49.決着
魔法の回廊はずっと真下へと続いていた。
飛び込んだはいいものの、ムルカは着地のことなど考えていなかった。
「これ何メートルくらいあるんですか?」
落ちながら、時雨へと聞いた。
「六百メートルくらいか?」
「ろっぴゃ……!」
このまま地面に激突すれば即死は免れない。
ムルカは骨犬を抱きしめた。
「アグノス、着地頼みますよ!」
骨犬は力強く、がう、と吠えた。
「そろそろ抜けるぞ。ムルカ、備えろよ」
出口の明かりが近くなり、時雨が言った。
下の世界には何か光るものがあるのか、地面は見えない。
出来るだけ高くないところに出ることを祈った。
穴を抜けると、空間が開け、だだっ広いところへと出た。
真下にはクリーム色の巨大な女神、ガイアが居た。
その周囲の地面には血の滲みがいくつも出来ている。
考えるまでもなく、軍団は壊滅していた。
「アグノス!」
骨犬は巨大化し、ムルカを背に乗せて壁を蹴って地面へと着地した。
「俺は、無事に降りられないだろうな」
そう言って呟く時雨の服に何かが引っかかった。
「アリアネ?」
アリアネは何も言わず剣の端に時雨を引っかけ、勢いを殺すように回転し、一緒に着地する。
「悪い。助かった」
アリアネはすぐに視線をガイアへと移す。
一瞬も油断は出来ない。
骨犬に乗ったムルカは仲間たちの死体の間を歩き、サヴァスの前へとついた。
「ムルカ……」
「サヴァスさま。ただいま戻りました」
そう時間は経っていないはずだが、サヴァスは一層やつれ、その様子が今の戦況を物語っていた。
「ムルカちゃん、よく聞いて。『軍団』は負けたの。サヴァス様はみんなの身の安全を保証してもらうために、ガイアへ降服するつもりよ」
「……そう、ですか」
「――――反対しないの?」
ムルカはかぶりを振った。
「『軍団』はサヴァスさまのものです。私にどうこう言う資格はありません。私だって、これ以上みんなが傷つくところは見たくありませんし、それで助かるのなら降服したらいいと思います」
「ムルカちゃん……」
ムルカはガイアの方を見て、言った。
「ガイア! サヴァスさまが負けを認めたら、みんなを無事に帰してくれるんですね?」
「私は神ですから、それくらいの寛容さは持ち合わせています。その証に、手を出さないので、撤退してみてはどうでしょうか?」
「サヴァスさま。みんなを城へ帰らせてあげてください」
サヴァスは複雑な表情をして頷き、テレサとキプロス、グリゴリスに命令を出した。
歩けない怪我人には最低限の治癒魔法をかけ、何とか息のある者たちをこの場から逃す。
全員を安全な場所まで退避させ、檻の中には時雨とアリアネとムルカ、あとはサヴァスだけとなった。
「すまない、ムルカ。僕は自分が情けない。あれだけ大見得をきって、敗走することになるなんて、とんでもない話だ」
「いいえ、サヴァスさま。――――まだ、終わってはいませんから」
「え?」
ムルカはサヴァスに微笑んで言った。
「これからやることは私のわがままです。サヴァスさまはどうかみんなの所へ行って安心させてやってください」
「待て、ムルカ。いったい何をやろうとしている?」
ムルカは大きく息を吸い込んだ。
そして、今まで出したことのないような大声を出した。
「ガイア! よくもやってくれましたね!! 軍団に代わって私たちが相手になります!!」
サヴァスは何が起きたのかよく分からないようで、茫然としていたが、時雨は声をあげて笑っていた。
「最高だぜ、ムルカ。このまま終わったんじゃ、消化不良だしな。最後までやらせてもらうぜ」
「馬鹿な! 君ら全員死ぬぞ!」
「死ぬより嫌いなやつに負けたまま生きる方がつらいぞ。それもその下についてな。まあ、見てろよ。負けねえから」
「――――と、そういうことです、サヴァスさま。ここからは、私たちの戦いです。サヴァスさまを助けるための旅は、まだ終わっていないんですよ」
ムルカは骨犬の背に乗り、ガイアの方へ向き直った。
それを合図にしたかのように、時雨とアリアネはガイアへ向かって走り出した。
二人はほとんど同じくらいの足の速さであった。
「たった三人で挑んでくるなど、あなたたちは獣以下ですね」
ガイアは呆れて言った。
「サヴァスもこんな愚か者に慕われて、苦労しているのでしょうね。仕方ありません。私が解放してあげましょう。やはり、ひとりも生きて帰すべきではありませんでした」
空間の箱で、まずは時雨を殺そうとした。
それを察知したように時雨は足を止め、刀に手をかける。
