトゥーラはうなずき、再度剣を右脇に構えると、大して間も置かずに、再び眼前の見えない敵の姿をその瞳に捉える。
ディルもまた、その見えない相手を想像し、朧ろな敵の姿を彼女の前に出現させた。
自分やラモンぐらいの背丈の男が剣を構えて立っていたとして、先の軌道ならば、左肩口から斜め下に向かって、ばっさり、というところだろう。
「ハアァッ!」
カルダ=エルギムの両手剣が、大きく彼女の右肩上から振り下ろされるのが見えた瞬間、一瞬で眼前の敵を斜めに斬り裂く軌道が描かれる。
そして、それが見えたと思った時には、風切り音を残した剣は、もうその切っ先を彼女の背後へと向けていた。
フィオリトゥーラは大きく振りまわされた両手剣とともに、くるりと一回転して元の構えに戻っていく。
やはり、クローディア戦の時に見せたあの横薙ぎの振り方に似ている。ただ、あの時とは、剣の軌道と身体の使い方が違った。
今見た剣の軌道は、水平ではなく斜めの斬り下ろしで、振り抜いた時に地面に打ちつけない程度に角度がつけられていた。また、身体の使い方だが、あの時は身体の中心をあまり傾けず綺麗に回っていたが、今は上体を少し投げだすようにして、より豪快に剣を振りまわしていた。
おそらくクローディア戦での振り方は、攻撃後の隙を少なくするための振り方なのだろう。そして、今のが彼女の全力の一撃……。
実際、今見た剣撃の方が、遥かにディルを震撼させていた。
本物だ、こいつ……。
一度見た後だというのに、再び震えだそうとする身体を抑える。
剣の速さ、そして圧倒的な膂力のようなものを目の当たりにして、ディルは口の端を自然と歪ませていた。
さらに、その剣が通った場所……。
完璧だった。フィオリトゥーラの剣は、寸分違わず一回目と同じ場所を斬り裂いていた。
今度は構えを解かず、フィオリトゥーラは顔だけをこちらに向けてディルの様子をうかがっている。
「よし……」
ディルは小さく呟いた。
「フィオ。悪いけど、あと一回だけ振ってくれ。で、今度は……」
ディルはそう言いながら歩きだし、ある場所で立ち止まると振り向いた。
そこは、構えたフィオリトゥーラの両手剣の間合いの中……。彼女が、そしてディルが先ほどまでイメージして見ていた、敵の姿があった場所だった。
「えッ? ディル、本気?」
それを見たガルディアが、慌てて声をかける。ディルが準備運動を始めた時、内心で「もしや」と思ったが、流石にそれはないだろうとも考えていたからだ。
「今度は、実際の目標物ありだ」
ディルは右腰からシミターを引き抜く。
ガルディアは目を疑った。彼は、今のフィオリトゥーラの剣撃を実際に受けてみせる気なのだ。大胆に行動はしても、その実リスクを嫌うディルがすることとは到底思えなかった。
最初からどこに来るかわかっている攻撃を避けるのは、確かにそう難しいことではない。ただし、それは普通の「剣」を相手にした場合の話だ。
今のフィオリトゥーラの全力の一撃を見た後では、それこそ正気の沙汰とは思えない。それほどの「剣」だった。
しかも、この視界が悪い中でと考えれば、難易度は相当なものだろう。
剣を構えたまま、フィオリトゥーラもまた明らかに困惑し、不安げな様子を隠せずにいた。
「心配すんな。そこまで馬鹿じゃねえよ」
そんな二人を見てディルは笑い、立っていた場所から半歩分だけ後ろに下がる。
それから、まだ逆手のままで剣先を下に向けていたシミターをくるりと回すと、一瞬だけ手を放し、順手に持ち替えた。
そのままシミターを自身の顔の前に掲げると、そこで再び曲刀の向きを変える。右肘を張って手首を返し、再びその剣先を真下へと向けた。
ディルの視界の中央を縦に刀身が割っている形だ。
両足は大きく開かず、右足を前にした直立に近い姿勢。
拙い真似事……。彼自身がそう口にしていた。
それは、剣位三位ディスカイス・ムーンライトが使う剣技、月煌剣特有の構えだった。その構え自体の名称として、「イクリプス」という名が広く世間に知れ渡っている。
一般の剣技ではまず見られないその異質で独特な構えであるイクリプスだが、月煌剣の中では、基礎であり根幹とも呼べるものだ。
まず、この構えで相手の攻撃を受ける。それが月煌剣を用いた闘いでの始まりとなるからだ。
聖地の剣位が使う「剣」として、あまりにも有名なこの構えは、それこそ聖地中で拙い真似事が披露されているかもしれないが、それは通常、路上で子供がするものであったり、あるいは底辺の剣闘士などが時折提供してくれる笑い話のタネに過ぎない。
