其の二十四 花の部屋
バクバクとおかしな程に激しく鼓動する心臓の音を悟られぬ様、冷静さを装い席に戻る。
花は、最後のひと口をぱくりと口に入れたところだった。
俺に気付くと、ぱっと笑顔になる。
「宗ちゃん、随分早かったね」
「あ、ああ、混んでたからやめたんだ」
小さな嘘をついた。
トイレに向かった筈の赤いTシャツを着た奴が、トイレにいなかった。だが、そんなことは花には言えやしない。言ったらまた怖がるに決まっているからだ。
それに、そんな奴が入っていったかもしれないトイレで用を足すなど、到底無理だ。用を足している時に突然横から手を掴まれたりしたら。絶対辺りに尿を飛び散らせてしまう自信があった。
学校のトイレに行っておいて正解だった。これが本当に切羽詰まっていたら、自分がどういう行動に出ていたか分かったもんじゃない。例えば、女子トイレに入ってしまうとか。
「な、花。花の家に早く行こう」
今すぐにでも、このファミレスから出たかった。
「トイレ行きたいの? うん分かった、じゃあ行こうか」
花は明らかに誤解しているが、もうそれでいい。無理やり笑顔を絞り出すと、花の荷物をさっと持ち、ついでに伝票も持った。母さんからもらった軍資金での支払いになるが、いつまでも親からもらった金で彼女の分の支払いをするのも情けない。ここが学生の辛いところだ。
「宗ちゃん、私、自分の分はちゃんと払うよ」
「これ、母さんから渡された昼飯代だから。払わないと俺が叱られる」
俺が毎日花を学校まで送っていかなかったら、きっと母さんは弁当を花に持たせてでも花に何かしてやろうと思ったに違いない。それ程の可愛がり様なのだ。
「おばさんてば……」
「まあ、いっぱい手伝わされてるんだからいいんじゃね?」
俺の言葉に、花は眉を八の字にしてハハ……と力なく笑った。
「あれは別にそういうつもりでやってるんじゃなくて、ああいうお母さんみたいな人に家事を教わるのに憧れてたから、それでなんだけどね」
あれはそういうことだったのか。自分の無神経さに、自分の頭を叩きたくなった。
そりゃそうだ。花は母親を小学生の時に亡くしている。その後もばあちゃんはいたが、二年前に死んだ後は親父さんと二人暮らしだ。時折母さんが手伝いに行ってはいたが、ここ最近は花が遠慮することもあって、あまり行っていなかった様に思う。
花にとっても、俺の母さんは母さんなのかもしれなかった。
レジで精算をして、表に出る。もわっとした空気が、冷えた身体に少し心地よかった。
「そういや、うちの学校ってバイトしていいんだっけ?」
これまであまり散財してこなかった為、バイトの必要性を感じたことはなかった。だけどここに来て花という大切にしたい彼女が出来、割り勘も花だったら何も思わず払ってくれるのだろうが、誘った時のデート代くらいは出してみたい。それが男心ってもんだろう。
これまではクリスマスなんてものも大して何も思わなかったが、今年は花がいる。ちょっと遠出してイルミネーションを見に行ったりとか、してみたいじゃないか。
「え? 宗ちゃん、バイトしたいの?」
自転車の後ろに、花がちょこんと座る。ああ、アオハル。上から見下ろすと、花の鎖骨に影が出来ているのが見えて、ついその服の下にあるものを想像してしまった。
「だって、花と色んな所に行ってみたいし」
「……ふふ」
花が、小さく笑うと俺の腰に手を回す。
「嬉しいけど、残念。バイトは禁止だよ」
「えー? 何でだよ」
ペダルをぐっと踏み抜く。さっきまで心地いいと感じていた空気は、もうすでに暑く感じる様になっていた。
「働く所が少ないから、取り合いになるみたいだよ。で、もっと大きな街の方に行っちゃう人がいて、それで繁華街を彷徨く先輩達がいたとかいないとか」
