其の三十七 鬼は誰だ
俺も花も、頑張った。
椅子の背もたれにもぐったりとたれかかり、木張りの天井の節目をただぼんやりと見つめる。花はというと、机に突っ伏し弛緩していた。
「もう、脳みそが溶けそう……」
それはそうだろう。これまで「やらなくてもいっかなー」なんて言ってた人間が、さながら受験勉強の様な勢いで詰め込まれたのだ。
「でも、花は頑張ったよ。もうあとちょっとじゃないか」
「それは先生の教え方がいいからですよー」
夏祭りをチラつかせた効果か、今日の花の熱意は本物だった。これまでとは違う熱量に当てられ調子づいた俺は、八月後半の花と過ごす夢の様な素晴らしい時間を夢想し、前のめり気味になった。悪かった、と反省している。
姿勢を正し、まだ突っ伏している花の細い首に唇を付けた。
「ごめん、もうちょっと手加減すればよかったな」
「そ、宗ちゃん、そこで喋らないで……」
ぶるっと震えた花が可愛くて、少し上げた顔から覗くおでこに、小さなキスを落とす。ちゅ、と何とも可愛らしい音が部屋に響いた。
「そろそろ、雨戸も閉めた方がいいんじゃないか? 片付けたら、うちに移動しようぜ」
「あ、じゃあお仏壇閉めてくるね」
「おう」
レースのカーテンの奥は、既に暗い。先日、窓ガラスにあった様に見えた手の跡。あれがまた、あるのではないか。そんな不安に襲われながらも、勢いよくレースのカーテンを開けた。
シャッといい音を立てて開いたカーテンの先には、透明のガラス越しに部屋から漏れる明かりで照らされた裏庭。怪しい影もなく、窓ガラスは綺麗なものだった。
実際には、太一がここを覗いていた確証がある訳ではない。見つけたのは、小さめの手垢だけだ。しかも、次に見た時はもうなくなっていたから、それこそ光の加減による俺の思い込み、という可能性も十分に考えられた。
窓の鍵をカチ、と開け、外に備え付けられた雨戸を下ろす。花が他の部屋の雨戸を閉めている、ガラガラという音がした。
花が戸締まりをしている間、手持ち無沙汰になりベッドに腰掛けると、昼間に手桶置き場で見た男のことを思い出した。
赤いTシャツは、タンスからなくなった太一の物によく似ていた。だが、あれは子供用だ。あの時見た男は、花よりも背が高かった。――多分、俺と同じ位に。
あの時、あれは自分と同じ顔だと全く疑わなかった。多分、あれが赤い服を着ていたからだ。
こんな非科学的なことは信じたくはなかったが、そろそろ認めなければならないのかもしれない。
俺が今まで見てきた太一らしき影は、あれは幽霊だ。俺の幻覚なんかじゃない。
これまでは恐怖の対象でしかなかったが、考えてみれば太一が俺に危害を加える筈がなかった。太一の俺に対する異常な愛を徐々に思い出してきた今なら、それが分かる。
むしろ、一番危険なのは花だ。太一は、常に嫉妬し、花を排除しようとしていた。死んだからといって、その方針がガラリと変わる可能性は低い。
だが、太一は花の周りは彷徨いても、何をする訳ではない。とすると、あれは自分に対するメッセージなのではないか。今日の昼間以降、俺はそう考え始めていた。
太一は、きっとかくれんぼの続きをしているのだ。顔を見せないのは、太一があの時鬼じゃなかったからなんじゃないか。
「なあ、花?」
「なあに?」
仏壇を閉じ終わった花が、花の部屋のエアコンを切る。
「太一がいなくなったあの日、俺達はかくれんぼをしてたんだよな? あの時、鬼は誰だったっけ?」
途端、それまでにこやかだった花の表情が一変する。訝しげに細められた目が、花がこの話題を望んでいないことを表していた。
「……なんで?」
「どうだったんだっけって思っただけだよ。なあ、どうだった?」
笑みが消えた花の顔は、言おうかどうか迷っている様に見えた。可愛らしい口が開き、言葉を発さないまま、また閉じる。
「……太一は、鬼じゃなかったよな?」
花が、また口を小さく開けた。何故こんなにも戸惑うのか。何故花は、思い出さなくていいと繰り返し言うのか。
「なあ」
何故だか鬼が誰だったかが無性に気になり、俺は花に催促した。花の返事を、じっと待つ。
すると、花は諦めたのだろう、俯き加減のまま、ふう、と息を吐くと、小さな声で答えた。
「……いっちゃんが、ずっと鬼をやってたんだけど」
「けど?」
「最後は、宗ちゃんが鬼になってた」
か細い声で、花が告げた。