もし、Bランクの剣闘士が真剣にそんな拙い真似事などしていると知られれば、それはあまりに滑稽だと一笑に付されてしまうだろう。
「ここなら、当たったとしてもそう深くは入らねえだろ」
フィオリトゥーラがイメージする相手の立ち位置から半歩分ほど下がったため、確かにディルの身体は、ほとんど両手剣の間合いに入らない。この間合いで先と違わぬ軌道で振られれば、剣はディルが手にしているシミターにのみ直撃するだろう。
ただ、だからといって安全だと断言できるような距離でもなかった。何かが少しでも狂えば、腕の一本など瞬時に奪われてしまう、そんな間合いだった。
「これが、明日のために必要なことと思えて仕方ねえんだ。頼む」
シミター越しに、ディルの視線がフィオリトゥーラへと真っすぐに向かってくる。
自身の中のためらいを振り払えずにいたフィオリトゥーラだったが、その一言を受けて、急速に覚悟が決まった。
ディルが「必要」だと言っている。ならば、私はそれを引き受けるだけだ、と。
構えを引き締め、顎を引いて視線をディルへと固定する。
それを見たディルは、そっとシミターを持つ自身の右手に左手を軽く添えた。
うわあ……、本当にやるんだ。
ガルディアは目の前で対峙する二人を見て、いつの間にか口内に溜まっていた唾を飲みこんだ。
ディルだって経験上わかっているはずだ。来ると予測できていても、そう簡単に躱せない「剣」はある。
フィオリトゥーラが見せた剣撃がまさにそうだ。生半可な回避や防御など理不尽に飲みこんで破壊してしまいそうな、凄まじいまでの速度、威力、圧力、膂力、全てがあった。
ただ、だからこそディルは望んでいるのだろうが。
「それでは、参ります」
フィオリトゥーラの声に、ディルは小さくうなずいた。
次の瞬間、動きだすフィオリトゥーラに向かって吸いこまれるような感覚が、ディルの身体を襲った。
だが、それに抗うことはせず、全身を脱力させる。
眼球を操る筋肉が強く硬直した。もはや、何を見て何を見ていないかすら自身でもわからない。
予備動作を終えた剣先が、ふっと消えた瞬間、対峙する二人を見守るガルディアは、びくりと身体を震わせた。
反射的に、金属音が鳴ってシミターが弾き飛ばされるイメージが重なる。
しかし、そうはならなかった。
ウォンと風切り音を鳴らす空間を挟んで、二人はほぼ同時に回転していた。
シミターが弾かれたかのように見えたが、剣と剣が打ち合わされる音は全く聞こえなかった。
フィオリトゥーラがくるりと構えなおす頃、先に回転を終えたディルは実戦さながらの反応で、トントーンと低く後方に二度跳躍し、大きく間合いを外す。
そしてその離れた場所で、ディルはシミターを素早く鞘へと納めた。
その顔をうつむかせたまま、彼は大きく息を吐きだす。たった一瞬の動作を終えただけだというのに、そのまま肩で息をし始めた。
ガルディアもまた、ほうっと息を吐く。
呼吸を止めていたことに、それで気がついた。手にしていた両手剣の鞘を握る力も、いつの間にか随分と強くなっていた。
凄いな、と素直に思った。あまりにも一瞬のことだったが、ガルディアはそれを見た。
ディルは予測で動かなかった――。
もちろん、どこからどう攻撃が来るかはわかっていたわけだが、それでも、見てから反応して避けたのだ。
「よし……」
ディルは顔を上げず、うつむき加減のままに歩きだす。ガルディアの脇を足早に抜けると、早々にテラスから屋敷の中へと姿を消していく。声をかける間もない。
「フィオ、ありがとな。二人とも、明日はちゃんと起きろよ」
声だけが届いた。遠ざかっていく足音。
「お見事です……」
ようやく構えを解いたフィオリトゥーラは、すでにこの場にいないディルへの賛辞の言葉を口にした。
燭台の明かりが照らす薄闇の中、残された二人はディルが去った方向をただ呆然と見つめた。
階段を上り、自室である三号室へと戻ったディルは、扉を閉めた後、その扉に身を預けて大きく息を吐きだした。
身体の震えを悟られまいと早々に退散したのだが、一人になってもそれはやむどころか、より大きく増していた。
がくがくと動く身体は、まるで自身のものではないようだった。
これが、恐怖によるものなのか、それとも歓喜に震えているのか、それすらわからない。
だが、これだけはわかる。自分は、確実に何かを得た。




