35.少女の奮闘
「雨……」
最初に目を覚ましたムルカが、そう呟いた。
「いつから降ってるんだ?」
時雨も目を覚まして言う。
ずっと眠っていたために体が強張っているのか、軽く頭を振って意識をはっきりとさせる。
「私たちがここに来た時は降っていませんでしたから、それほど経っていないと思いますが――――」
空を見上げるゼナを見つけ、言葉を止めた。
「どうしたんですか?」
「この雨、魔力がある。魔法――――いや、呪術かな」
「え?」
確かに雨の滴から微量の魔力を感じる。
どんな効果があるのかは分からないが、良いものではなさそうだ、とムルカは思った。
「そうだ、アリアネは一体どこへ!?」
岩山の淵まで行き、下を覗きこもうとしたその時、一筋の閃光が空へと届き、雲が切られ、雨が止んだ。
「お、魔力を弾いたみたいだね。アンタら、下に降りられる?」
「ええ。トキサメ、行けますか?」
時雨は何か探しているのか、周囲を見回している。
「トキサメ?」
「俺の剣がないんだが」
「あ、ああ、剣、剣はちょっと……」
「なくしたのか?」
「だって、仕方なかったんですよ。トキサメを助けるのに精いっぱいで……」
「そうか。ありがとう」
「え、ええ、はい。どういたしまして……」
「なんだ、何か変だぞお前」
自分でもよく分からないが、時雨の生きていた頃の姿を見て、なんだか調子が狂っていた。
見た目は屍でも中身が普通の人間だと再認識させられたせいだろう。
「な、なんでもないです。でも、剣が無くて大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないが、拾ったもんだしな。まあ、どうにかなるだろ」
「あのさ、お二人さん、早く行かない?」
黙って聞いていたゼナが口を開いた。
「ああ、ごめんなさい。行きましょう」
「アタシから行くから、あとは好きに降りてきて」
ゼナはアリアネがやったように、助走をつけて、一気に飛び降りた。
「ムルカ、あんな風に飛べるか?」
「……やってみます」
「無理だろ。じっとしてろ」
「うわ!」
時雨はムルカを抱え上げ、山の淵まで歩いた。
「ちょ、ちょっと、トキサメ、これは……」
「口を閉じてろ。舌噛むぞ」
時雨は強く踏み込み、山の頂上から飛び降りた。
地上で激しい光が発せられていることが分かり、気持ちは急くものの、落ちる速さが変わることはない。
何秒の間、空中を飛んでいたことだろう。
着地と同時に時雨の両足の骨が砕ける音がした。
「え、ええ!?」
「やっぱり無傷ってのは無理だったか」
まるで他人事のように時雨は言う。
すぐに完治すると分かっているものの、ムルカとて皮膚を突き破った骨の断片などを見たくはない。
「俺は大丈夫だ。先に行け」
ムルカは頷いて、時雨の足が治る前に、ゼナを追ってアリアネの元へ向かった。
「アリアネ!」
マリスの連れていた巨体の屍に取り押さえられているアリアネの姿が見える。
ゼナはそこまでは近づかずに、その様子を見ていた。
「助けないと!」
「ちょっと待ちな。もう少しだから」
「何がですか! アリアネ!」
ゼナが何をしようとしているか分からないが、アリアネが危機的状況にあることは変わらない。
ムルカは骨犬を出し、ギガンテスの足元に食らいつかせた。
「やっときたか。見捨てて逃げたのかと思ったぞ」
「誰が見捨てるものですか! アリアネ、今助けますから!」
近寄って初めてアリアネが全身を鎧に包み、獣の姿になっていることに気がついた。
そして、アリアネの精神が耐え難い怒りに支配されているということにも。
「これは、何があったんですか……」
「いやな、少しばかり感情を刺激してやったのだ。妹を殺してみせたらすぐに活性化したぞ」
「妹……ステラをどうしたんですか!」
「ですかですか、と質問だらけでうるさい奴だな。貴様は何の役にも立たんのだから黙ってみていろ。所詮は連中のお気に入りでしかない小娘が!」