ガラスの割れるような音が響き、空間の箱は時雨の体内に出現しなかった。
「それが聞いてた魔法だな。遅すぎる。こんな大振りな攻撃が読めないやつはいない」
「……何をしたのですか?」
「当ててみろよ」
ガイアはもう一度、時雨へ向かって空間の箱を作ろうとする。
しかし、またも割れ、箱を作ることが出来ない。
ガイアは確実に殺すため、白い宝玉を発光させた。
時間を止め、箱を作ってしまえば、この不可解な状況を突破できると考えたのだろう。
時雨の上半身は確実に箱に覆われた。
あとはこれを捻るだけで上半身と下半身が分かれ、時雨は絶命するはずである。
時間が動き出すと同時に、時雨は刀を抜き、空間の箱を切り裂いた。
それは空間を捻るという動作よりも早い、居合の技である。
「何ですかそれは。いったい、何の魔法なのですか」
「魔法じゃねえ。剣術だ。そんなことより、後ろ見てみろ」
背後から、活性を解いたアリアネがガイアへ右手を伸ばしていた。
咄嗟に振り向いた時に、宝玉がアリアネの右手へと触れる。
時雨の不可解な技を見た後で、警戒していたことが仇となった。
アリアネは宝玉に対して『吸収』を行った。
しかし当然、アリアネの体に納まりきる魔力の量ではない。
「馬鹿な。あなたのような器で吸い取れるようなものでは……」
そのようなことはアリアネも承知だ。
だが、こうしていれば宝玉の魔力の流れは乱れて、時間停止は出来ない。
アリアネの右手が雷に変わり、それが剣へと伝わって、放電していく。
魔力を流せば皮膚に刻まれた魔方陣が勝手に反応する彼女の両腕は、もはやただの道具と同じであった。
自在に出力の調整をすることは出来ないが、左手から身体に吸収した魔力を、右手がそのまま外へ放出しているのだ。
しかし、その程度の放出は海の水をコップですくうようなものであり、ガイアにとっては痛くも痒くもない。
ガイアは厄介だったアリアネを先に殺してしまおうとした。
今ならば動けまい、と箱を作ろうとしたその時である。
「ガイア!!」
空中から大きな影が覆いかぶさり、ガイアは地面へと叩きつけられた。
三つ首の骨犬が、ガイアの肩部へ噛みつき、噛みちぎろうとしていた。
「これが狙いだったのですね。無駄なあがきです」
骨犬の体に空間の箱を作り出そうとするも、黒い炎に飲まれ、上手くいかない。
ガイアはその炎に見覚えがあった。
サヴァスに与えた冥界の炎である。
決して絶えることはなく、魂を焦がす黒い炎は、魔力や生命力の隔てもなく、空間の箱ですら燃やしてしまう。
サヴァスの力が弱まっていたのは、火を継いでしまっていたからだ、とガイアはようやく理解した。
そして、目の前にいる骨犬に集中し過ぎていたため、歩みよる時雨に気がついていなかった。
刀を上段に構える、『落雷』の形をとった時雨は、地面へ押さえつけられたガイアの体を斬った。
「馬鹿な……」
高密度の魔力に覆われていたその体は、何があっても傷がつくことなどない。
この世界に存在する如何なるものであってもそれは叶わない、と確固たる自信を持っていたガイアは驚きのあまり言葉を失った。
体を斬られ、犬のエサとなっている事実が受け入れられず、力なく呟いた。
「馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な。馬鹿な……!」
「それしかいえねえのか。斬れない敵だったらどうしようかと思っていたが、その心配もいらなかったみたいだな」
ぶつぶつと呟くガイアの体に、ヒビが入った。
アリアネはすぐに離れたが、時雨はそのまま傍で立っていた。
ガイアの体を一本の腕が突き破り、まるで生まれるようにして、人型で光り輝くものが姿を現した。
人間の大きさになったガイアは、自分の体を貪る骨犬の頭を片手で掴み上げ、反対側の壁へ向かって投げつけた。
檻が震えるほど大きな衝撃と音を立てたが、時雨は一切そちらの方は見ず、ガイアを見据えていた。
骨犬は壁にぶつかった衝撃で気を失ったようで、ムルカのよびかけにも反応をしない。
「……馬鹿力なんて見飽きてんだよ。何かもっと新しいのねえのか」
時雨は呆れたように言った。
「愚かなる男よ。私はこの世界をあまねく束ねる神、ガイア。私の失敗作にここまで追い込まれるとは思ってもいませんでした」
「ある意味、成功だろ。強い生き物が出来たんだからな」
「いいえ、結局、人間は弱いままです。この世界には相応しくない」
