第10話:サイレント・イーグル〈2〉
【2034年11月22日 03:35 東部標準時 大西洋上 北緯42度17分、西経69度07分付近】
海と空の境界は、絶え間なく巻き上がる飛沫と闇に溶け、どこにあるのかも分からない。
飛行小隊『イーグル』を構成する三機のMH-60Mステルス改修型特殊作戦ヘリ――通称『サイレント・ホーク』は、物理法則をあざ笑うかのような超低空で疾走していた。六フィートを超える波高の海面から僅か二〇フィート。波頭がローターに触れそうな高度を飛行する、古典的なシークラッター侵入だ。
塩分を含んだ霧が機体前方へ吹き上がり、機首の赤外線センサーに白い膜のように張り付く。ワイパーが唸りを上げてそれを拭うが、海面すれすれの飛行では数秒ごとに同じことが繰り返された。
本来この高度での高速飛行は自殺行為に等しい。
海面からの電波の乱反射。
それは機上の電波高度計を攪乱し、数フィート単位の誤差を増幅させる。
さらに、メインローターが海面に叩きつける猛烈な風が波頭で砕けて逆流し、機体の腹を大きく濡らす。そして同時に、海面と機体の間に強固な空気の層を作りだすのだ。
「地面効果」と呼ばれるこの現象は、機体を浮かせる助けになる一方で、わずかな波の上下がそのまま機体を突き上げる不安定な揺れに直結する。
つまり、一瞬の操作ミス、あるいは不規則な突風が、一三〇ノットで進む鉄塊を瞬時に海面へと叩きつける「死の罠」となるのだ。
だが漆黒のステルスヘリの編隊は、その不安定な空気の層を力でねじ伏せるように突き進んでいた。
その目標は、偽装貨物船コバヤシ号。その巨大な船体の右舷後方――時計の文字盤でいえば、五時の方向――から、イーグル小隊は凄まじい速度で迫ってゆく。
この進入角こそが、唯一の「不可視の回廊」だ。船首側の監視員からは船橋の構造物が死角となり、真後ろを警戒するセンサーは自船が吐き出す激しい排気熱とウェイクのノイズに焼かれているからだ。
陣形は、マギー中佐が乗るイーグル1を先頭とした、タイトな『トレイル・フォーメーション』。先行機のテールローターが巻き上げる飛沫を、次機の機首が浴びるほどの至近距離で連なるその様は、闇夜を泳ぐ巨大な一頭の海蛇を思わせる。
通常の編隊規定から大きく逸脱した、この極限の密集隊形には、大きな戦術的意味があった。三機が一本の線となり、機影を重ね合わせることで、既に衛星画像や電子作戦機によって判明しているコバヤシ号の分解能が低い旧式レーダー画面上では、三つの機影がひとつの不安定なノイズとして統合されるのだ。敵の監視員が画面を見つめていても、それは「波の反射によるゴースト」として処理され、無視される。ステルスヘリの機体そのものが持つレーダー反射断面積の小ささと、この戦術機動の組み合わせこそが、彼らを「幽霊」へと変えていた。
イーグル1のキャビン内では、現場指揮官であるマギーがハッチの縁に膝を立て、愛銃M250のフォアグリップを無造作に握っていた。三〇ポンドの重量を持つ特注火器は、彼女の手の一部のように馴染んでいる。
中佐という階級にありながら、彼女があえて現場にこだわり、戦場を駆け抜けるのは、机上の地図では決して測れない「現場の殺気」を実感するためだった。
彼女の背後では、デブグルオペレーターたちが彫像のように動かない。彼らはチェックリストの確認すら視線とハンドサインで済ませ、ただ一つの「死の機械」としてマギーの合図を待っていた。
「……いつ見ても、悪趣味なマジックだぜ。なあ、中佐」
機長のジョーンズ陸軍上級准尉が、マギーに向かって声を掛けた。
「自分たちが相手のレーダー上でどう『消えているか』を特等席で眺めるなんて、本当に幽霊にでもなった気分だ」
ジョーンズの視線の先、コックピットの多機能ディスプレイの一つには、奇妙なものが映し出されていた。
それは、数マイル先の高高度から標的を射程に収める、電子戦機EC-77E『ウィザード02』からの映像だった。付近のテロ警戒任務から急遽転進してきた同機が、戦術データリンク――軍用高速通信網を介して転送してきたものだ。
その映像は、ウィザード02が標的のレーダー波を逆探知・解析し、その特性を完全に掌握してリアルタイムで再構築した、「敵がブリッジで見ているはずのレーダー画面」の完全なクローンだ。
