50.人間の世界
光に包まれた広場で、ガイアは茫然としていた。
ここがどこなのかは分かる。
冥界、天界、そのように呼ばれる死後の世界。
正確には、その前の生と死の間となる場所。
審判の間とも呼ばれている、生き返る可能性のある魂が保存される広場だ。
これから選別され、転生するか、虚無へ落とされるか、大いなる意思によって決められる。
これは己の世界を与えられた神とて逃れられぬ世界の掟である。
「……私は精一杯やりました。その結果がこれだと言うのならば、甘んじて受け入れましょう」
ガイアがしばらくそのまま待っていると、天界から一筋の光が射し、男が現れた。
それはガイアもよく知る男である。
「ヘラクレス……」
「母さん、久しぶり」
ガイアはヘラクレスと抱擁を交わした。
彼だけは、傍にいてくれる。
そう思うに充分な暖かさを感じた。
「ヘラクレス、聞いてください。サヴァスが……」
「ああ、分かっているよ。僕もサヴァスに殺されたんだ」
「やっぱり……。あの子が悪い道に走ってしまったのが、心配で心配で。どうしたらいいのでしょう」
ヘラクレスは優しく微笑んで、言った。
「母さん、母さんはまだ転生するべきじゃない。サヴァスが心残りだろう?」
「ええ。でも、もうどうしようもありません。ここへ来てしまったからには……」
「いや、まだ手は残っている。あの柱を見てくれ」
ヘラクレスの指が示す先に、光の柱があった。
肉体が魂を呼ぶ光の道である。
「母さんのために、肉体を確保したんだ。あの世界で力を蓄えて、また戻ってきてほしい。そしたら、一緒にサヴァスを止めよう」
「肉体の確保だなんて、いったいどうやって?」
「魂の方に僕の体をあげたのさ。彼は喜んで僕の体に入って、母さんを助けた」
「私を助けた? あの男が?」
「そうだよ。母さんはあのままあの世界にいても、弱っていくだけだった。一度、自由の身になる必要があったんだ。しばらくリフレッシュしてさ、やり直そう。サヴァスだって、分かってくれるよ」
なんと出来た息子なのだろう、とガイアは感動すら覚えていた。
これほどまでに母の想いをくみ取ってくれているとは。
「さあ、光の中に入って。僕はずっとここで母さんが帰って来るのを待ってるから」
「ヘラクレス、感謝します。私の自慢の息子です」
ガイアは、ヘラクレスに見守られながら、光の柱の中へと消えた。
視界が眩しい。
ガイアはすぐに目が覚めた。
水滴の落ちる音や、聞いたことのない音が一定の間隔で鳴り続けている。
顔にはよく分からない透明のマスクをつけられ、手足は硬い棒きれで固定されていた。
意識が段々とはっきりしてくると、ここが室内であることが分かった。
窓の外には鉛色の空が見える。
ぼうっと眺めていると、何人かの白い服を着た人間たちが慌ただしく入ってきた。
「良かった、目を覚ましたんですね。自分の名前、言えますか?」
「自分の名前……」
ガイアには分かるはずもなかった。
名前なんかよりも、この状況が一体どういうことなのか知りたかった。
「あの、何があったんですか? 私、何も覚えていないんです……」
そう言うと、「意識の混濁がみられる」「記憶に障害が……」などと後ろに立っている連中が小さな声で言っているのが聞こえた。
彼らが医師なのか助手なのか、ガイアは興味がなかったが、ともかく現状を正確に理解する必要があったため、一切の会話を聞き洩らすわけにいかなかった。
「……落ち着いて聞いてください。あなたはトラックにはねられて、意識不明の重体だったんですよ」
トラック、とガイアは小さく繰り返した。
知らない名だが、生死の間を彷徨わされたところを見るに、何か強い魔物か何かなのだろう、と考えた。
魔法と魔物が跋扈する世界しか知らないのだから、トラックが鉄で出来た乗り物であるなどと分かるはずもない。
ガイアは洪水のように聞きなれない言葉を聞きながら、ふと思い立ち、何の気もなく聞いた。
「この世界の神は誰ですか?」
医者たちは顔を見合わせた。
この少年が熱心な宗教家には見えない医者たちは、当然ひとつの結論を導き出した。
「あの、あなたの名前を言えますか?」
「私はガイア。この世界とは違う世界の神、大いなる意思から混沌を与えられたものです。この世界の神は当然私のことなど関知しているのでしょう? どこにいるのですか?」
医者は屈んで、ガイアと目線を合わせて言った。
「あなたは桐谷時雨さんでは?」
「違います。私はガイアです。そのような名ではありま、せ……」
不意に、ガイアは口を閉じた。
目は宙を見つめ、焦点はあっていない。
医師たちの呼びかけも耳には届かない。
ガイアは、戦っていた。
徐々に魂を蝕んでいく、この世界の『規則』と。
(まさか、こんな、こんなことがあるなんて!!)
