第十九話 回顧(3)
「…………」
……恥ずかしい。
いつの間にか俯いていたフィオナは、声もなくバルドゥル帝王の昔話を聞いていた。
「その後、私たちはエルドラドの西にある、イアルンヴィスの森に迷い込んだ――なんであんな森にわざわざ足を踏み入れたのか、きっかけはよく覚えていないのだが……」
記憶の網をたぐるような間の後、
「ああそうだ、思い出した」
帝王が顔を上げた。
「森の奥に、眠れる森の美女がいるらしいから助けに行こうと言い出したんだ、あの馬鹿が」
「……すみません」
思い出してもらわなくてもいい理由だった。
※
後から聞いた話では、彼は彼なりに、城に居づらい理由があったらしい。
無目的に城下町をふらふらしていたトリスタンにとって、亡命中の異邦人は、いい遊び相手と認識されてしまったようだった。
そんなバルドゥルたちが、イアルンヴィズの森にまで足を運ぶ理由になったのは、下町で当時流行っていた噂話だ。
結果的に眠れる森の美女はいなかったが、家出中の大国のお姫様がいた。
※
「え……」
家出中って。
フィオナは嫌な予感がした。
※
イアルンヴィスの森の奥に足を踏み入れると、急に現れた怪しい霧に囲まれながらも、トリスタンの謎の嗅覚を頼りに辿り着いた先には――森の中なのに門がある……しかし塀はない、奇妙な家があった。
「うおおおお! あったぜ相棒! うっひょーマジだったんだ。俺様かんどーっ」
「誰が相棒だ! 寄るな触るなくっつくな!」
肩を抱いて感激する暑苦しい男を引き離す。
バルドゥルに拒絶されたことなど意にも介さず、トリスタンは足取りも軽く戸口前の階段を一足飛びで上がり、勢いよく扉を押し開いた。
「こんにちわー! 眠れる森の美女を起こしに、絶世の美男子が駆けつけ……」
ごぅん。
「げはんっ?!」
よく分からない悲鳴を上げ、地面に沈んだ男の頭頂に、大きなタライが落ちていた。
※
「…………」
なんか、デジャブ。
身につまされる部分もあり、フィオナは恥ずかしさに顔が上がらなかった。
※
「おい、大丈夫……か、……っ!?」
「殿下!」
床に沈んだまま動かない王子に呆気にとられ、バルドゥルが不用意に戸口に駆け寄ると、急にゴッドハルトに腕を引かれた。
その脇を空を切って、室内から何かが飛び出してくる。
地面にぶつかって破裂したそれから、赤い液体がぶち撒かれた。
「水風船!?」
しかも色水だ。
そして、二階が吹き抜けになった天井の高い屋内に視線を転じると、奥のカウンターに、棒を二本立て付けてゴムを張った、簡易な投石機が設えてあるのが見えた。
「何よ、あんたたち! 泥棒!?」
キッチンと思しきカウンターの奥から顔を出したのは、ひとりの少女だ。
つまり、保守的で頑固な母国に飽き飽きし、大陸を見聞することを選んだ家出少女――サン=フレイア王国の公女プリシラだった。
※
「それは……」
フィオナは絶句した。
一体どこで母親の名前が出てくるのだろう、と思っていたが、斜め上過ぎる登場シーンだ。
自分も勝手に上がり込んで家にしてたくせに、迷い込んできた人間をいきなり泥棒呼ばわりとは……
母のことはほとんど覚えていないのだが、色々いたたまれなくなり、フィオナは顔が赤くなった。
※
「ごめんなさーい。私てっきり」
侵入者対策のタライに引っかかったトリスタンは気絶していたが、彼女の謝罪は軽かった。
その少女は、艶やかな長い黒髪を、今は動きやすいように高い位置でまとめていた。
花のような明るい紫の瞳と、透き通るような白い肌。
黙っていれば出来すぎた人形のような美貌に、まともな出会い方をしていれば目を奪われただろうが、出会い頭のインパクトが強すぎて、バルドゥルが彼女の魅力に気付くのは、もう少し後になってからだ。
「しかも何なんだこの色水は」
トリスタンに同情する気はないが、妙な事態に頭を抱えたバルドゥルの傍らで、ゴッドハルトが、庭に散らばった赤い液体の臭いを嗅いだ。
「殿下、コレは血です。血を水で薄めたものでしょう」
「何……?」
顔色を変え、女を振り返ると、彼女は――あろうことか笑顔で――生肉の塊を掴み上げ見せてきた。
「あ、さっきまで、捕まえたウサギ捌いてたの。そこの窓から侵入者が来たの分かったし、丁度良かったから使っちゃった」
「どういう女だ!?」
そういった彼女エプロンは、返り血に汚れていた。
※
「…………」
フィオナは気が遠くなった。
「元々は箱入り娘だったはずなんだが、私たちが出会った時点では、もう色々逞しくなっていた」
「そう……みたいですね……」
それくらいしか相づちが打てない。
自分が知らない身内の恥ばかり聞かされている気がして、いたたまれない。
というか、ただの思い出話出会い編なはずなのに、恥しか聞こえてこない気がするのは何故だろう。
恐縮して身を縮めるフィオナを見下ろし、バルドゥルはぽつりと呟いた。
「……あの夫婦の子供にしては、かなりまともに育ったようだな」
「…………」
褒められている気がしたが、答えられなかった。
