其の四十一 花のこと
宗二の母親は、母性を持って花に接してくれる唯ひとりの存在だ。
母親、祖母と立て続けに失った花にとって、非常に有難い存在であると同時に、もう失いたくないという恐怖を覚える相手でもあった。
彼女との会話は、花が経験することが出来なかった些細な母子の会話を疑似体験する様なもので、宗二のことがなくとも、共にいたいと思う。
だが、この場所、この家、そして彼を取り囲む環境は、あまりにも太一との思い出に近過ぎる。母親の存在は、その筆頭だ。
その為、宗二が太一の殻を破って己を取り戻す日が、こうも突然やって来るとは思ってもみなかった。大学に進学し、親元を離れる内に、少しずつ戻るのだろう。ずっとそう思っていた。
花にとって、宗二の母親は母親代わりの大切な人ではあったが、宗二にとって自分は太一の思い出と深く繋がり過ぎている。宗二に近寄り過ぎることは、宗二の為にならないのでは。
その思いに囚われ続け、だから宗二に自分の思いを伝える機会など訪れないと思っていた。
これまで、未来に大きな希望はなかった。唯一打ち込めたのが、陸上だ。走っていれば、余計なことを考えずに済む。ただひたすらタイムを縮めることだけを目標に走り続けられるのは、孤島にひとりで生きている様な孤独を抱えた花にとって、何よりの心の支えだった。
父は、花を腫れ物に触る様に接する。どう対応していいのか、父も分からないのだろう。
父とて、母親も最愛の妻も亡くし未だその悲しみから抜け出してはいない。だから、無理矢理仕事を詰め込む。忙しく過ごすことで現実から目を逸らしているところはやはり親子だな、と笑うしかなかった。
――なのに、まさか宗二から告白されるとは。
天に昇るような気分とは、このことを指すのだろう。
これまでとは打って変わった積極的な態度に戸惑うことも多いが、悪夢から醒めて自分を取り戻そうとしている姿は、純粋に好ましい。
まさかこんなに早く宗二と結ばれるとは予想だにしていなかったが、時折不安そうな表情を見せる宗二を安心させてあげたくて、花は彼を受け入れた。
もう二度と失いたくない。大切な人を失うのは、もう十分経験した。
宗二の部屋に向かう。おやすみのキスを花からするという、なんとも気恥ずかしい約束をさせられて、正直どういったタイミングでしたらいいのか、悩んでいた。
ベッドに入る前、寝る直前でいいだろうか。
どう切り出せばいいだろう。宗二はキッカケを与えてくれるだろうか。
未経験のことに既に頭はパンク気味だったが、これまでの孤独に比べれば、何とも幸せな悩みだ。
花はフッと小さく笑うと、宗二の部屋のドアを開けた。
中は電気が点いたままで、エアコンは効き過ぎる位に効いている。
「あれ、宗ちゃんもうお風呂から上がったの?」
宗二の父親からは、宗二が先に風呂に入ったと聞いた。だが、部屋には涼しげな佇まいで二段ベッドの下段に腰掛ける、宗二がいたのだ。
「やあ、花――」
「じゃあ、私も急いで入ってこないとだね」
持参した大きなリュックの前にしゃがみ、ガサゴソと中を漁り始める。今日は宗二の母親も大分疲れた様子だったから、こちらはさっと済まし、彼女には早く入って早く休んでもらおう。
「花」
花のすぐ横に宗二が立ち、手元が僅かに翳る。花は宗二を見上げた。宗二が着用している赤いTシャツが、目に眩しい。
いつもモノトーンを着ることが多い宗二にしては、珍しい色だった。
「どうしたの、宗ちゃん」
約束のおやすみのキスは、まだ後な筈だ。もしや我慢できなくなったのか。自分を取り戻した後の宗二の勢いなら、それもありそうだ。
宗二が、花の横に同じ様にしゃがむ。勢いよく手を伸ばしてきたかと思うと、大きな手で花の後頭部を鷲掴みにした。
「ちょ、宗ちゃん? 痛いよ……っ」
それまで無表情だった宗二の顔が、意地悪そうな笑みで歪んだ。
何かがおかしい――。
咄嗟に宗二の腕を掴み、その冷たさに、ドクン! と心臓が大きく跳ね上がる。真冬の公園の鉄棒の様な冷たさに、花は大きく目を見張った。
「宗……」
「花ばっかり、狡いよ」
歪んだ笑みを浮かべ続ける宗二の顔が、近付いてきた。腕を振り解こうと力を込めても、びくともしない。掴まれている後頭部に掛かる力は、恋人に対するものには思えなかった。
まさか、宗二の中の太一役が表に出て来たのか。
「宗ちゃん、痛いよ、離して……!」
訴えても、顔はどんどん近付いてくる。僅かな間に驚く程繰り返したキスだが、今はしてはいけないと何故か身体も心も抵抗していた。
宗二が、言った。
「お前に、宗二はやらない」
これまでに見たことのない程の妖艶さで、薄らと口角を上げる。
「宗ちゃん、待って、今のどういう……」
その途端、宗二の笑みが消えた。心底馬鹿にする様な目で、花を見つめる。
「お前のそういう鈍感なところが、大っ嫌いだ」
花は逃げられなかった。宗二の様子は明らかにおかしく、軽く支えている様にしか思えない手は、あり得ない程強く花を掴んでいる。
「馬鹿な女」
獲物をなぶる様な目で呟く宗二の目の下に、視線が行った。
どうして、それがそこにある。
「……‼︎」
花の目線で、何を見ているのか分かったのだろう。赤い服を着た宗二とは似て非なるモノは、ゴミを見る様な目で笑うと、花の唇を奪った。
「んん……‼︎」
あまりの冷たさに、身体が硬直する。拙い、これは拙い。働くのは思考のみ。口の中に、でろりとぬめった液状の糊の様な物が入り込んで来た。
喉の奥まで液体で満たされ、余りの苦しさに、目の前が段々チカチカと白く瞬いてくる。
宗ちゃん、助けて――。
儚いその願いは届かず、視界に入った泣きぼくろの記憶を最後に、花は意識を手放した。




