其の二十三 消えた背中
花を自転車に乗せると、今日も駅前のファミレスに向かった。
花は食べるのが遅い。さっさと食べ終わってしまった俺は、じっくりと花の食事姿を愛でることにした。
チラチラと恥ずかしそうに時折こちらを見るのが、また可愛い。思わずにやけてしまう顔を隠す為、テーブルに肘をつき顔の下半分を手で覆った。
「急かしてる?」
「急かしてないよ」
「だって、じっと見るから」
「自分の彼女を見て何が悪いんだよ」
俺の言葉に花は真っ赤になって俯き、料理に目線を落とす。まつ毛も可愛い。手のひらの中で、ばれない様にまたにやついた。
パスタをぱくりと口に入れる動きを見つめながら、鞄の中にある紙袋の存在を思い出す。花を学校に送って行った後にコンビニで買った、例のブツだ。もし予定通りこの後いい感じになったとして、いきなり箱からペリペリ出すのは雰囲気台無しなのではと思い、一つだけ財布に仕込んでおいた。それがひとつで済むものなのかどうか、未経験の俺には分からない。
なので今、財布の内ポケットにはあれがある。これまでそんな物を持ち歩くことなんて一度たりとなかったから、何だか自分が一気に大人の階段を駆け上がった気分を味わっていた。
早く花の唇に触れたい。そんなことを思いながら花をじっと見つめていた、その時。
視界の端を、赤い服を着た人物がよぎった。
どくん、と心臓が跳ね上がる。目だけを動かし赤い色を探すと、トイレがある通路の奥に、赤いTシャツを着た小柄な背中が消えていくところだった。
何故か、自分の身体の動きをコントロールすることが出来なかった。
花が、ん? と言って顔を上げる。
「宗ちゃん、トイレ?」
「――ああ、ちょっと行ってくる」
嘘だ、行きたくなんかない。例のブツを財布に仕込む為に、先程学校のトイレに行ったばかりだ。出るものなんてない。
なのに、身体が勝手に立ち上がった。向かいたくないのに、まるで引っ張られる様にトイレへと足が向く。
待て、俺。トイレに行って、どうするつもりだ? そこで何を見たいと思ってるんだ? そこに期待したものが待っていなかったら、どうしたらいいんだ?
自問自答しても、勿論答えなんて出ない。だが、その問題に直面しない為の解決法はひとつだけある。
それは、くるりと180度回転し、トイレに向かうことなく花の元へと戻ることだ。そうすれば、不安を覚えながらトイレに行く必要はなくなる。だから俺、止まれよ。止まってくれ、お願いだから。
自分に止まれ、止まれと言い聞かせるが、やはり身体は言うことを聞かず、すたすたとトイレのマークが入り口に貼られた通路へと足を踏み入れてしまった。
細長い、どん詰まりの通路。左側にトイレのドアがあり、手前が女子トイレ、奥が男子トイレだ。
ふと、ひとつの可能性に思い至る。そうだ、赤い服だったんだ、あれが女性だという可能性も十分にある。そうそう、その可能性はたっぷりあるんだから、何を恐れる必要がある。
照明が消された女子トイレの前を通り過ぎた。だが、目の前の男子トイレの照明は点いている。冷や汗が、ツウ、と背中を伝った。
必死で次の候補を考える。ほら、きっと中にはさっきの赤い服の男がいる。遠目だったから小柄に見えただけで、案外背の高い男という可能性だって。
止めればいいのに、男子トイレのドアの取っ手部分を掴んでしまった。棒状になっているそれをぐい、と押す。おい待てよ俺、早まるな。止めておけ、いいことなんてないぞ。
自分自身にそう説得を試みるが、無駄だった。
長年太一として自分を偽ってきたからか、どうも俺の身体は素直に主人の言うことを聞いてはくれないようだ。
すると、急にトイレの中からドアをぐいっと開けられた。
「うわっ!」
焦りに焦って、思わず取っ手を持つ手を離す。すると、バッと開いたドアの奥には、一人の中年男性がこちらを驚いた様な顔をして見ていた。
「わっびっくりしたあーっ!」
男性が、ふくよかな頬を揺らしながら大袈裟に驚いてみせた。お腹もかなりふくよかで、ベルトに乗っている肉は柔らかそうだ。
「あ、すみません」
「え、いやこっちこそ驚いてごめんね!」
でもいい人な様だ。俺は男性を先に通すと、トイレの中に入った。
個室がひとつ、小便用便器がひとつ、そして洗面所もひとつ。
――中には、誰もいなかった。




