第17話 賛歌は止むことなく響き続ける
♢
実験場の様々な場所で衝撃音が響き、
細かな砂埃が床の上を流れてくる。
それにも負けない声量でGOOD LOOKは
まだ喋り続けていた。
「女性を相手に本気の拳を振るう……
そんなのは格好悪いだろう?
だから俺は傷一つつけずに勝つ。
それが《麗しき貴公子》の流儀さ」
「……そう」
グレイスフォールは短く返し、
実験場の奥へ目を向けた。
鈍い打撃音はジャスティスのいる方角から
続いている。
「おっと、目を逸らしたね」
GOOD LOOKは前髪をかき上げ、
身体を斜めに傾けた。
本人の中ではそれが一番映える角度らしい。
「無理もない。この距離で俺を直視するには
少しばかり慣れが必要だからね」
「……別にそういうわけじゃ」
「照れなくていい。
さて、となると問題は先手だ。
レディに先に手を出させるのは
紳士として避けたい。
だが俺から仕掛けるのもそれはそれで
品がない。
ここは互いに見つめ合ったまま自然と
始まる瞬間を待つというのも……」
宙に浮いたまま腕を組んだグレイスフォールの
指先が肘の上で小刻みに拍子を取り始める。
GOOD LOOKは真剣な顔で頷くと片手を
胸に当て、もう片方の手を彼女へ差し伸べた。
「……いや、決めた。やはり君に譲ろう。
遠慮はいらない。俺はいつでも――」
「……もういい?」
小さなため息とともに落ちた声がその言葉を
遮った。
グレイスフォールは組んでいた腕をほどき、
片手をGOOD LOOKへ向ける。
スーツを走る紫のラインが淡く光を増した。
GOOD LOOKの足元で砂埃がふわりと浮き上がり、
散らばることなく見えない壁をなぞるように
弧を描いていった。
頭上から爪先までをすっぽりと包み込む
大きさの球がその輪郭を少しずつ現し始める。
GOOD LOOKはまだ手を差し伸べた姿勢のまま微笑んでいた。
♢
《不天》を構えたまま、ヴァリアントはすぐには
踏み込まなかった。
先ほどまで怒声を上げていた口は固く結ばれ、
呼吸も静かに整っている。
スクエアが滑るように間合いを詰め、
胴を払う一刀を放った。
ヴァリアントはそれを受け止め、
刃を返して肩口へ斬り下ろす。
鎖骨の上を捉えるはずだった一撃は
何にも触れることなく空を切った。
相手は身を引いてすらいない。
『……また外れた』
ヴァリアントは続けざまに斬りかかった。
踏み込みを半歩浅くして剣先だけを伸ばし、
次の一刀では振り下ろしを半拍遅らせる。
受けに回れば、止めたつもりの位置より
僅かにずれた場所で刃同士がぶつかった。
どの一撃も狙いから外れるのはほんの数センチに
過ぎない。
その数センチを思いのままにするためにこそ、
長い年月を剣に費やしてきた。
スクエアは表情一つ変えずに剣を捌いていた。
一太刀ごとに踏み込みも拍子も変えてくる相手は
狙いが定まらず手探りを続けているようにしか
見えない。
『……効いている』
生まれた隙へスクエアは最短の軌道で
剣を差し込む。
ヴァリアントはその切っ先を紙一重でいなしながら打ち合うたびに返ってくる感触を一つずつ確かめていた。
さらに幾度か刃を交えたところで
ヴァリアントは後ろへ跳んで間合いを外した。
スクエアは追わない。
剣を構えたまま、真っ直ぐにヴァリアントを
見据えている。
「……道理で当たらんわけだ」
一拍置いてヴァリアントは続けた。
「……狂わされているのは私の方だ。
貴様、私の感覚そのものを
ズラしているな」
スクエアの眉がかすかに動いた。
「……見事」
そう告げる口元は一文字に引き締められたまま
だった。
「《感覚偏差》。
貴殿の感覚と現実との間に
僅かな偏差を生じさせる。
……僅かでいい。
剣士にとってはそれで十分だ」
その剣先は話している間も
一度としてぶれなかった。
正体を見抜かれたところでヴァリアントの
感覚が元に戻るわけではない。
ヴァリアントは黙ったまま、
《不天》の切っ先へ一度だけ目を落とした。
それから再び構えを取る。
スクエアが踏み込み、喉元へ真っ直ぐに
刺突を放った。
ヴァリアントは《不天》の腹でそれを逸らし、
手首を返して脇腹へ刃を走らせる。
甲高い音とともに火花が散った。
スクエアの剣が寸前でその一刀を阻んでいる。
『……受けさせられた?』
スクエアはすぐさま偏差を深め、
次の太刀を待ち構えた。
だがヴァリアントの剣は止まらない。
二太刀目は黒い実戦服の肩口を浅く裂き、
三太刀目は防いだ剣ごとスクエアの身体を
半歩押し戻した。
「……深めたな」
刃を噛み合わせたまま、
ヴァリアントが静かに告げる。
「左へ三センチ……いや、四か」
言い当てられた数字は今まさに自分が
与えている偏差とほとんど変わらなかった。
『馬鹿な……
感覚を戻したのではない……
狂ったまま、その狂いの分だけ
剣を修正しているというのか』
偏差を受けた剣士は自分の感覚を疑い始め、
やがて剣を鈍らせていく。
剣と能力を組み合わせて積み上げてきた勝ち筋が
目の前で音もなく崩れようとしていた。
『それを……この短い間に……!?』
一文字に引き締められていた口元が開き、
浅い息が漏れる。
こめかみを伝った汗が顎の先から落ちた。
ヴァリアントは押し合っていた刃をふっと外し、
無造作に数歩退くと《不天》の切っ先をゆっくりと下げた。
それまでとは明らかに違う構えだった。
「……格の違いを見せてやる」
剣を握るスクエアの手に知らず力がこもる。
「――受けてみるか?
