第16話 賛歌は高らかに鳴り始める
観察室は薄暗く、実験場を見下ろす一枚のガラス
だけが淡く光を返している。
ラミエラはそのガラスへ肩を預け、
眼下に小さく並ぶ六人の人影を身じろぎもせず
見つめていた。
「……にしてもジャスティスも大概だけど」
隣でガルヴァが欠伸混じりに言う。
「あの黒髪の嬢ちゃんも結構やべぇ
気配してんな。重力系だっけ?」
「ええ。不墜華」
視線を動かさないままラミエラは答えた。
重力に逆らって浮いた黒髪、淡く光る紫のライン。
堂々と宙に立つその姿をラミエラは
しばらく目で追い続けた。
「……あら」
小さく笑みがこぼれる。
「……可愛く育ったわね」
「ん? 知り合い?」
軽く聞き返すガルヴァには答えず、
ラミエラは目を細めて胸の内でその名だけを呟いた。
『……柊結衣』
その姿を追う琥珀色の瞳には
まだ笑みの余韻が残っていた。
♢
実験場の沈黙を破ったのは
ミスター・タッチだった。
猫背のまま数歩前へ出ると片側だけ
持ち上がった口元をジャスティスへ向ける。
「……あんただ。
あんたとやらせてもらう」
「あ? 俺か?」
拍子抜けしたように目を瞬かせるジャスティスに
ミスター・タッチは曲がったネクタイを指先で直しながら続けた。
「分かってますよ。
まともにやりゃあ勝ち目なんてねぇって
ことくらいは」
「……ならなんでわざわざ俺を選ぶんだよ」
「なんで、ねぇ……」
ミスター・タッチは小さな目でじっと
ジャスティスを見つめたまま首を僅かに傾ける。
「そりゃあ……
あんたが一番“いい”からですよ」
答えになっていない答えにジャスティスは
眉をひそめた。
その横で細身の男が長めの髪を勢い
よくかき上げる。
「ふっ……やれやれ。
最初に選ぶ権利を譲ってあげたんだ。
この寛大さも美しさの一部だね」
男はグレイスフォールへ向き直ると片手を胸へもう片方の手を大きく広げてポーズを決めた。
「俺の名はGOOD LOOK!
人は俺をこう呼ぶ……
《麗しき貴公子》と!」
「……誰がそう呼んでるの?」
「聞こえないのかい?」
GOOD LOOKはそっと目を閉じ、
耳へ手を添える。
「世界中から俺を讃える声が……
ほら今もこの胸に響き渡っている」
「……何も聞こえないけど」
「ふっ……君にはまだ早かったか」
グレイスフォールは呆れたように息を吐いた。
その間も最後の一人は一歩も動かず、
ヴァリアントだけを見据えていた。
「貴殿が
《永遠のNo.2》
VALIANT殿
とお見受けする」
ヴァリアントの肩がぴくりと揺れた。
「私はSQUARE。
長きにわたり二位の座を守り続けた
《永遠のNo.2》の剣……
一人の剣士としてぜひ手合わせ願いたい」
一切の悪意がない礼儀正しい声だった。
スクエアは腰の剣を静かに抜き放ち真っ直ぐ
に構える。
「……貴様」
低い声とともにヴァリアントが《不天》の柄を
握りしめた。
「二度もその名で呼んだな……
覚悟は出来ているのだろうな」
「無論だ。《永遠のNo.2》と剣を交える
以上、覚悟なくして立つつもりはない」
「三度目だぞ貴様ァ!!」
ヴァリアントの怒声が実験場に反響する。
その余韻が消えるより早くジャスティスは
床を蹴っていた。
踏み込んだ衝撃で床に亀裂が走り、瞬きほどの間に距離が消える。
ミスター・タッチの眼前へ拳が迫った。
『悪いけどさっさと終わらせてもらうぜ』
ミスター・タッチは片腕だけを顔の前にかざしたが防御と呼ぶにはあまりにも頼りない構えだった。
拳はその腕ごと胸元へめり込む。
その瞬間、もう片方の手がそっと伸び、
ずんぐりとした指先が振り抜かれたジャスティスの腕に触れた。
その一点から薄い波紋が走る。
水面へ一滴落としたように腕の上を広がり、
広がりきる前に吸い込まれるように消えた。
ほんの一瞬の出来事で直後には小太りの身体が宙を舞っていた。
「……ヒッ」
殴り飛ばされながら男の口から
短い音が漏れた。
呻きとも悲鳴ともつかないその音を残し、
ミスター・タッチは床を何度も跳ねて実験場の壁へ叩きつけられる。
崩れた破片がばらばらと降り注ぎ、
土煙が辺りを覆った。
「……ちょっと強すぎたか?」
ジャスティスは拳を下ろし土煙の奥を
見つめた。
手加減はしたがそれでも並のヴィランなら
しばらく立ち上がれないはずだ。
そう思った矢先、土煙の中で何かが動いた。
「……いってぇなぁ」
瓦礫を押しのけてミスター・タッチがゆっくりと身体を起こす。
額から流れた血が頬を伝い、裂けたジャケットの袖からは赤く腫れた腕が覗いている。
男はその腕を確かめるように撫で、痛みの一つ一つを噛みしめるように長い息を吐いた。
それから自分の指先をしばらく眺め、ゆっくりと顔を上げる。
小さな目がジャスティスの頭から爪先までを
値踏みするように這っていった。
「さすがは現役最強……
こりゃあ長い付き合いに
なりそうですねぇ」
かすかに上ずった語尾は長い付き合いを嘆くどころか待ちきれない楽しみを前にしたような
響きを帯びていた。
「……頑丈なのが自慢ってわけか」
ジャスティスの言葉にミスター・タッチは
否定も肯定もしなかった。
「……まだズレてやがる。
ネクタイはしっかり整えねぇとな」
結び目を押し上げる指先を額から垂れた血が
伝う。
赤い雫がネクタイに染みを広げていくのも構わず、ミスター・タッチは結び目が真っ直ぐになるまで何度も位置を直した。
ようやく満足したのか再びジャスティスの前へと歩み出る。
♢
甲高い金属音が実験場の空気を裂いた。
怒りのままに踏み込んだヴァリアントの一刀をスクエアの剣が真正面から受け止めている。
散った火花とともに二人の足元で床がきしんだ。
「その名で呼ぶなと言っている!」
「なぜだ?
