第二十五話 終焉(1)
翌朝、凱旋の準備を整えていた遠征軍の元に、早馬の報告が舞い込んだ。
「帝国軍が、エルドラドへの進軍を開始した?」
「――!」
報告を受けた二人の司令官のうち、副官の方が復唱した言葉に、後ろで聞いていたフィオナは息を飲んだ。
ジークが短い言葉で、伝令を促す。
「いつだ」
「昨日未明、数は十五万。銃兵部隊も含まれているようです」
「十五万……!?」
悲鳴に近い声を上げたのは、フィオナだ。いくら戦争を知らぬ彼女でも、その数が、小国エルドラドを叩き潰すのに十分な数字であること位は、理解出来た。
「……予想よりも早い」
「司令官は?」
呟く兄の隣から、ユーリが急くように聞く。
「総司令官はビュッセル将軍。副司令官にブリーゲル大佐が――それと」
そこで言葉を句切った伝令の顔は、その先を伝えるのを恐れるように、青ざめていた。
「……ゴッドハルト大将軍が、謀反を企てたとして、地下牢に投獄されたと」
「何……?」
文字通り場を凍らせた報告に、辛うじて聞き返したのはジークだけだった。
「三日後に、処刑が執行されるとのことです」
「……冗談だろう?」
その擦れた呟きがユーリのものだと、フィオナが理解するには、数瞬の時を要した。翠の目が見開かれ、強ばった表情には、驚きと猜疑が満ちている。
「氷雪の騎士が謀反……?」
フィオナが介助する車椅子から、ウィルの呟きが聞こえた。
シュヴァルトの民にとって、永雪の誓いは、死ぬまで違うことのない約束だ。
だがフィオナは、下された極刑判決の方に震えた。
「そんな、ゴッドハルト将軍が……」
フィオナを通して、亡き母を懐かしむように、眼差しを和らげた隻眼の騎士。
帝王バルドゥルと苦楽を共にし、かけがえのない時間を駆け抜けてきたはずの男が、投獄の末、死刑を言い渡される現実を飲み込めない。
「ソルヴェーグ中佐」
「――ハッ」
誰もが動揺を隠せぬ中、ジークの決断は早かった。自身の隊の中佐を呼び、隊の指揮権をその場で移譲した。
「後は任せる。俺とユリウスは先に戻る」
ジークが不在の間、代理を任されていた男がその命令に揺らぐことはなかったが、微妙な間を置いて、後方で様子を見守っているフィオナ達に目を向ける。
「その……女性たちは」
「……連れて行く」
置いていく、と言われても扱いに困ったのだろう。不安要素を排除されたソルヴェーグは、心得たようにその場を離れ、直ぐさま司令官の代わりに各隊の指揮を執った。
見送ったジークが、やはり人形じみた無表情で、フィオナとウィルを振り返る。
「かなり厳しい強行軍になる」
「大丈夫です」
「平気だよ」
間髪入れず二人が答えると、感謝を示すように深く頷いた。表情には出さずとも、彼もこの報告には動揺しているはずだ。
「ユーリ、すぐに馬の準備を」
「分かっている」
それまで凍りついていたユーリが、兄の指示に、苛立ったような返事で動き出した。
※
すぐにジェードとサミィを準備し、チェリルブロスに向かった時と同様、フィオナとウィルを乗せて四人が出発する。
だが、今はあの時とは比べものにならない速度で馬を駆り、鞭を取る男達の手には、焦りと緊張が滲んでいた。
「アンネリーゼも心配だな」
ウィルのすぐ耳元で、ユーリがいつになく真剣な声で呟いた。
「妹姫?」
相手がその呟きに相槌が欲しかったのかは不明だが、聞こえたウィルは聞き返した。
「あれはゴッドハルトに懐いていた。それにあの気性だから、後先考えずに何を言い出すか分からない」
低く抑えた声から、溜息のような呼吸が漏れる。
「……ぼんくら兄貴のフォローは望めないし」
きっと懐いていたのは、アンネリーゼだけではないのだろう、とウィルは予想していた。
例え、長兄や実父が同じような危機に陥ったとして、この男がここまで動揺するかは疑問だ。
「でも、バルドゥル王も自分の娘には……」
「氷雪の騎士を切り捨てる男が、娘に温情をかけるとも思えない」