ギガンテスに噛みつく骨犬は一蹴され、バラバラと砕け散った。
「同じ犬でも貴様のは随分と軟弱だな。こいつはもう少しもったぞ」
そう言って、マリスは動けないアリアネの頭を踏みつけた。
「見るがいい、この無残な姿を。これがあの人類種最強と名高い人狼の『猟犬』だぞ。ククク、たまらぬ」
「その汚い足をどけてください!」
「どかせてみせれば良いではないか」
ムルカはいい加減に辛抱できなくなり、骨鞭をマリスへと振るう。
しかし、雷の体をしたマリスの体に巻き付くことも、刺すことも、叩きつけることも叶わない。
悲しいほどに無力であった。
「だから言っただろう。そこで黙って顛末を見ていればいい。貴様には何も出来ぬ」
「……確かに、私にはあなたを倒す力はありません。骨鞭も骨犬も、その雷には通用しないでしょう。でも、何も出来ないことが、何もしないってことの理由にはならないんですよ!」
突如、ギガンテスの右足が膨れ上がり、それは体の内部を伝って中心へと上がっていく。
「何だ!? どうしたギガンテス!」
「カルディア! そいつの骨を全て砕いてしまえ!」
まるで大木を折るかのような、豪快な音が響き、ギガンテスはたまらず仰向けに 倒れ込んだ。
「どれだけ怪物でも、心臓を取り出してしまえば……!」
ギガンテスの中で巨大に育った骨百足は、胸部の中心から赤い玉を咥え、外に飛び出した。
「いつの間に仕込んだ?」
「私だって少しは成長しているんですよ」
骨犬が噛んだ時、体内に潜り込ませたのだが、それを教えてやる必要はない。
赤い玉を百足から受け取り、ムルカはさらにアリアネをその百足に乗せた。
マリスにすぐ後を追う気配はない。
「貴様をここで始末することは簡単だが、いらぬ恨みを買うことになるのは御免だ」
「部下には始末させようとしたじゃないですか」
「あれはあやつらが勝手にやったことだ。わしは知らん」
「そうやって責任逃れを……!!」
「今はそんなことどうだっていいだろう。取引をしないか」
「……取引?」
何を取引しようと言うのだろう。
アリアネを取り返した今、すでにマリスの手元には何も残っていないはずである。
「あの人狼には呪いをかけてある。妹にかけたものと同じだ」
「また性懲りもなくそんなことを!」
「聞け。解呪が出来るのはわしだけだ。そこで、だ。解呪と引き換えに貴様の屍をよこせ」
「トキサメを?」
「名などどうだっていい。あれはわしが新たに器として使わせてもらおうと思っていたもの。貴様に宝玉の使い方を教え、遺体に埋め込ませたのはそのためだ。中身は想定外だったが……。ともかく、あの人狼を助けたたくば、屍を差し出せ」
時雨をマリスの手に渡せば、アリアネを助けられる。
しかし、それでは時雨が確実に殺される。
どちらか一方しか助けられないという現実に、しばし思考が停止する。
「早く選ばねば、人狼は死ぬぞ。ただでさえ体が弱っているのだ。そこで呪いが進行すれば、どうなるか分かるだろう? 悩んでいる時間はないぞ」
マリスが焦らせるように言った。
不自由な二択をつきつけられたムルカは、必死に動かない思考を働かせた。
「私に、どっちかを殺せと言うんですか……」
「そうは言っていない。だが、どっちかは死ぬだろうな」
マリスはどうする、と嗤った。
己の背後に忍び寄る気配に気がつけないほど、夢中だったのだ。
「――――だったら、お前が死ねばいいんじゃないか?」
声がして、振り向くまでの間に、マリスの顔があった部分は吹き飛んだ。
時雨はどこから持ってきたのか、石材で出来た棒を手に、マリスの体を縦に切り抜けた。
「トキサメ!」
「おう。どっちかが死ぬ必要なんてないぜ。呪いってのはかけたやつを殺せば消えるんだろ」
「でも、マリスは……」
「分かってるよ」
時雨は体を雷でつなぎ合わせようとするマリスの体を、また別の方向から二度切り裂いた。
「これを繰り返されたら、反撃できないんだろ? 再生に集中してないと、体が無くなってしまうもんな」
「貴様……!!」
