其の三十八 一生
おかしな空気が流れて居心地が悪くなった俺は、無理に笑顔を作る。
「そっか。そうだったんだな。まだ全然思い出せないけど、仕方ないよな?」
努めて明るく言うと、言葉の内容に安心したのか、花にも微妙ながら笑顔が戻った。
「さ、母さんが待ってるよ。またどうせ手伝えって言うだろうから、帰ろうか」
「……うん、そうだね!」
外に出ると、空気はむっとしていて重い。まるで服を着たままサウナに放り込まれたかの様なその不快感に、仕方ないのに苛立ちを覚えてしまった。母さんが子供の頃はエアコンなんて金持ちの家にしか存在しなかったと聞いた時は、現代人は随分と暑さ寒さへの耐性がなくなってしまったと思ったものだ。
蝉の声の代わりに、何かの虫の声が草むらのあちこちから聞こえる。あの洪水の様な大音量に比べたら、こちらの方が遥かに聞き心地がよかった。
横を静かに歩く花のこめかみに、汗が伝っているのが見えた。俺は唾を呑み込むと、光に引き寄せられる虫の様に、それに手を伸ばす。
「えっ? 何か付いてた?」
花が、驚いて飛び上がった。まさか、その汗を舐めてみたいなんて変態の様なことを考え、つい手が伸びましたなんて、言える訳がない。花の前では、まあもう泣いたりも散々してはいるが、出来る限り格好いい出来る男でいたいのだ。
「虫?」
わざと疑問形にすると、花が「ひゃっ!」と言って俺の腕に飛びついてきた。腕に押し付けられた胸の熱さに、ざわざわと胸がざわつく。この場合は、赤いTシャツの男や子供の手を見た時の様なざわざわではなく、外にいるのにイチャイチャしたいという健全な高校生男子の欲求を必死に抑え込むが為に起こるざわざわだ。
「花……キスしていい?」
欲望に負けた俺は、誰もいない暗い道で立ち止まると、横で俺にしがみついたままの花の顔を覗き込む。
花の大きな目には、街灯の明かりが映り込んでいる。それすらも自分ひとりの物にしたいと思う俺は、花にとち狂っているんだろう。
「えっ……そ、外だし」
「じゃあ、いつならいい?」
囁くような声で尋ねると、明らかに花がキャパオーバーになりつつあるのが分かった。花の部屋にいる時はそこそこ大胆なのに、やはりまだ外はハードルが高い様だ。
「よ、夜、おやすみのキスならっ」
また随分と可愛いことを言うものだ。でも、おやすみのキスは悪くない。
「じゃあ、今夜は花からキスしてくれる?」
花が照れまくって逃げようとするのが分かっているというのに、つい意地悪なことを言ってしまう。花の恥じらう姿は、俺のツボだった。恥じらえば恥じらう程、もっと奥まで暴きたいと思う俺は、サディストの傾向があるのかもしれない。
花は、唇をぎゅっと噛み締め、何かを必死で考えている様だ。俺は待った。今なら周りに誰もいないし、このままここでキスをしてしまってもいいのだが、どうせなら花からキスさせたい。いつも自分からばかりじゃ、ちょっと不安になるじゃないか。
「……いや?」
意地悪な問いかけに、花は慌てて首をブンブン横に振った。
「い、いやじゃないよっそんなことない!」
「ほら、いつも俺からばっかりだからさ。花が実は嫌がってたら」
「嫌がってない! 照れくさいだけです!」
何故か敬語になった花は、必死で俺に訴えかける。ああ、滅茶苦茶可愛い。こんな可愛いのは、独り占めするに限る。
「じゃあ約束な」
「やっ……約束、します!」
「はは、やった」
元々、独占欲が強い方なのだ。ずっと隣にいたいし、他の男が花をいやらしい目で見ること自体が不快だ。出来たら閉じ込めてずっと愛でていたいが、頑張って一所懸命真っ直ぐに様々なことに果敢に挑戦していく花の健気さも、出来たらずっと横で見ていたい。
「じゃ、帰ろっか」
「あ……はい……」
花の手を指を絡ませつつ握ると、花の汗ばんだ頭の匂いをスンスン嗅いだ。シャンプーの香りに交じる、散々嗅いだ花の汗の匂いが、また俺を刺激する。
俺はきっと、一生花を追いかけ続けるのだろう。傍にいる様で、時折遠く感じる瞬間がある花の全てを知りたくて。