ウィルのフォローに対する、ユーリの断じ方は、若干意固地になっていると言えなくもなかった。
(それはどうだろう……)
賢明な判断で言葉にはせず、ウィルは胸中でだけ疑問を返す。
親が子に向ける感情とは――それが憎しみであれ愛情であれ――血の繋がらぬ他人に投げかけるのとは、また別の場所から湧き上がる種類のものだ。
氷雪の騎士と、どちらが大切かといった話ではなく、同列に語れるものではないと思うのだが、ウィル自身、それを言葉で上手く表現できる自信はなく、結局、沈黙の道を選んだ。
それが出来るのであれば――とっくの昔に、自身の身に降りかかった難題についても、解答を見出していることだろう。
往路に三日をかけた行軍は、復路は二頭の騎馬によって、一日半で踏破された。
辿り着いた宮殿で双子の皇子を出迎えたのは、たった一人だけだった。
どこか澱んだ空気が漂う宮殿内に人の姿はまばらで、例え見かけたとしても、誰もが近寄りがたい緊張感のもと、足早に自らの職務に追われている。
この宮殿に訪れた時と同じ広い廊下には、今は男の花道はなく、一人の少女が佇んでいた。
「アンネリーゼ」
「兄様!」
ユーリが名を呼んで腕を伸ばすと、弾丸のように胸に飛び込んだ少女がすがりついた。白いウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、兄の胸の中で泣きじゃくる。
「ゴッドハルトが……!」
妹のことは弟に任せるように、ジークは無言のまま、足早に場を離れた。
彼にも、目的の場所があるようだった。
フィオナも、アンネリーゼを心配そうに見つめていたが、兄妹の抱擁に遠慮したように遠巻きにしている。
氷雪の騎士であるゴッドハルトが投獄され、明日に死刑になるという話を、アンネリーゼは泣きながら兄に訴えた。
「酷いわお父様! ゴッドハルトが、そんなことするはずないのに、こんな横暴な……」
大好きな兄に再会してたがが外れたのか、絶対権力である帝王を糾弾するような言動を声高に叫びかけ、その唇を、ユーリが人差し指で押さえた。
「シッ。アンネリーゼ、このことについて、親父には何も言ってないね?」
一瞬で大人しくなったアンネリーゼが、ふるふると首を横に振る。
「投獄される直前に、ゴッドハルトに頼まれたことは、ちゃんと守ってるわ。このことについては誰にも……お母様にも、アルベルト兄様にも、文句を言ってはいけないって」
そこに双子の皇子の名がなかったことに、ウィルは他人事ながら無言の信頼を感じたが、やはりユーリも、感じ入るように強く妹の身体を抱き寄せた。
「ついに、狂ったのかね、あの親父は……」
アンネリーゼに対しては口を閉ざさせたユーリが、己は溜息と共に放言してみせる。
抱きしめた少女の頭を撫で、落ち着いたところで解放する。
「しばらくは宮殿内が荒れるから、部屋を出ないようにね」
言いつけ、ユーリは妹の背中を押して、部屋に戻るよう促した。
いつもの跳ね返るような元気はなく、アンネリーゼが肩を落とし、こくりと頷く。
「ユーリ、君は……」
従順に部屋に戻っていく妹を見送る背中に近寄り、ウィルは声をかけたが、相手は振り返らなかった。
振り返らないまま頭を掻き、ユーリが、小さく――それこそ、聞こえるか聞こえないかという音で、呟いた。
「……親殺しの罪を知ってる?」
「…………」
返す言葉を持てずに、見上げる場所にある後ろ頭を睨みつける。
「悪いけど、勝手に部屋に帰っといて」
そう言い残し、大股に場を去っていくユーリを――残念ながら、ウィルは物理的に追いかけられない。
車椅子のウィルが、四階にある客間に戻るには介助が必要だが、もはやそのことにすら気が回らぬらしい彼の心理状態を思うと……ウィルは、己の無力さに唇を噛んだ。
アース教の教義において、親殺しは大罪だ。
アース教の始祖、エマーヌエルは神の子だ。つまり、親を殺すことは、神を殺すことに繋がる。
エマーヌエルの母は、聖女エレアノーアであるため、この場合の親は父親を意味する。