再生する方に魔力を使えば、攻撃は出来ない道理である。
並の斬撃ではこう簡単にいかないが、時雨の剣を振る速さなら可能であった。
何もさせてもらえないマリスにどう呪いを解かせるか考えていたが、不意に、ギガンテスが起き上がり、時雨に向かって拳を振るった。
驚きの声をあげる間もなく、まるで小枝のように宙を舞い、地面へぶつかり、その衝撃で石の棒きれは砕け、ばら撒かれてしまった。
マリスはそれを見て、勝利を確信したかのような表情を見せる。
骨を砕き心臓を繰り抜いたはずのギガンテスが復活し、頼みの綱の時雨は剛腕の前に倒れた。
「絶体絶命だな。もう少し足掻いてみるか?」
「骨を砕いたはずなのに……」
「それしきで倒れるものを作ってはおらぬわ。宝玉がなくとも貴様らの相手くらいは出来る」
「でも、傷の治りは遅くなっていますよ」
「だから何だ? 貴様だけでは倒せまい」
ムルカは骨鞭を垂らして、戦闘態勢を取る。
骨犬と骨百足を使った、先程と同じ手は警戒されて通じないだろう。
ギガンテスは百足の出た穴から血を流しながらムルカへ向きなおった。
あの腕で殴られたら、ムルカの華奢な体など一撃で粉砕されてしまうだろう。
緊張で汗が頬を伝った。
圧倒的戦力差だが、しかし、勝ち目が全くないわけではない。
胸の穴が弱点になるかもしれない、とムルカは考えていた。
どんな生き物であっても、その構造上、背中を真っ直ぐに一本通る脊柱を抜かれて立ってはいられないはずだ。
ムルカはさらに骨犬を召喚する。
「アグノス、陽動を任せますよ」
骨犬は了解したように低く唸り声をあげた。
「ギガンテス。殺すなよ、と言っておくが、まあ、奴が弱すぎて死んでしまった場合は仕方がないな」
マリスは含み笑いをし、ギガンテスを放った。
踏み出した一歩に、骨犬が噛みつき、ギガンテスはつかの間、そちらに気をとられ、手で払い除ける。
ムルカはその隙に、ギガンテスの肩に骨鞭を突き刺し、一気に詰め寄った。
虫を潰すかのように、ギガンテスは手の平でムルカを叩き潰そうとする。
ムルカは迫る手を避け、鞭は刺したまま背後へと滑り込んだ。
残る一本の鞭を巧みに使い、地面の上を飛ぶように移動しながら、ギガンテスの体に骨鞭を巻きつけていく。
三週ほど巻いて、ムルカは鞭を手放した。
手元の部分は獣の頭になっており、すでに巻きつけられている鞭に噛みつき、硬く結びついた。
「それで動きを封じたつもりか!」
マリスが言うも、ムルカは聞く耳を持たず、さらに作戦を進める。
ギガンテスは骨鞭を力で引きちぎるため、一度動きを止めた。
「今!」
ムルカは残った一本の鞭をギガンテスの穴へ伸ばして刺し、脊柱に巻きつける。
そして、一気に引っ張った。
「うわあああああ!!」
敵に背を向けてでも、力一杯に踏ん張って引き抜こうとしたが、全くびくともしない。
「フン、貴様の力では背骨を抜けまい。無駄なことはやめろ」
「まだわからないでしょう!?」
「魔力による筋力強化が出来ない、ただの子供である貴様には無理だ」
「ううっ……!」
もう、諦めるしかないのだろうか。
時雨は未だに気絶したまま、アリアネも百足に体を預けている。
もはや助けに期待できぬ以上、状況は最初よりもなお悪い。
「く、うう!」
ムルカは歯を食いしばって涙を流した。
なぜ弱いままでここまで来てしまったのだろう。
周りの皆が強いから、弱いままでいいと思っていた。
いつかは強くなりたいが、そのいつかは永遠に来ないとも、心のどこかで思っていた。
自分の愚かさが、悔しかった。
「もうやめろ。貴様は城へ戻って今まで通り安穏と暮らしておればいいのだ」
ギガンテスが、拘束していた骨鞭を引きちぎり、胸から伸びた鞭にも手をかけた。
ムルカにはあの怪力に対抗する手立てがない。
絶望的な状況であった。
「――――何だこれは!?」
マリスが驚く声でムルカは振り返った。
ギガンテスとムルカの間の地面から、一本の干からびた手が飛び出し、骨の鞭を掴んでいた。




