其の二十ニ 平和な時間
昨日味わった恐怖がまだ鮮明に残る中、さすがに今日は俺の部屋で花に勉強を教える気にはならない。
花には、家を出る際に勉強道具一式を持参するように伝えた。その言いつけ通り、花は部活鞄以外にスクールバッグも持ってきている。
鞄を花から受け取り前カゴに放り込むと、自転車に跨り花が乗るのを待った。
幻覚だと自分に言い聞かせていても、とてもではないがすっきりなど出来ない。信じ切れていないのだから、当然だろう。
そんなすっきりしない頭のまま、花を自転車の後ろに乗せてペダルを思い切り踏み込んだ。
まだ朝も早いというのに、髪の毛と首の後ろに突き刺さる日光はじりじりと痛い。
「花、掴まって」
「うん」
俺の腰にぎゅっと回された花の腕は褐色で、もしかしたらこれ位黒くなれば日光も熱くないんだろうかと思った。ゆっくりと進み始める自転車。視界の横に広がる森からは、今日も元気な蝉の大合唱が響いてくる。
頭の中に否応なく響いてくる蝉の声を聞きながら、ぼんやりと考えた。
もしかしたら、こいつらの声の所為で太一の幻覚を見ているのでは。記憶の中の最後の方の太一は、いつも蝉の声と共にあった。俺の脳みそは、太一との最後の夏をこの声から連想し、太一の手を映し出しているのではないか。
自転車を力一杯漕ぎつつ、花の小さな手を見つめる。昨日はこの手より小さかったのに、今日父さんの肩に乗っていた手は、今の花の手くらいの大きさになっていた。
やはりあれは幻覚なのだろう。何故なら、他の誰も見えていないからだ。父さんの肩を鏡越しに見た時、父さんと一瞬だが目が合った。つまり父さんはちゃんと鏡の方を見ていた。鏡を覗き、あの手が自分の肩にあったら、気付かない筈がない。
だから、父さんには見えていなかった。つまり、あの手を見ることが出来るのは、俺だけ。
花は激しいノックの音は聞いたが、あれだって本当にノックだったのだろうか。たまにカラスがわざと屋根に石を投げたりする時もそこそこな音がするし、台風の日なんかは山から飛んできたかなり大きく太い枝が瓦に当たって、翌朝地面に瓦が落ちて粉々になっている、なんてこともある。
昨日、外に何か落ちてなかったか確認すればよかったと思ったが、後の祭りだ。あまりにも怖がりすぎて、そんなことは思いつきもしなかった自分の弱さが嫌になった。
ぐんぐん自転車を漕ぎ続け、右手に折れると橋を渡る。
気付けば昨日から、太一のことばかり考えてしまっている。しかも、太一が俺の股間を触る夢まで見てしまった。あれは確かに何度か俺が寝ている時に実際にあった現実の出来事だと思うが、だからといって何で急にそこの部分だけを思い出してしまったのか。
俺は、ふ、と自分の股間を見た。
そして、自分の脇の下の空間から、横座りになっている花の筋肉質な細い足を盗み見る。昨日見た、花の水着姿を思い出した。黒と白の境界線、その上にあった白いお尻。
勉強は、図書館じゃなくて花の家でやろう。
少し前傾姿勢になりながら、どのタイミングなら花に怪しまれずコンビニに寄れるだろうかと策略を練り始めたのだった。
◇
花が部活に送り出した後、学校から二番目に近い所にあるコンビニにふらっと立ち寄った。店の中に学校の奴らが一人もいないことをさっと目視で確認し、丁度買おうと思っていた漫画雑誌を手に取ると、例のブツの前に立つ。もう一度辺りを確認した。大丈夫だ、誰もこちらに注意は払っていない。
これはどう考えても怪しい行動だが、ちゃんと金を持ってきているしレジに並ぶ気もあるから、ここは是非とも店員も敢えて触れないで欲しいと願った。
俺にとっては、花が初めての彼女だ。従って、俺は未経験である。つまり、適正サイズなんかよく分からないし、薄いとか言われてもそれの良さも分からない。
だから、とりあえず一番高いやつを購入することにした。
俺はブツを雑誌の下に隠しつつレジに行くと、若い兄ちゃん店員が雑誌の下にあるそれを確認し、ニヤリと笑った。
「頑張ってね」
「あ、はい。ありがとうございます」
バカ丁寧にお辞儀をしつつビニール袋を受け取ると、お兄さん店員がははっと笑った。今の返しで正解だったのだろうか。ビニール袋の中の、わざわざ紙袋に入れられたそれがやけに卑猥に感じられ、思わずごくりと唾を呑み込んだ。
ビニール袋ごとリュックの中に詰めると、再び自転車に跨る。
――花を見て、にやけませんように。
神に祈る気持ちで、花がいる学校へと再び向かったのだった。
◇
「宗ちゃん、お待たせ」
制汗スプレーの匂いをさせた花が、俺の背後からひょっこりと顔を覗かせた。
「おっもうそんな時間?」
「そうだよ。宗ちゃん、本を読んでる時って本当集中力凄いよね」
「そう? ……かも」
へへ、と背後の花に笑いかけると、花はふんわりと笑い返す。
今日は図書室で太一の幻覚を見たくなかったので、大好きな江戸川乱歩全集を全集中で読んでいたのだ。江戸川乱歩の話はぞっとするが、人間的な怖さからくるものだ。
生きている人間の方が怖いんだ、と読んでいる間にすっかり洗脳された俺は、前向きにこの後の手順を検討し始めたのだった。