我が
《天剋一刀流》を」
♢
ジャスティスの拳がまた男の頬を捉えた。
小太りの身体が床を跳ね、崩れた壁の残骸へ
背中から突っ込む。
ジャケットはもう肩から垂れ下がった布切れと
変わらなかった。
「ヒヒッ……ヒヒヒ……」
そこから笑い声が漏れてくる。
ミスター・タッチは壁に手をつき、
ずり落ちかけた身体をゆっくりと起こした。
腫れ上がった頬が引きつるように持ち上がり、
塞がりかけた目の奥で小さな瞳が細く歪んでいる。
「いやぁ、効く効く……
骨の芯まで響きますよ」
男は血の混じった唾を吐き、首を傾げた。
「でもねぇ、英雄さん。
こんな小物一人にいつまで
かかってるんです?
現役最強に期待してる皆さんが見たら、
なんて言いますかねぇ……ヒヒッ」
「うるせぇッ!!
黙ってろよ!!」
怒鳴るのと同時にもう床を蹴っていた。
振り抜いた拳が男の顔面へ叩き込まれ、
その身体が瓦礫の上を転がっていく。
押しているのは間違いなくこっちだ。
拳は当たっているし、相手の足元は
もうおぼつかない。
それなのに時間ばかりが過ぎていく。
苛立ちに押されるように振りかぶる動きは
一発ごとに大きくなっていた。
『早くケリつけねぇと……
せっかくおっさんが任せてくれたんだ。
こんなとこで手間取ってたら、
また「まだまだだな」って笑われちまう』
そこでふと思い至る。
『……そうだ。《蒼光》なら一発だ』
頭に浮かんだのは一撃で勝負を決めた
自分の姿だった。
報告を聞いた真壁が目を丸くし、それから
大きな手で背中をばしばしと叩いてくる。
――成長したな、ジャスティス!!
想像しただけで口の端が勝手に緩んだ。
ジャスティスは右の拳を握り込み、
床を踏み砕いた。
「そんなに早く終わりてぇなら
終わらせてやるよ!!
いくぜ――《蒼光》!!」
叫び声が実験場に反響する。
だが、身体の奥から湧き上がるはずの光は
いつまで経っても訪れなかった。
「……あ?」
踏み込みかけた足が止まる。
青白い光が全身を駆け巡る、あの確かな感覚。
それが今はどこにもない。
「――《蒼光》!!」
両足を踏みしめ、腹の底から声を絞り出す。
それでも光は一筋たりとも漏れてこなかった。
『なんでだ……?
前はちゃんと出たじゃねぇか。
今の俺ならもっと上手く
使えるはずだろ……!?』
何も纏っていない右手を見下ろしたまま、
ジャスティスはその場から動けずにいた。
「ヒッ……ヒヒッ……
ヒヒヒヒヒッ……!」
堪えきれなくなったような笑い声がすぐ近くで
弾けた。
顔を上げた時には小太りの身体がもう懐へ
潜り込んでいた。
ずんぐりとした指先がジャスティスの脇腹へ
そっと触れる。
薄い波紋が広がり、すぐに消えた。
「っ……! この野郎!」
反射的に振るった拳は狙いも定まらないまま
宙を掻いた。
伸びきった腕の内側にまた指先が触れていく。
「どうしました?
何も起きませんねぇ……ヒヒッ」
構えも忘れて腕を振り回すジャスティスを
見上げながら、ミスター・タッチの口元が
裂けるようにゆっくりと広がっていく。
『もう少し……
もう少しだ……』




