第九話 帰還(5)
――だからその時も、それ以上の危機感はなく、つい行動を起こしてしまったのだ。
ジークが客間を去り、しばらくして使いの士官が持ってきたのは、1枚の地図だった。
現在の国境が描かれたアースガルダ大陸の行政図は、国によって色分けされており、国名と代表的な都市名、主な河や山脈が記されていた。
フィオナも城の塔にいる間は、外の世界に興味があって、たまに眺めていたのだが、基本的には、女性が好んで見るような品ではないだろう。
北を上にして描かれた地図の、ほぼ中央にある広大な森林地帯イアルンヴィズの森の右斜め上に、フィオナの祖国エルドラド王国があった。
更にその右には、上からキルケゴール、ニーチェ、ヴェルクソン、ディルタイ、マルスタが並び、その下にはマーレ海に繋がる内海、碧海が描かれている。
その更に右側のほとんどのスペースを、桁違いに大きいシュヴァルトの国土が埋め尽くしていた。
そのシュヴァルトも、北は圧倒的なニブルヘイム大山脈が東西に横たわっており、東部、南部を中心に、数え切れないほどの、大小の山脈が連なっていた。南の国境いには、砂漠も広がっている。
あまり意識して眺めたことはなかったが、こう見ると、シュヴァルトは広大な国土を持ちながらも、その多くを山脈と万年雪、砂漠に囲まれ、住みやすい土地は王都の置かれた、西側の中北部に限定されているように思われる。
ユーリが、住みやすい場所を求めて人口が集中すると言っていた理由の一端が分かったような気がした。
細部まできっちりと描き込まれているのは、碧海の北側にあるマルスタ王国と、シュヴァルト帝国の南の国境までだった。
アースガルダ大陸の人々が世界と見なすのはここまでで、それより南の土地は、異なる大陸、異なる世界と見られ、多くを知る者はいない。
地図にも、マルスタ王国と碧海を挟んだ国と、広大なシュヴァルト帝国の国土の南に、いくつか大雑把な境界が引かれているだけで、細かい記載は何もない。
――1つ、明らかに後から付け足されたと思われる走り書きで、南の空白になっている広大な土地の真ん中に、大狗国とだけ記されていた。
フィオナが初めて聞く国名だ。
目を転じると、地図の左下、アースガルダ大陸とはマーレ海を挟んだ南に、別の大陸の一部が顔を覗かせていた。
大陸の南端になる神聖イザヴェル皇国、グレイス共和国と海を挟んだ南にあるのは、アルバーラ大陸だ。
こちらに関しては、大陸の北部、マーレ海に面した地域に集中して細かい国境が引かれているが、その下は空白だった。
その紙面をなぞりながら、フィオナは、一からこの旅路を思い返した。一つ一つの事柄をよく考えながら、自身の知る知識と重ね合わせていく。
三分の一の暇つぶしと、三分の一の好奇心、そして、三分の一の不安から始めたその作業に、時間が経つのも忘れて没頭する。
だが、考える時間が多すぎるのも善し悪しで、フィオナが漠然と抱いていた疑問と不安は、徐々にはっきりした形となって、頭をもたげだした。
それは、独りで抱え込むには大き過ぎる問題で、すぐにでも誰かに話を聞いて欲しくて、誰かに話を聞かせて欲しくて、たまらなくなった。
しまいには、そわそわと地図を持ったまま部屋の中をうろつきだし、座る位置を変えてみたりもするのだが、それで気分が変わるわけではない。
(やっぱり……聞きたい)
今となっては、話をしたい人物は1人しかいなかった。
「……ウィルの部屋って、確か近かったわよね」
客間を案内された時には、ウィルの部屋を先に回った。その後、連れて行ってもらったフィオナの部屋からは、そう離れてはいなかったはずだ。
「あそこくらいなら……」
たいした距離ではないし、少し出歩いたところで、誰かの目に止まる可能性は低いだろう。
そう思い立ち、分厚い扉をそろりと押し開けたフィオナは、首を突き出して左右を確認した。
どこまでも続く広い廊下は、ずっと向こうまで見渡せたが、人の気配はない。
(よしっ)
行ける、と自信が出て、思い切って地図を片手に外に出る。掌サイズに丁寧に折りたたんだそれを握りしめながら、フィオナは言いつけを破っている後ろめたさに急かされつつ、ウィルの部屋を目指した。
「ええっと、どこだったかしら……」
しばらくズンズンと進んでから、漠然とした不安を覚えて歩が緩む。
同じような廊下が続いているので、どちらから来たのか自信がない。もしかしたら、逆だっただろうか。