「あー成程な……」
先輩方の素行不良の所為で後輩達が不自由になる、典型的な例だ。だが、繁華街に行ったら酒を飲んだりする奴も、まあ中にはどうしたっているのかもしれない。
「農家のバイトなら自由みたいだけど」
「本当? じゃあ母さんに聞いてみよう」
母さんにかかれば、近所の情報は何でも手に入れられる。労働したいという話だったら、母さんは協力を惜しまないに違いなかった。
花の家までの道のりを、今までの中でも最高速度でかっ飛ばして行く。ファミレスにいた赤いTシャツの奴を、振り切らんばかりのスピードで。
幻覚だろう、とは予想がついている。だけど、やはり怖かった。太一は、俺を狙っている。今度こそ自分の物にしようとしているのではないか。
どうしてもそんな気がしてならなかったのだ。
◇
花の家に着く頃には、俺の背中は汗だくになった。やっぱり、あれの前にはきちんとシャワーを浴びるべきなんだろうか。経験の乏しい俺には、正解が分からなかった。
花が玄関の鍵を開けている背後で、ソワソワと辺りを見回す。
都会とは違い、家と家との距離はそこそこ離れており、例えばお隣の窓から中を覗かれるなんて心配はない。ないが、それでも誰かに見られていたらどうしようと思う気持ちはどうしても拭えない。
別に悪行ではないと思うが、大っぴらに公表する内容でもないのは確かだ。だったら、極力家に入るところを誰にも見られない方がいいに決まっている。
特に母さんには。
玄関のドアを開けると、中の空気は淀んでいた。数日人が出入りしないだけで、古臭い匂いが溜まるのか。
もし太一が帰ってきた時に鍵が開いていなかったら困るんじゃないか、と我が家では宿泊を伴う遠出は七年間一度もしていない。だから、これは初めて知る事実だった。
「すぐエアコン入れるから。勉強、リビングでしようか」
花の家のリビングには、仏壇がある。花の婆ちゃんと母ちゃんのだ。勿論、勉強をする分には全く問題はない。だが、二人の大事な花に二人の遺影の前であれこれするのは、さすがに気が引ける。
なので、俺はさり気なく誘導することにした。
「花の部屋がいい」
「え、私の部屋? 片付いてないし……」
「俺、しばらく花の部屋に入ってないもん」
さり気なさはどこにもなくなってしまったが、この際ここはゴリ押しだ。花の部屋には、確かベッドがあった筈だ。そしてなにより、遺影がない。
「花の部屋には、ちゃんとした勉強机があるだろ?」
このひと言が、決定打となった。
「分かったよ……でも、見ても引かないでね?」
「引かない引かない」
「大丈夫かなあ……」
一体何をそんなに見せたくないのか。俄然興味が湧いてきた。
「恥ずかしいよー」
小さな声で言う花の後を、弾みそうになる身体を抑えつつ、ついて行く。花の家も平屋で、花の部屋はリビングからすぐ、ふすまを隔てた所なのを知っている。
すーっと襖を開けると、目の前には勉強机。教科書やら、これは絶対一回も見てないだろうというきれいな参考書が机の上に積まれている。反対に、何度も繰り返し読んだのだろうと思われる陸上の雑誌もあって、花にとって陸上はかなり重要なものなのだな、と意外な思いでそれらを眺めた。
向かって右側は、押入れだ。そして左側に、可愛らしい花柄のベッドカバーが掛けられた木製のベッドがあった。巨大な熊のぬいぐるみが、デン! と場所を取っている。寝る時に邪魔じゃないんだろうか。
「ん?」
そのベッドの枕元の壁に、見慣れた顔があった。
「んん?」
それも複数。
先に部屋に入りエアコンのスイッチを入れた花は、俺に背を向けたまま振り返らない。どうやら、顔を手で覆っているらしい。
壁に幾枚も貼られている写真は、全て俺の写真だった。