「確かに人間は弱い。俺だってそう思って、ここまで来たんだからな。でも、お前も同じだ。お前からは勝とうって意志が感じられない。俺と同じ舞台にすら立っていないんだぜ」
言っていることが全く理解できない、とガイアは時雨の言葉に反応もせず、苦し紛れに言った。
「あなたは早くその体をヘラクレスに返しなさい」
「本人からもらったんだ。文句があるならあいつに言え」
「嘘を言うな。あなたが騙して奪ったのでしょう!?」
ガイアは苛立って言った。
「聞く耳持たねえって感じだな。そんなに嫌なら俺を殺して、奪い返せよ」
時雨は刀の柄に手をかけた。
その時になって、ガイアは生まれて初めて、気迫というものを肌に感じた。
どんな魔物であっても、これほどまでに闘志を向けてくるものはいなかった。
誰にとっても死は恐怖すべきもので、強者との戦いは回避すべきものであるはずである。
しかし、この男にそれは当てはまらない。
むしろ、それを望んでいるようでもあった。
おおよそ理解できる感覚ではないが、それゆえに、管理の出来ないこの人間はここで消しておかねばならない、と感じていた。
この感覚が伝染してしまえば、人間たちの価値観や道徳観が一変しかねない。
「あなたは危険な存在ですね。私がここで殺してしまうのが、世界のためです」
「だったら早く来いよ。能書き垂れるのが神さまのやり方なのか?」
「もう始まっています」
時雨の足元の地面から二本の空間の柱が生えた。
時雨は瞬時にそれを切断、破壊する。
空間の破片がパラパラと散りながら、無数の細い針となり、時雨の上へと降り注いだ。
「ガラスによく似ているが、砕けば消滅するとは限らないよな」
ガイアは当然、時雨がその破片を避けるか弾くかして行動を起こすと思っていた。
そうすれば、体内に箱を作れる時間が稼げる、という算段であったのだが、時雨は全くそういった行動を取らなかった。
降り注ぐ鋭利な空間の針は、次々に体へ刺さっていく。
しかし、全く、一瞬すらガイアから目を離さなかった。
痛みがないとはいえ、ショック死してもおかしくない量の傷を作りながらも、真っ直ぐに刀を構えてガイアを待つ。
「異端……」
口をついて出た言葉はそれであった。
それ以上に彼を表す言葉を、ガイアは思いつかなかった。
動きを止めたガイアへ、時雨はすり足で近づいた。
まるで地面の上を滑るようにして、素早く目の前に現れた時雨に、ガイアは驚いてのけ反る。
「ひっ……!」
咄嗟に避けたガイアの右肩から先が宙を舞った。
光子で出来た体に痛みはなく、すぐに再生するが、ひとつの人格である以上恐怖はある。
未知なる生物である彼自身に対する恐怖である。
何を考え、何を仕掛けてくるのか、全くの未知。
全てを知っているはずの神である彼女にとって、こんなことは初めてであった。
「なぜなのですか? なぜあなたは、そこまでして私に……」
「理由なんかねえよ。ただ、頼まれたからな」
「頼まれた?」
「サヴァスを助けてくれって」
「それは私の役目です! あなたたちのすることではありません!」
「それこそお前のやることじゃないだろ。あいつだって、もう一人立ちしてんだよ。いい加減に子離れしやがれ」
「勝手なことを!」
空間の箱を作り出し、時雨を狙うも、今度は叩き落とすことすらせず、全て躱していく。
小さく、人型になったガイアは、巨大な魔力像であった時よりも魔法の精度が増しているのだが、それでも時雨を捕えることができない。
どれだけ早くても、どれだけ精密に攻撃しても、全く届くことのない魔法を撃つことを、ガイアは辞めた。
「もう、いいです。充分に分かりました。あなたは強い。この限定的な状況でなら、恐らく私よりも。全く、油断しました。自分に敵わないものがこの世界にあるとは思いたくなかった……」
「諦めるな。戦え」
時雨は淡々と言った。
「酷な男ですね。でも、私は倒すことを諦めたと言った覚えはありません。あなたを倒して、彼らを追うことを諦めたのです」
「あ?」
ガイアは自分と時雨を空間で閉じた。
刀の届く範囲の外に箱が現れたため、時雨は為す術なく捕らわれてしまった。
次の瞬間、箱の中は暗闇に包まれた。
「サヴァスの黒い炎は、私が与えたもの。私に使えぬはずはありません」
身の焦げる匂いすらもしない、全てを焦がし、全てを燃やすだけの冥界の炎。
空間の箱ですら、強固に作っておかなければ危うい炎である。
とかく、動く相手には使いづらい魔法であるが、こうして使えば確実に当てられる。
時雨の様子は見えないが、この炎の中で生き残れるはずがない。
そう思っていたガイアの眼前に手が伸び、喉を抑えた。