「――何ヶ月だったか。私たち四人は、その『森の家』で暮らした。それほど長い期間ではなかったはずだが、とても長く……そして短かった」
その感覚は、フィオナにも覚えがあるものだ。
「楽しかったんですか……?」
「ああ、楽しかった」
フィオナの問いに、バルドゥルははっきりと頷いた。
「楽しかったという記憶しかないが……今思えば、あれが『幸せ』だったという感覚だったのかもしれない」
「…………」
「……何のしがらみも陰謀もなく、血を流すことも流させることもなく、全てを忘れて、ただ繰り返し過ぎていく毎日を愛おしんでいた。いつか終わりが来ると分かっていながら……終わりなんて来なければいいと思いながら」
「それは……」
――それは、とてもよく分かる。
穏やかに語るバルドゥルの目は、とても優しい。フィオナを見つめる先に他の誰かを見ているような気がして、フィオナはじっと彼を見返した。
※
「私はいつしか彼女を愛していたが、彼女は別の男を愛した。そしてその男も、彼女を本気で愛した。本気だったから……私は身を引いた。それだけだった」
それを口に出して人に聞かせたのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。
ゴッドハルトすらも――彼はあえて口にせずとも分かっていたからだが――バルドゥルの告白を聞いたことはないだろう。無論、本人も。
己の身の上で、プリシラを幸せに出来るとも思えなかった。バルドゥルには、やるべきことが残っていた。
『森の家』での毎日は、幸せだったが――己のいるべき場所ではないのも分かっていた。
己の還る場所は――血の臭いのする玉座だった。
そばにいるべきは天真爛漫な少女ではなく、剣となり盾となる氷雪の騎士だった。
あの二人なら、きっと幸せになってくれると、そう信じてバルドゥルは彼らの元を去った。
……いつか、もしかしたら、彼らの幸せを壊すことになるかもしれないという、恐れを抱きながら。
※
「…………」
泣いていた。
フィオナは、自分の頬に零れた涙を自覚して、指先で頬を拭った。
そんな少女を、王は静かな眼差しで見つめている。
彼の語る思い出は、あまりにも優しくて――辛い。
今、彼の座る玉座から血の匂いがすればするほど、彼が思い出を振り切ってきた痛みが分かる。
「私にとって、あの安息の時間があったことが幸福だった。あの時間を思い返せばこそ……生きていて良かったと、今のいばら道を歩き続ける決意が出来た」
ほんのひとときでも、安らぎと幸せがあった。だから、今が辛くても乗り越えていける。
そういう彼の言葉は、まだ15年しか生きていないフィオナには、よく分からない。
「……だが、今となってはそれが正しかったのか分かりかねる」
そう言った王の声は一転して、暗い怨嗟が滲んでいた。
「あの男は、お前の母親を死なせ、お前をも窮地に追いやった。今は、どこの馬の骨とも知らぬ女にうつつを抜かしているという」
「…………」
彼が今の父を糾弾し、己の選択を悔やむ言葉は、残念だが理解できてしまった。
それでも、フィオナは一所懸命に否定した。
「でもっ……でもっ、父は母を愛していたと思いますし、母も父を愛していたと思います。あなたが……あなたが、その選択をして下さらなかったら、私は生まれていなかった」
「…………」
「色々あったけど、私、今生きてることに感謝してます。生まれてきて良かったって思ってます。それは、本当だから」
ユーリやジーク、森の家の住人たちと出会えて、たくさんのことを学び、知った。
『森の家』で、忘れられない大切な時間を過ごした。
「だから、ありがとうございます。母と父を見守ってくれて。二人の愛を祝福してくれて。あと……」
これは、言ってもいいのだろうか。
あの二人と、この目の前の男の関係を知っているだけに、一瞬、躊躇う気持ちが生まれる。
でも、彼がここまで話してくれたのだから、自分も隠し事はしたくなかった。
「ユーリとジークを、この世に生まれさせてくれてありがとうございます。大事なお友達なんです。初めて出来た、本当に、大切な……」
その言葉に、バルドゥルの眼が大きく見開かれた。
「ありがとうございます。私の大切な人を、いっぱい守ってくれて」
「君たちは……どこで出会ったんだ」
驚きと、期待。そんなものが混じった声に、フィオナは笑って答えた。
「とても素敵な場所です。道に迷った者を、優しく導く。道を失った者を、やさしく守る――優しい魔女が守る、優しい森の家です」
水色の瞳が揺れた。だがそれは、すぐに瞼で隠され、彼は両手で顔を覆い、天井を仰いだ。
「神は……彼らに、あの時間を与えてくれたのか」
指の間から漏れた声は優しく、確かに、父親のものだった。
「ありがとう……」
呟くような声は、神への感謝の言葉か、フィオナに投げられたものか――それとも、もっと別の誰かか。
きっと彼も、とても素敵な場所で、素敵な出会いをしたのだと思った。