貴殿の名を世に知らしめた異名だろう。
何を恥じることがある」
「黙れェ!!」
鍔迫り合いを力任せに弾き、ヴァリアントは
二の太刀、三の太刀と間断なく斬撃を重ねた。
だが叫び声とは裏腹にその剣筋には
僅かな乱れもない。
一太刀ごとに角度を変え、相手の逃げ道を
一つずつ削るように追い込んでいく。
それでもスクエアは退かなかった。
受け、流し、半歩ずつ足を運びながら、
ヴァリアントの剣を確実に捌き続ける。
奇抜さのない、教本のような剣だった。
『基礎は出来ている……だが、それだけだ』
ヴァリアントは僅かに身を沈め、
がら空きになった胴へ鋭い突きを放つ。
間違いなく捉えたはずだった。
しかし《不天》の切っ先はスクエアの脇腹から
数センチ逸れ、何もない空を貫いていた。
「……!」
すかさず返された一閃を身を捻ってかわしたものの完全には避けきれず白いスーツの袖が浅く裂ける。
距離を取ったヴァリアントは《不天》を
構え直した。
今の突きに迷いはなく、踏み込みも角度も普段と
何一つ変わらない。
『……外した? この私が?』
正面ではスクエアが剣を構えたまま、一度も視線を外すことなくヴァリアントを見据えていた。
♢
何度目かも分からない衝撃音が実験場に響いた。
床を転がったミスター・タッチの身体が瓦礫を巻き込んでようやく止まる。
ジャケットはもはや原形をとどめておらず、
片目は腫れ上がって塞がりかけていた。
口の端から垂れた血が顎を伝い、点々と染みを作っていく。
「……ヒッ」
それでも男はまた立ち上がり、血で汚れた
ネクタイの結び目を押し上げて一歩前へ出る。
先ほどからずっとその繰り返しだった。
ジャスティスの息は少しも乱れていない。
それなのに胸の奥には妙な引っかかりが残り続けている。
『なんで倒れねぇんだ……』
手応えはあるし、相手が痛がっているのも
分かる。
なのに男はひるむどころか殴られるたびに間合いへ潜り込み、掌や指先で軽く触れてくる。
子供がじゃれつく程度の力でダメージと呼べるものなど何もなかった。
「ヒッ……ヒッ」
「……何がおかしいんだよ」
「おかしい? いやいや、楽しいんですよ。
それにしても……
さっきから随分と優しい拳だ。
現役最強ってのはこんなもんですかねぇ」
ジャスティスは奥歯を強く噛みしめた。
その脳裏にふと真壁の顔が浮かぶ。
『真壁のおっさんが直々に任せてくれたんだ。
こんな奴相手に手こずってられるかよ』
気づけば踏み込む足に力がこもっていた。
これまで意識して抑えてきた加減がほんの少しだけ緩む。
床を踏み砕き、今日一番の速さで懐へ飛び込む。
振り抜いた拳が男の胴を真正面から捉えた。
その瞬間、ずんぐりとした掌がジャスティスの胸元へそっと触れる。
再び薄い波紋が広がり、すぐに消えた。
『また触れた!?』
小太りの身体は一段と遠くまで吹き飛んでいた。
「ヒッ……ヒヒッ」
壁際に倒れた男の肩が小刻みに揺れている。
引きつった息を吸うたびに声が漏れ、
口元がじわじわと歪んでいく。
「……気味悪ぃ奴だな」
ジャスティスにとってどちらが優勢かなど考えるまでもなかった。
傷だらけで這い上がってくるのは向こうで自分はかすり傷一つ負っていないのだから。
だが握った拳からはいつまでも力が抜けないままだった。
壁に手をつき、ミスター・タッチがゆっくりと身を起こす。
半分塞がった目はジャスティスの胸元を
じっと見つめていた。
『讃えてやりますよ、英雄さん……
最期の最期まで、ね』




