其の十五 感情
椅子から花を抱え降ろした上で、床に押し倒して無我夢中になっていた俺は、ドアに何かがドン! とぶつかる音でハッと我に返った。
花と、誰か来たぞと顔を見合わせる。
顔を上げると、ドアは閉められたままだ。真っ赤な顔でくてっとなりつつ荒い息を繰り返す花の上からどくと、そっとドアを開けて辺りを確認したが、廊下には誰もいない。再びドアを閉め、首を横に振ってみせた。
「おばさんかな?」
花が上半身を起こすと、服を直し始める。まだ触っただけで見てなかったのに。少し、いや大分悔しく思った。もうちょっとくらい、いいじゃないか。
「いや。誰もいなかった」
「じゃあ屋根かな? 時折何かぶつかる音とかする時あるよね。家で一人の時とか、結構びっくりしちゃう」
なるほど、と花の言葉に納得した。そうか、今のはドアじゃなくて上からの音だったかもしれない。鳥が何かを落としたりすることは、ままある。それに、ここは森も近い。枝が飛んでくる可能性も十分に考えられるから、怖がる必要なんてちっともなかったのだ。
名残惜しく思いつつ、花の胸元を見た。
折角、至近距離から見れるいいチャンスだったのに。思い切り凹み、未練がましく言ってみる。
「凄く中途半端になっちゃったな」
「え、いや、私は割ともういっぱいいっぱいで」
花はそう言うと、振り向いた俺の腰辺りを見、ふい、と目を逸らした。あ、しまった。花にはまだ刺激が強かったかもしれない。急ぎ背を向けると、ふー、ふー、と心を落ち着かせる為深呼吸を繰り返した。これはどちらにせよ、今日使用することは出来ない。
明日、駅の方のコンビニでゴムを買おう。さすがにこちらで買うと、瞬時に近所に知れ渡りそうだ。だから今日は一旦落ち着け、俺よ。
目をきつく閉じ、暫くそうして落ち着くのを待った後、再び花を振り向く。
花は、不安そうな表情にやや引き攣った笑みを浮かべこちらを見ていた。俺は、それを見て。
「花、ごめん。ちゃんと俺、花を大切にするから」
「宗ちゃん……」
さっきは焦り過ぎたのだ。夢中になり過ぎてしまい、頭が真っ白になって目の前の花を貪ることしか頭に浮かばなかった。
自分の独占欲の強さに、愕然とする。花の気持ちなどかけらも考えず、ただ花を自分のものにしようと無我夢中だった。
「焦ったんだ」
床にぺたんと座っている花の前に、身体を縮こまらせてしゃがみ込んだ。
「焦った……?」
「俺ばっかり好きみたいで」
あ、言ってしまった。しかもつい口も尖ってしまう。これじゃいじけている様にしか見えないのではないか。
でも、そうだ。俺はいじけている。理由は明確だった。
「花が逃げるから、不安になる」
花はいつも俺に対し、腰が引けている。付き合ったんじゃなのか。相思相愛なんじゃないのか。なのに、花の距離の取り方はよそよそし過ぎて、こちらを不安にさせるのだ。
花が、顔を上げた。綺麗な目だ。そう、俺は、この優しそうな目に惚れたんだ。
「……だって、宗ちゃん、今まで私に全然興味なさそうだったのに、宗ちゃんに戻ってから急にぐいぐい来るから、どう反応していいか分からなくて……」
「そう、だったのか」
俺が太一でいた期間も、花にとっては俺は宗二だったのだ。そりゃそうだ、そうに決まってる。
「……ごめん、俺、自分のことばかりで」
「ううん、宗ちゃんが大変なのは分かってるの。ただ私が追いつけてないだけで」
俺の切り替えが早過ぎたのだ。しかも、太一は公的に死んでしまったばかりだというのに、そんなことも忘れて花に夢中になった。
「……なあ花、教えてくれ」
「……なに?」
ずっと気になっていたことがあった。思い切って、花に尋ねることにした。もしかしたら、花なら答えを知っているかもしれないと淡い期待を持ちながら。
「俺、太一のことは好きだったのかな……?」
花の表情が、一瞬で凍りついた。
「俺、太一と双子なのに、なのに思い出せないんだ」
「宗ちゃん……」
「花のことが大好きだったのはすぐに思い出したのに、俺が宗二に戻っても、俺、太一について考えても、何も感じないんだ」
始めは、記憶が欠けているからだと思った。だが、こんなにも何も感じないなんてことが果たしてあり得るだろうか。だから思ったのだ。
もしかしたら、始めからそんな感情はなかったんじゃないか、と。
そんなことを言ったら、花は俺を人でなしだと思うだろうか。そう考えると怖い。でももう止まらなかった。
「俺、太一のことを好きだったっていう記憶が、ないんだ」
花の形のいい瞳が、大きく見開かれる。
「それって忘れてるだけなのかな? それとも……始めからそんな感情、あいつには持ってなかったのかな?」
花の口が開いたが、声は出てこなかった。
「俺……そんな酷い奴なのかな。たった一人の兄弟なのに」
直視したくなくて、でも花のことはちゃんと好きだと堂々と言えるから、だから余計に花に執着していたんだ、と今更ながらに気が付いた。
俺の中には、ちゃんと人を好きだと思う感情は存在するのが、花といると証明されるから。
俺はまともな人間だと、どこもおかしくないんだと主張したかったから。
「花、何か覚えてないか……?」
恐る恐る、花に尋ねた。