父を殺した子の罪は――死罪。そして、その魂は、永久に天に昇ることは出来ないという。
「ウィル……ユーリは……?」
終始近寄りがたい空気を発していたユーリが去ってしまい、一人になったウィルの車椅子に、フィオナが駆け寄った。
遠慮がちな問いかけに、瞑目し、ウィルは大きく溜息を吐いた。
「……ユーリは、彼の父親を殺すかもしれない」
「……!」
もうすっかり定位置のように後ろに回り、ハンドルを握ったフィオナが固まった。
「どうして、そんなこと……そんなことをすれば、ユーリは――」
彼女とて、親殺しの罪が意味することを、知らないはずはなかった。
「これは、俺も最近気付いたことなんだけど……」
彼女の問いに対して、答を与えることを、彼は怒るだろうか。そうも思ったが、今のウィルに出来ることは限られている。
「彼はね、夜なんだ」
「夜……?」
「人は夜を恐れ、闇を嫌う。でも、夜がなければ、誰も昼の明るさに気付かないと思わない?」
「……!」
言わんとすることに気付いたらしいフィオナの気配が、背中から離れる。
「じゃあ、ユーリは……」
前に回ってきた少女を見返すと、その表情には、分かりやすい意志が浮かんでいた。
今、フィオナの脳裏に、ある少女の顔が浮かんでいることは、間違いなかった。
「ウィル、ごめんなさい。私」
その表情のまま謝ってくる少女に、こんな時に、謝られなければいけない己が、ひどく情けなくなる。
誰かが道を踏み出す時、自分は、必ず足手まといになってしまう。
「いいよ、フィオナ。行ってらっしゃい」
その思いを飲み込み、ウィルは微笑みで少女を送り出した。
「俺は大丈夫。人の背中を見送るのは得意なんだ」
見送る度に襲われる無力感と戦っていることは、この場合、彼女には知る必要がないことだ。
「君の思うとおりのことをしておいで」
それは、おそらく、彼女にとっては効果的な『太鼓判』になったはずだ。
放たれたように駆け出した、華奢な身体につられ、艶やかな黒髪が跳ねながら遠ざかっていく。
何も疑う余地などないように、真っ直ぐに進んでいく後ろ姿が眩しい。
(俺が言ったから?)
そこまで彼女の信頼を得ている己が、また少しおかしくて、苦い笑いが零れる。
一人取り残された廊下を、ウィルはゆっくりと進み始めた。
『――それって、楽しいんですか?』
「……うん、楽しいよ。とても……だってたまに、自分が善人のような気がしてくるだろう?」
ここにいない彼に対して、あの時は言ってやらなかった答を返してやる。
きっとそう言ったら、彼はとても喜んだだろう。
※
フィオナが王女に追いついたのは、奥宮殿の、アンネリーゼの部屋の前だった。
「アンネリーゼ!」
扉に手をかけた少女を、慌てて呼び止める。
「な、なによっ」
気付き、振り返った彼女は、慌てて頬を濡らしていた涙を拭った。
「アンネリーゼ、氷雪の騎士はどこにいるのっ?」
息を切らし、駆け寄ったフィオナの剣幕に面食らったように、アンネリーゼが口を開ける。
「何を……」
「今、バルドゥル王を止められるのは、きっとあの人しかいない。だから、教えて欲しいの」
そう言うと、アンネリーゼは頬を紅潮させ、眦を吊り上げた。
「お父様は、ゴッドハルトを裏切ったのよ! 氷雪の騎士を信じず、あの魔法使いを信じたの!」
「そうよ! だからユーリは……」
つられて強い口調で言い返したフィオナが発した名前に、アンネリーゼが食いついた。
「ユーリ? ユリウス兄様がどうかしたの?」
食い入るように見つめてくる相手に、フィオナは出来るだけ気持ちを落ち着かせようと、一度大きく深呼吸をしてから、伝えた。
「……ユーリは、氷雪の騎士を切り捨てた……過ちを犯した王を、力づくで止めようとしてる」
「それって……どういう……」
聞きながら、途中で、気付いたように言葉を飲み込み、アンネリーゼは顔色を変えた。
「そんなこと……っ嘘よ、そんなこと!」
「アンネリーゼ、信じて」
その手を取り、力強く説得する。
