其の十四 キスの記憶
家に着くと、花の宿題を片付けるべく、早速俺の部屋へと向かった。
花を俺の勉強机に座らせると、台所から持ってきたダイニングチェアをすぐ横に配置し、自分はそこに座る。
「毎日少しずつやっていこうな」
「お願いします!」
これまで、花の勉強を見たことはなかった。太一だった俺が教える訳がないと思い込んでいた所為だが、これもよくよく考えたら勉強嫌いな太一が学年上位の成績など修められる筈もなく、大分色々と矛盾した設定の中で自分を誤魔化し過ごしてきたな、と何とも言えない気分になった。
どっぷり三時間集中して俺の喉が枯れかけた頃、花は抜け殻の様な状態になっていた。
「三時間走り続ける方がマシ……」
ぐでっと机に突っ伏した花。三時間走り続けられる自信は俺には皆無だったが、花の言いたいことはよく理解出来る。
「お前、授業全く聞いてなかっただろ?」
深い溜息と共に尋ねると、花が言い訳がましい返答を寄越した。
「聞いてもちんぷんかんぷんで」
上目遣いでちょっと照れくさそうに笑う姿は普通に可愛いのだが、今はそういう時ではない。
「それはな、聞いてないって言うんだよ」
ボソボソと言うと、花は机に頬を預けたまま、ふへ、と笑った。
「宗ちゃんの説明は、すっごく分かり易かったよ!」
褒めてもらえるのは嬉しいが、そういうことじゃない。
「まさか、教科書を頭から説明することになるとは思わなかった……」
「え、えへへ」
花に頑張ったご褒美をあげている場合ではない。俺にこそ、頑張ったご褒美が必要だ。
花の髪の毛を耳に掛けると、顔を近付ける。
「花。俺、頑張ったと思う」
「宗ちゃん、家庭教師のバイトとか出来そうだよね」
花の身体が、若干向こうへ移動していった。逃げるんじゃない。椅子から身を乗り出し、更に花に近付く。
「お金は取らないから、ご褒美が欲しい」
「え、ええと」
机に突っ伏していた花が、ぎょっとして起き上がった。そんな花の両肩を掴んで、もう一度言う。ゆっくり、はっきりと。
「ご褒美」
恥ずかしそうに伏せられた真っ直ぐなまつ毛は、至近距離で見ると長くて、この上に爪楊枝位なら乗りそうだ。
「な?」
何としてでもご褒美をもらう。そのつもりで、どんどん近付く。花の太ももに、俺の膝がついた。
「キ、キス?」
「うん」
「……宗ちゃんから、なら」
「分かった」
目を細めつつ、花の唇の位置をスナイパーの様に確認する。小さな口だ。狙いを外してはならない。
花の唇に、自分のそれをそっと重ねた。花が目を瞑っているのが、薄目を開けていたから見える。近くて愛おしく、口から飛び出しそうな位に動悸が激しくなった。
暫く重ねていた唇をゆっくりと離すと、花が静かに目を開け、何かを言おうと口を少し開けた。その中は、一体どうなってるんだろう。もう一度唇を重ねた後、知識としてだけ知っていたことを挑戦してみることにした。
舌を伸ばし、花の口の中に入れてみた。途端、花が後ろに逃げようとしたので、花の頭を後ろから押さえて逃げられない様にする。花の舌も逃げ惑うから、追いかける様にしてそれを絡め取った。花の口の中は想像以上に温かく、俺の全身に鳥肌が立つ。
やばいこれ、滅茶苦茶気持ちいい。
感動を覚えながら、全神経を花との接触面に集中する。口の中をなぞっていると、段々と花の鼻息が荒くなってきた。俺の胸をバンバン叩いている。――あ。
ぱっと顔を離すと、苦しそうに息をする花がいた。
「くっ苦しいよっ」
ハアハアと肩で息をしている。少し涙目になっているのがまた可愛いと思う俺は、Sなんだろうか。
「じゃあ苦しくない様に花からしてよ」
俺は、花が全否定しそうな要求を述べてみた。案の定、花は唇をアワアワと震わせてしまっている。やがて花は、キッと俺を見ると、ぐっと一気に顔を近付けてきた。何だその決死の覚悟みたいな顔。
あまりにも可愛くて、俺の口角が上がる。
「宗ちゃんばっかり、余裕そうで腹立つ」
花はそう言う。どうも俺の顔は、何をしても余裕そうに見えるらしい。おかしいな。心臓は今にも飛び出してきそうだというのに。
「全然余裕ないよ」
「嘘だ」
「今も早く早くってドキドキしてるし」
「嘘」
「嘘じゃない」
俺は花の手を取ると、俺のばくばくいっている心臓の上に当てた。花が驚いた顔になる。これで証明出来ただろうか。
「――な?」
「……うん」
「だから、早く」
催促をすると、とうとう花の唇が俺の唇に触れた。柔らかくて溶けそうになる。花の口の中に、俺の下唇を入れてみた。すると、花が遠慮がちにそれをぱくりと口に含む。途端、またぞわぞわとした感覚が襲ってきた。
と同時に、これは初めてではない、という考えが頭に浮かぶ。これは、この感触は覚えがある。吐息を吐きながら、俺と花はキスを交わし続けた。
あの時俺は、それには応えなかった。だって、あり得なかったから。寝ていたし、そんなことされてもこちらにその気はなかったし、だってお前は花じゃなかったし。
ちょっと待て。俺は以前、誰とこんなことをしたんだ――?
花とのキスを延々と繰り返し堪能しつつも、少し離れた頭の片隅で別の俺が問いかける。花じゃない、花じゃなかった。あれは一体誰だった?
ゾクリ、と急に怖くなる。何故、花とキスをしている最中にこんなことを思うのか。花は目の前にいるのに。これは花だ、他の誰かじゃないのに。
花の柔らかさをもっと感じれば、この恐怖を忘れられるだろうか。
花の服の裾から、中に手を入れる。花がビクッと反応したが、今度は逃げなかった。触れる手を腹から上の方に移動すると、サラサラの布に指が触れた。上からでも分かるその柔らかさに、堪らなく安心感を覚える。布の隙間に手を入れると、ふっくらしたそれが俺の手の中に納まった。
「や、宗ちゃん……」
「花」
俺の恐怖を取り除いてくれ。心から願いながら、花に覆いかぶさった。




