其の二十一 赤のTシャツ
翌朝、スッキリしない頭のまま顔を洗いに洗面所に向かうと、先に起きて支度をしていた花が丁度出てきたところだった。
頑張って寝癖を直そうとした痕が、後頭部に残っている。
「宗ちゃん、おはよう!」
花がにこやかに挨拶をしてきたので、まだ回路がうまく繋がっていない寝惚けた脳みそは、一番強い欲求を行動に移せと身体に命令した。
つまりは、花にキスをしたのだ。ちゅ、と何とも言えない甘い小さな音がした。音というのは、なかなかに刺激的だ。
「おはよう」
「そっ宗ちゃんんんんっ!?」
「髪、跳ねてるよ」
「やっぱり直ってない!? てそうじゃないよ宗ちゃんっ」
花が慌てて髪を整えたり、かと思うと口を押さえたりと忙しくしているのを見ていたら、ようやく頭がしゃっきりとしてきた。
「同居っていいな」
ニヤリと笑うと、花がぺちんと俺の肩を叩く。
「そそそそそ宗ちゃん! もう!」
「あはっ」
照れてる姿も怒っている姿も、全てが可愛い。何故でここまで好きなんだろうと思うが、好きなものは好きなので仕方ない。
「すぐ行くから、先に食っててくれよ」
「うう……うん」
花は食べるのが遅い。俺がひと口ふた口で終わってしまう食パン一枚を、何分もかけて食べる。だから、これくらいの時差があった方が丁度いいのだ。
花の後ろ姿を見送ると、洗面所で顔を洗い始め、という不穏な考えが、ぽっと頭に浮かぶ。
あの手を見たのは俺だけだ。それに恐らく多分、俺だけにしか見えていない。
昨夜の生々しい夢の後、ようやく納得したのだ。太一に対し何を感じていたかすら忘れていたのは、俺が理解するのを拒絶していたからなのだと。
太一は双子の兄だ。実の兄が、弟である俺を異性を好きになる様に好きになるなど嘘だと、ある訳がないと頑なに思っていた。特に子供の時は、それが顕著だった。あの頃は、父親がいて母親がいてそこに子供がいて、世の中は全てそういうものだと信じていたからだ。
だから、まさか血の繋がった双子の兄に恋をされているなど信じられなかった。テレビも教科書も、そんなことがあるなんて教えてはくれなかった。オネエをデフォルメした様なキャラは漫画には溢れかえっていたが、あれはキャラだと思っていた。少なくとも、太一には当てはまらない。
今となっては、世の中には様々な種類の人間がいるのは分かってるし、同性を好きになること自体は悪いことだとも思わない。自分がそこに属していない、ただその事実があるだけだ。
だが、俺達は兄弟だ。さすがにそれは駄目だろうと思い、と同時にそのルールは誰が作ったんだろうかと頭の片隅で考える。
何度も繰り返し顔を洗い続けた。目は、開けなかった。
「!?」
突然、誰かが俺の腰に手を置いた。途端、これまで幻覚だと思っていた存在が、急に現実味を帯びてくる。
背筋をゾクゾクいわせながらも、顔を上げられずにひたすら顔を洗い続けていると。
「水の出し過ぎだぞ」
背中から降ってくる声は、父さんのものだった。途端、身体の力が抜ける。足元から崩れ落ちそうになった。
「歯ブラシを取るからちょっとどいてくれ」
父さんはそう言うと、俺の腰を横に押した。なんだ、ああびっくりした。
バクバクいっている心臓の所為でしづらい息を整えながら、水を止めるとタオルで顔を拭く。鏡越しに父さんの歯磨きしている姿が映った。
よかった、普通に父さんだ。
「父さん、おは……っ!!」
鏡に映る父さんの肩に、日に焼けた子供の腕が絡み付いている。
まるで、おんぶされているみたいに。
「父さん!?」
慌てて振り返ると、実物を確認する。父さんは、そこにいた。だが。
「な、なんだ」
父さんは驚いた表情で俺を見る。ガハッと咳き込み、泡だらけの口の中身を流しに吐き出してしまった。驚かせてしまったらしいが、今はそれどころではなかった。
いない、いないけど、確かに今いた!
昨日見たものよりも少し大きくなった子供の手は、確かにそこに存在していた筈なのに。
「父さん! ちょっと背中見せて!」
「ぶはっな、なんだなんだっ」
父さんの肩を掴んで背中を確認する。やはりいない。
「嘘だろ!?」
洗面所内を焦りつつ見回すが、何もいない。
「どうしたんだって」
俺の所為で咳き込んだ父さんが、涙目になっているのが鏡越しに見えた。鏡越しにも、いない。
俺の中にあるのは、焦燥感だけだった。
「どこにいった!?」
「おい、宗二?」
「太一が、太一がいた!」
「……宗二?」
訝しげな表情の父さん。鏡の向こう、半開きのドアの先に見える、現実とは逆になった我が家の廊下。
子供の頃の俺が通った。
無我夢中で現実の方のドアに向かうと、子供の俺が向かった方向、つまりリビングの方を振り向く。
リビングへ繋がるドアの向こうに、見覚えのある赤いTシャツを着た子供の背中が消えた。
「太一!!」
リビングに急行する。部屋の中を見渡すが、花と母さんが台所で驚いた顔をしているだけだ。
他には、誰もいなかった。
「そ、宗ちゃん?」
花の心配そうな顔を見て、自分がやらかしたことに気が付いた。
一瞬で笑顔を作る。頭の中はぐちゃぐちゃになっていたが、長年演技を続けた俺には朝飯前だった。
「あ、あはは! 寝惚けちゃった!」
途端、ほっとした表情になる母さんと花。だよな、死んだ兄の名前を呼びながら部屋に飛び込んで来たら、そりゃどうかしたんじゃないかと思うだろう。
リビングには朝の光が差し込み、幻も幽霊も入り込む隙なんてなさそうだった。
ふう、と息を吐く。心臓はどくどくと鼓膜を破らんばかりに脈動していたが、それを表に出してはいけない。大丈夫、大丈夫だと繰り返し自分に言い聞かせる。
あれはきっと、心の中の消化しきれない葛藤が生み出したものなのだろう。きっとそうに違いない。
たとえあの腕と背中が、昨日のものよりも成長して小学校高学年位の大きさになっていたとしても。
着ていた服が、母さんがいつか着るからとセールで二着買って、着ることなく箪笥に仕舞われたままとなってしまった、俺の青のものと色違いの新品のTシャツだったとしても。