「おお、居たな」
「な、なぜ……」
魂すら燃やし尽くす炎の中で、平気でいられるはずがない。
世の理に反することはガイアですら出来ない。
だから、時雨が無事なはずはないのだ。
「俺が死ぬ前にお前を倒せば、俺の勝ちだ」
まるで炎など燃えていないかのように、時雨は言った。
この苦しさを、ガイアは知ってる。
だからより一層、全く意に介さない彼に対して、畏怖を抱いた。
「ふざけ……! 私だけが、燃えている……と言う……のか!」
一度つけた炎を消すことは出来ない。
ガイアは耐え難い苦痛に耐えながら、時雨が燃え尽きるのを待つつもりでいた。
魂の質量、生命力の絶対量に天と地ほどの差がある。
同時に燃え始めたなら、勝てる勝負であった。
状況を大きく見誤っていた。
時雨はガイアを抑えたまま、刀で斬りつけた。
再生する体を、何度も、何度も、斬り続けた。
ガイアの体の破片は炎に飲まれ、消えていく。
「消えるのか、この私が……」
「ああ、消える。もう、終わりだ」
ガイアは薄れゆく意識の中で、時雨の宝玉にヒビが入るところを見た。
確かに燃えているのだから、何も起こらないはずはなかった。
これは最後の機会であると考え、力は入っていないが、右手を動かして、宝玉へ触れた。
壊れかけた宝玉に、無数の箱が出来る。
それを、ガイアは一斉に捻り、破壊した。
「ふふふ、ふははははは……。道連れです。こうなれば、止まるしかないでしょう?」
時雨は構わずガイアを斬り続けようとしたが、握る力すらないのか、ガイアの体に刃が通らない。
「まだ、私の方に分があるようですね。先程からあなたの仲間が必死で外からこの箱を破ろうとしていますけど、全く歯がたっていないようです」
ガイアも足元がふらつき、立つだけで精いっぱいだが、宝玉を失った時雨も見るからに満身創痍である。
外ではアリアネが箱を切りつけていたが、傷のひとつもつかないでいたのだ。
「もう、話す気力もないようですね」
ガイアは嗤って言う。
先程まで動いていたこの男は、無防備に立ったまま、刀を斜めに持ち、振ることもしまうことも出来ずにいる。
身体の端には黒い炎が燃え移り、魂が焼け焦げてしまうまでそう時間はかからない。
勝った、と確信した瞬間である。
「な、なに!?」
決して割れることのない空間の箱がきしむ音を立てた。
上下から挟むようにして、巨大な牙がいくつも刺さっていたのだ。
「そんな、馬鹿な! うわ!」
空間の箱が持ち上げられたことで、ガイアは壁へ叩きつけられ、やっと外の様子を確認できた。
ガイアの外殻を食い、さらに強靭に、さらに巨大化した骨犬が、箱を噛み砕こうと咥え上げていた。
喉の奥には黒炎が燃え盛っている。
今の弱った体でここに落ちれば一溜まりもない。
「やめさせないと、あなたも死にますよ!」
ガイアは時雨に呼びかけるも、すでに時雨は気を失っており、横たわっていた。
箱にヒビが入っていく。
「お前たちやめなさい! この男も死にますよ!」
必死に声を荒げるも、空間の箱の外にいるムルカたちには届かない。
「あ、あれは!」
遠くにサヴァスを見つけた。
彼は魔法を使えるほど体力が残っておらず、戦いの様子を遠くから見守っていたのだ。
助けを呼べばきっと助けてくれるに違いない、と自信があった。
母である自分を見捨てるはずがないのだ。
箱は骨犬の牙に耐えられず、粉々に砕け散った。
待っていました、とばかりにガイアは叫んだ。
「サヴァス! 私を助けるのです! あなたの母ですよ!」
ガイアの横を時雨が転がり落ちていき、炎の中に飲まれた。
それを見ながら、ガイアは嗤い、首の骨に掴まって、さらに言った。
「あの男は死にました! サヴァス、今ならまだ許します! 私を助けなさい!」
手が震え、今にも落ちそうになっていたが、まだなんとか数分なら耐えられそうであった。
「サヴァス!? どうしたのですか!?」
動く様子がないサヴァスに、ガイアは半狂乱になりながら叫ぶ。
「無駄ですよ。あなたの言うことなんて、聞きませんから」
背中に乗っているムルカが、ガイアへ言う。
「そんなはずはありません! サヴァスは私の子なのですよ!」
「だから何ですか?」
「だから――――」
ガイアの掴んでいる骨の上に、アリアネが立っていた。
アリアネはガイアの手に剣を突き刺し、魔力を流した。
銀色の魔法陣が浮かび、『反射』の魔法が発動して、ガイアの手が弾けた。
「そんな、私は……!」
その先の言葉は、黒い炎に飲まれて消えた。