ガイアの魂や記憶は、体に、ひいては脳の各機能に引っ張られていた。
それを言い表す言葉をガイアは知らず、魔法や魔力と同等のものであると感じていた。
時雨の暮らしていたこの世界、虚無の世界は正確には神や仏のいない世界ではない。
生命力や魔力、神通力、その他の精神エネルギーの存在しない、神や仏の『存在できない』世界である。
ガイアの魂は強靭な生命力と魔力によって守られているため、数分は無意識に耐えられていた。
しかし、一度魂が電気信号へ変えられ始めると、ガイアにそれを止める術はない。
なぜなら、魔法が使えないからだ。
脳に蓄積されている時雨の記憶や感情と、ガイアの魂の情報とが混ざり合い、まさに混沌とも言うべき意識下において、ガイアは生き残るため、ひとつの選択を選んだ。
「あっ! 桐谷さん!?」
ガイアは医者の胸ポケットからボールペンを奪い、喉に突き刺した。
魂が消滅する前に死ねば、完全に消えることだけは避けられる。
もう一度あの広場へと戻り、別の世界を探せばいいだけだ、とガイアは薄れゆく意識の中で考えたのだ。
しかし、ガイアには誤算があった。
それは、ここが病院であるということである。
そして、人間はそう簡単に死にはしない。
ガイアはすぐに治療され、事故の後遺症で記憶障害があり、精神薄弱であると診断され、自殺未遂も行ったために、精神病棟へと入れられた。
そのころにはもう、彼女は自分がガイアであるのか、時雨であるのか、その区別すらもつかなくなり、考えることが出来なくなっていた。
ガイアは二度と、自分が神であることを思い出すことはなかった。
「……うっ」
時雨は、閉じた目を薄く開いた。
視界のほとんどを白い何かが埋めており、ぼやける焦点をどうにか合わせる。
「トキサメ!」
時雨が目を覚ましたことに気がつくと、顔を覗きこんでいたムルカは飛びついた。
寝室のベッドで、時雨は十日も眠っていたのだ。
宝玉がなくなったことにより一度死にかけたが、すぐにゼナから仕込まれた小さな三つめの宝玉が力を発揮し、体から魂が剥がれてしまう前に、ムルカがその死霊術で定着させることが出来た。
体に移った黒い炎は、骨犬が綺麗に嘗め回してしまっていたらしかった。
「ガイアは、どうなった……?」
「いちかばちかでしたけど、ガイアはアグノスが飲み込みました。サヴァスさまが言うには、ヘラクレスが上手くやってくれたみたいですね」
「そうか……」
時雨は以前のように生命力に満ち溢れたような感覚を失っていた。
技術は失われていないが、人間離れした筋力や無尽蔵の体力はなく、空中を漂う魔力の流れも見えない。
もう今までのような無茶は出来ないだろう、と思った。
部屋にアリアネがいることにも気がつき、時雨は言った。
「これから、どうするんだ?」
「私よりも君だろう?」
「俺はいいんだよ。どうにでもなるんだからな」
アリアネはその返答にきょとん、としたあと、笑って言った。
「どういうことだ、それは? とりあえず私は、一度ギルドへ戻る。ウィンドブロウの復興もしなければならないしな」
「そのあとは?」
「そのあと、か。まだ考えていないが、今まで通り、かもな」
「……戻れるものかよ」
「さて、どうだろう。少なくとも今はまだ、大丈夫だ」
ステラの居なくなった今、アリアネに猟犬を続ける理由はなかった。
――――理由がないのはそれだけではない。
生活すべてがステラを中心に回っていたために、主軸を失ったアリアネはバランスを崩したコマのように傾き、今にも倒れそうであった。
二人の会話をくみ取れないムルカは間に入ることが出来ず、ただ聞きながらアリアネの表情を見ていた。
普段と同じように見えても、どこか儚く、今にも崩れてしまいそうな雰囲気を発している。
そんな様子を見ていられなかった。