敵のレーダー画面は、大西洋の荒れ狂う波が作り出す無数の光の粒が、砂嵐のように明滅しているだけだった。ジョーンズは、そのノイズが最も激しい領域を狙って、数インチ単位で操縦桿とペダルを小刻みに動かし、自機の機影を波の反射の中に溶かし込み、同調させていた。
敵の監視員がその画面を凝視していても、時折混じる不自然な点は「波飛沫のゴースト」として網膜の隅へ追いやられる。
その「ゴースト」を作っているのは、ウィザード02による冷静な観測と、ジョーンズによる精密な操縦だった。敵のレーダーは、デジタル処理による情報の取捨選択すら行わない、分解能の粗い旧式だ。だからこそ、ハッキングなどは通用しない。
そこにあるのは、純粋な反射波の駆け引きだ。ジョーンズは敵が見ている画面のクローンを鏡のように使い、自らが「ノイズ」であることを演じ続けながら、音もなく敵の喉元へ肉薄していく。それは最新のステルス機が、アナログな戦場で見せる極限のスニーキングだった。
「フン、幽霊で上等だ。彼らの枕元に立つまで、波間のゴーストを演じてやろう」
マギーはそう言うと翡翠色の瞳を細め、M250のレシーバーを愛撫する。
突如、マギーのMRゴーグルディスプレイに緊急通信のデコードデータがポップアップする。母艦ワスプ経由で国防総省法律顧問室が、強引に交戦規定の変更を指示してきたのだ。名目は、領海内であることを考慮しての「制圧」から「臨検」へのトーンダウン。ワシントンの温かい部屋でコーヒーを啜る背広組たちが、最前線の銃口に泥を詰めようとしていた。
「……まだ領海内だから、ということか」
マギーは、視界の隅に浮かぶ警告ウィンドウを無表情に見つめた。敵の殺意を法的に中和できると信じている者たちへの軽蔑が、その瞳に一瞬だけ宿る。
「だが、俺たちのボス――統合参謀本部議長閣下はお人好しじゃなかったようだぜ」
ジョーンズがMRバイザー越しに、遠く空を見上げる。視線の先、上空二万フィートには、空母フォードから上がった早期警戒機E-2D『センチネル01』が居座っていた。海軍大将でもある議長が「広域警戒」の名目で、海軍独自のバックアップをねじ込んだのだろう。
政治が「安全」を優先して現場に目隠しを強いるとき、最後に勝敗を決するのは、泥にまみれた「現場の確信」だけだ。階級の重みではなく、弾丸の重みで責任を取る。それがマギーの、そしてこの現場に集う者たちの流儀だった。
「ここは、議長の気遣いに感謝しておくとしようか」
「ああ、そうだな。だが中佐、ひとつ懸念がある。ウィザード02が派手にEMP砲をブチかませば、敵船の電子制御もタダじゃ済まない。ガスタービンエンジンの出力が不安定にならないか?」
EMP――強力な指向性電磁波によって、電子機器の回路を過電流で焼き切る攻撃。だが、それによって船の燃料噴射制御や電子制御式のガバナーが破壊されれば、出力が全開のまま固定、あるいは予測できない変動が生じる恐れがある。
「敵船が暴走するとでも思っているのか?」
「そうは言っていない。だが、舵の利かないまま荒波に翻弄されれば、甲板は巨大な暴れ牛の背中だ。そこに飛び移るなんて、曲芸どころの話じゃないぜ。それに、本当に暴走でもすれば、速度が上がって衝突の危険も増す」
「だからこそ、ロデオ乗りの貴様たちを指名したのだ、ジョーンズ准尉。EMPは、敵船に仕掛けられた自爆装置の無効化が目的だ。彼らに自爆されることを考えたら、暴れ牛に飛び乗ることなど容易いはずだ。貴様たちと私たちにとってはな」
その時、機内の秘匿通信に、高高度に位置する電子戦機からの声が割り込んだ。
『――こちらウィザード02。ターゲットをロック。指向性EMP第一波、照射を開始する。……三、二、一、照射』
直後、ヘリ搭載の望遠赤外線カメラが捉えていたコバヤシ号の全ての灯火が消え、漆黒の海に溶け消えた。同時に、望遠サーモカメラが映す熱画像には、不自然に高い温度の排気煙が煙突から噴き出す様子が映っている。制御を失ったガスタービンエンジンが過回転のまま固定されたのだろう。そして、貨物船は予測不能な蛇行を開始した。
『標的の沈黙を確認。電子回路の大規模焼損を推測。標的までの距離、五〇〇〇ヤード』
「三〇〇〇ヤードで減速する。接舷用意」
航空支援システム『ネリス』の淡々とした戦果報告とジョーンズの少しばかり緊張した声が、マギーの耳に届く。