ウィルの言葉が、間違っているとは思えなかった。
ユーリは、バルドゥル王を殺そうとしている。そしてウィルは、それを止めたいのだ。その役目を、フィオナに託した。彼自身が、その力を持たないから。
精一杯の想いを込めて見つめると、アンネリーゼは青ざめた顔のまま、覚悟を決めたように頷いた。
「……ゴッドハルトは地下牢よ」
「じゃあ……」
「行くわよ、フィオナ」
「え?」
「ユリウス兄様とお父様を止めるわ」
一度腹をくくったシュヴァルトの王女は、その生来の気質からか、フィオナより数倍行動的だった。
牢の鍵を持っているのは牢番だったが、アンネリーゼは、予備の鍵を保管している保管庫を知っていた。
身分の高い人間を投獄する牢屋は特別製で、鍵自体も特別なあつらえとなっており、すぐにそれと分かった。
地下牢は、表宮殿の地下にあった。
「面会するだけよ。お父様の許可は取ってあるわ」
「しかし、今ゴッドハルト将軍は重罪人で……」
「くどいわ。私を誰だと思っているの? お父様に言いつけられたいのっ?」
堂々たる演技で、予備の鍵を盗み出したことなどおくびにも出さずに、牢番を脅しつけるアンネリーゼ。
王女の権威をもって地下牢に侵入した二人は、最奥の重厚な扉の鍵を開けた。
「ゴッドハルト!」
地下牢に王女が飛び込むと、その奥に座っていた氷雪の騎士の隻眼が、驚愕に見開かれた。
「アンネリーゼ様!? ……フィオナ王女」
「…………」
後ろからついて入ってきた少女を見て、つけ足された呼称に、アンネリーゼは驚いたように振り返ったが、その場では何も言ってこなかった。
事態の解決を優先させたのだと分かる彼女の判断に感謝し、フィオナはすぐに、ゴッドハルトに状況を説明した。
「ユーリが……ユリウス殿下が、おそらく、王の過ちを正そうとしています。このままでは、取り返しの付かないことになるかもしれない。貴方しか、止められる人はいない……そうでしょう」
「…………」
実際、ゴッドハルトへの言葉は、それだけで十分だった。静かな表情で聞いていたゴッドハルトが立ち上がる。天井が低い牢屋では、頭がぶつかりそうな程の巨躯だった。
「その通りです。賢明なご判断、ありがとうございます。フィオナ王女、アンネリーゼ様」
落ち着いた声で感謝の意を示し、最敬礼をする。
「氷雪の騎士の名にかけて、必ず王のお心の迷いを正すことを誓いましょう」
その言葉に、二人の王女の表情に不安が過ぎる。
皇帝バルドゥルの心の迷い――その闇を、はたして本当に振り払うことが出来るのだろうか。
「どうか、私を信じて下さい」
だが結局、その力強く真摯な眼差しに説得され、二人は心から祈りを捧げた。
ゴッドハルトを先頭に地下牢を出たところで、脱獄に気付いた牢番を、少々手荒な手段で眠らし、明るい表宮殿の廊下に出る。
氷雪の騎士を見送る直前、フィオナは、彼に取りすがっていた。
どうしても、欲しい答があった。
「ゴッドハルト……私は……」
「どうしたらいいかは、私に尋ねないで下さい」
だが大将軍は、フィオナの迷いを見透かすように、その問いを閉ざした。
「貴女の神聖な決断を、私の汚れた魂で歪めることは出来ない」
暗に恣意的な解答しか出来ないと断る彼の返答は、どこまでも誠実だ。
「ただ――私は」
それでも、迷うような沈黙の後、ゴッドハルトは一つだけ教えてくれた。
「時代の流れを変えるような選択を、たった一つの愛を貫いて決めた女性を、一人知っています。それが、今となっては正しかったのかは分かりませんが……あの時、彼女は確かに幸せだったのだと、それだけは自信を持って言えます」
それが誰のことかは――フィオナには、すぐに分かった。
「人生は短く長い。そして、未来は誰の目にも見えない。一時の真実の愛のために、生きる生き方も存在するのだと、貴女に伝えておきましょう」
思わず――それは無意識にも近い魂の衝動で――フィオナは、深々と頭を下げ、彼の背中を見送っていた。