「アリアネ、私と一緒にここで暮らしませんか?」
「ここで……?」
そんなことは考えてもいなかった。
元々冒険者ギルドで魔物と戦う日々を過ごしていたのだから、ここに移っても生活そのものは変わらない。
しかし、そう簡単に即決できるものでもなく、考えておく、と保留するに終わった。
二人はムルカに連れられ、サヴァスの元へと向かった。
彼は玉座に座り、その隣にはグリゴリスとテレサ、キプロスが立っていた。
「無事に戻れたようだね」
「ゼナのおかげだ」
「そう言ってもらえると妹も喜ぶ。君たちに話しておきたいことがある。軍団の内部、と言っても生き残っている者はわずかだが、彼らには話して了承を得てある。
――――軍団は解散する。ガイアを消滅させるという目的は達成されたこともあるけど、もう僕に彼らを指揮できるだけの力がないのが一番大きい。今回、アリアネの妹を初めとした沢山の者が被害にあったように、またこういうことが起きないとも限らない」
ムルカは驚いてしばらく呆けていたが、すぐに反対した。
「駄目ですよ! だって、ここを拠り所にしている人たちだっているはずです! 私だって――――」
続けようとしたムルカを、サヴァスは制した。
「待て、ムルカ。まだ続きがある。軍団は解散するが、ムルカが継ぐというのなら、それでも良い。軍団の存続を決めるのはムルカで、そのムルカについて行くか決めるのは、彼らだ。事前にそういった話を通しておいた。で、どうする?」
「……やります。だって、無くなるなんて、嫌ですから」
「そう言うと思ったよ。グリゴリス、頼んだよ」
グリゴリスは大きなため息をついた。
「グリゴリス……」
「勘違いするなよ。ムルカひとりでは何もできまい、と思ってのことだ」
「そんなこと言って、本当は心配なくせに」
「む……」
テレサは笑いながらグリゴリスをつついた。
彼女も当然ムルカにつく、と言った。
しかしもう一人、体の大きなキプロスは、サヴァスについて行くと決めており、ムルカたちとは袂を分かつことを告げた。
「サヴァスさまはこれからどうするんですか?」
「僕は隠居するさ。ガイアという脅威が完全に取り除かれた今となっては、これ以上人間社会に携わるのはナンセンスだ。どこか静かな場所でも探すよ。住処が決まったら文でも送ろう。さて、早速下の者たちにも伝えよう。――――ああ、そうだ。君はどうするんだ?」
サヴァスは時雨に聞いた。
「俺は、世界をゆっくり見て回るつもりだ。この世界にはまだ出会っていないものがたくさんある」
「出会ってないもの?」
「『俺よりも強いやつ』だ。ここ数か月でも何度か戦ったが、まだ全部と出会ったはずはない。東の大陸だってあるしな」
「それは死ぬまで続く道だよ。いいのかい?」
「もうとっくに歩き始めてんだ。良いも悪いもあるか」
「軍団に入る気はないのかい」
「今はまだ、な」
サヴァスは残念に思ったが、時雨がそういう人物であることを、ムルカは知っていたため、無理には引き留めなかった。
そもそも無理矢理連れてこられたようなものなのだから、これ以上つき合わせることもない。
「トキサメ、今までありがとうございました。トキサメがいなかったら、ここまで来られなかったでしょう。遅くなりましたけど、たくさん、この世界を楽しんでください」
「手が借りたければいつでも呼んだらいい。すぐ駆けつけるぜ」
「ありがとうございます。でも、そんなことにならないよう、これからやっていきますから」
「そうか、そうだな。頑張れよ」
時雨は噛み締めるようにそう言って、ひとり、どこへと通じているかも分からない魔法の回廊へと足を踏み入れた。
強いやつでなくても、まだ見たことのないものがたくさんあるはずだ。
その全てに出会うまで、時雨の『終わり』は迎えられそうになかった。