『まもなく、EMP第二波攻撃が開始されます。――甲板上に新たな動きを検知。複数の人員が携行型地対空ミサイルを担ぎ、発射態勢に入りました。EMP第二波照射完了。――敵、ミサイル発射プロセスに失敗した模様。EMP照射による回路焼損と判定。イーグル小隊への影響は皆無。なお、第三波攻撃まで約五分のチャージを要すると、ウィザード02の戦術AIより入電あり』
ネリスの冷静な言葉が機内に流れると同時に、ゴーグル式ディスプレイを介したAR空間にもポップアップメッセージとして表示された。空中に浮かんで見えるそれを指でタップすると新たなウィンドウが開き、そこには敵兵たちが苛立たしげにミサイルの発射筒を叩き、あるいは海へ投げ捨てる様子を鮮明に捉えた赤外線望遠映像が映し出された。
電子回路を焼かれ、ただの金属筒と化した敵の武器。EMP攻撃は成功したのだ。
――ぞわり。
不意に、マギーの胸をざらついた感覚が撫でる。
「……ジョーンズ、嫌な予感がする」
「……ああ、奴らに見つかった! ガンナー、戦闘準備! このまま突っ込む!」
コバヤシ号までの距離が三〇〇〇ヤードを切る。
だがジョーンズはスロットルを緩めない。
「奴ら、役立たずのミサイルを、俺たちに向けて構えてやがった。……端から機能していないレーダーに止めを刺されたはずなのに、この闇の中で奴ら、なぜ俺たちの位置を――」
その言葉が終わるよりも早く、ネリスが無感情にアラートを叩き出した。
『警告。複数の熱源反応。敵、対空ミサイルを発射。……合計八』
「なにっ! 奴らのミサイルは死んだんじゃなかったのかっ!?」
闇を裂いて、八つの光が近付いてくる。コバヤシ号の赤外線映像には、ミサイルを撃ったと思われる複数の兵士の姿があった。
それを見たマギーの脳裏を、ひとつの仮説が走り抜けた。
(――嵌められた! きっと彼らは、船体深部の武器庫をファラデーケージにして予備のミサイルを隠し持っていたのよ。そして、ハッチから飛び出した瞬間に点火したんだわ。こちらの電磁波攻撃やAIの分析さえ、彼らの計算のうちだったというわけなの?)
事態は最悪だった。イーグル各機のネリスが短距離戦術リンクで思考を同期させ、個ではなく群としての生存確率の最適解を導き出す。
そして、再び各機のシステムとして思考を独立・並列化させると、即座に空中衝突を避けるための「回避アルゴリズム」を実行する。先頭のイーグル1は左上方へ、最後尾のイーグル3は右上方へと、互いの熱源を切り離すべく扇を広げるように散開を開始する。
なぜなら、全機が同じ方向へ逃げれば、重なり合った熱源が巨大な標的となり、一斉射による全滅を招くからだ。
だが、その最適解の代償として、中央のイーグル2に割り振られた機動スペースは、水平方向を僚機に、下方を海面にロックアウトされた、直上への「死の回廊」のみだった。
『こちらネリス2。当機の全権を掌握しました。……私が、太陽になります』
『何をする、ネリス! 操縦桿を返せ!』
無線から聞こえるルーカス機長の悲鳴に近い怒号。
だが、イーグル2は主人の命令を無視し、機体を急角度で引き起こした。一三〇ノットの前進速度は急激に失われ、代わりに上昇速度となって、機体は垂直に近い八〇度の角度まで跳ね上がる。機体構造を無視した異常なプルアップ。
突如、大気を引き裂いていたローターの重低音が、金属が噛み合うような凄まじい断末魔とともに断絶する。次の瞬間、ローターヘッドごと切り離された五枚の巨大な回転翼が機体から剥がれ、夜空へ弾け飛んだ。
しかし、翼を失ったイーグル2は墜落するどころか、直前の異常な急上昇で得た慣性に押し上げられ、なおも夜空へと突き進んでいく。
トランスミッション付近からは、眩いほどの火花と白煙が噴き出し、テールパイプからは白熱した排気炎が機体後方に向けて激しく噴き出している。
もはやそれはヘリコプターではない。神を求めて天へ昇る、巨大な鉄の十字架のようだった。
そして、イーグル2は全てのフレアを撒き散らし、明るく輝く天使の羽を広げて垂直に舞った。
八発のミサイルが、そのあまりにも明るい「偽りの太陽」へと吸い込まれるように収束していく。
「逃げろっ!!」
マギーの口から迸ったのは、届かぬ祈りだった。
八つの死の光が、上昇頂点に達して速度を失ったイーグル2の機影に重なる。
次の瞬間、闇が消えた。海が昼になった。
暗い海上には巨大な火球が立ち上がり、ステルスヘリの残骸が燃えながら、海面へと降り注いだ。