スヴァログ宮殿の内部は、その神秘的で飾り気のない外観と違い、床は趣向を凝らした寄木細工、白い壁や柱は、その一つ一つに細かな金細工が施されているような、贅を尽くしたものだった。
大陸最大の人口を誇る巨大帝国の財力をまざまざと見せつけながら、贅を尽くした中にも、白をベースにした綺羅綺羅し過ぎない落ち着きを備えており、近代的な華やかさと、伝統的な雪国の慎ましさが混在した宮殿内を彷徨い歩く。
「多分、こっち……あら?」
記憶を頼りに角を曲がると、予想と違う……ような気がする光景に遭遇した。
「こっちなような……ちがうような」
「そこで何をしている」
「!」
おろおろと戻るか進むか迷っていると、厳しい声をかけられ、フィオナは飛び上がった。
おそるおそる振り向くと、軍服姿の大男が、律動的な足取りで近づいてくるところだった。
見上げた相手は、横幅も背丈も、フィオナが知る中ではかなり長身の男性であるヴァンよりも大きく、口髭を蓄え、右目に大きな眼帯をしていた。
目を隠しているせいか年齢が分かりにくく、精気に溢れた顔は若々しいようにも見えたが、白髪が混じった髪には老いを感じた。
服装も、これまで見た士官とは違い、直感的に、彼がかなり階級の高い将校であると悟ったフィオナは、直ぐさま姿勢を正して謝った。
「すみません。道に迷ってしまって。すぐに戻ります」
「貴女は……」
だが、不審者に対して向けられた鋭い眼光が、フィオナの顔を見て驚きに変化した。
「……?」
その表情に疑問を感じて相手を見つめ返すと、急に腕を掴まれた。
「何故、ここに」
「きゃ……っ」
相手が怯えたのを見て、慌てて手を離した男は、すぐに非礼を詫びた。
「失礼」
身を引き、腰を折って頭を下げた相手に、フィオナは恐縮した。
ここではフィオナは何の肩書きもなく、相手は、おそらくかなり高い地位の人間だ。
「どこに向かおうとされているのですかな」
問いかけてきた男の声は生真面目だったが、最初のような威圧する凄みはなかった。
「ええっと……」
ウィルの部屋、と言って分かるだろうか。
そもそも、フィオナを見た彼の反応はかなり怪しく、この上ウィルにまで会わせたらどうなるかと考えると、下手に関わらない方が良い相手であるように思えてならない。
「……大丈夫です! やっぱり戻ります!」
「待ちなさい! 一人では……」
そうと決めると、フィオナは追いすがる声を振り切り、来た道を駆け出した。
「……ああ、やっぱり迷った……」
嫌な予感はしていたのだが、なりふり構わず走って逃げ出した結果、フィオナは迷った。もしかしたら、もっと早くから迷っていたのかもしれないが。
薄々自覚しているが、フィオナは方向音痴だ。
そろそろ、本格的に自覚する必要があるかもしれない。
情けなさに涙が出そうになりながら、地図を握りしめて心細く歩いていると、唐突に、背後に気配を感じた。
「……っ」
後ろから口をふさがれ、腰を抱かれて柱の陰に連れ込まれる。
(何で……っ)
恐怖と驚きで混乱する。
ここは、下町の裏路地ではない。れっきとした王都の宮殿内で行われた暴挙に、信じられない気持ちでフィオナは精一杯の抵抗を試みた。
「んーっ、んーっ!」
何とか声を上げようと、口をふさがれたまま叫び、浮いた足で空を蹴った。
後ろから羽交い締めにしてくる相手の顔は見えないが、回された腕の袖から、この宮殿に仕える黒服の士官であることだけは分かる。
「へへっ……」
引き攣れた笑いが耳元で聞こえ、服の上から身体をまさぐられる感触に全身が総毛立つ。
(誰か――!)
「ぐふっ……」
声にならない声で助けを求めた時、唐突に、すぐ近くで鈍い音とうめき声が聞こえた。
急に放り出され、床に倒れ込みそうになった身体を、別の誰かの腕が支えてくれる。
それは、シュヴァルト帝国軍の漆黒の軍服だったが、着ている男の顔は、よく覚えのあるものだった。
「ジ、ジーク……?」
名を呼ぶが、相手は答えず、フィオナが自分の足で立つと、直ぐさま倒れ込んだ男の鼻先に、抜き身の剣を突きつけた。
「……死にたいのか」
「ヒッ……」
どうやら最初に左頬を殴打されたらしい男は、顔の半分を腫らしながら、小さく息を飲んだ。
「……伝えておけ。今後、彼女に手を出した者は死刑だ」
「ハ、ハハイッ」
命令の内容を咀嚼する余裕もなく返事をする。何とか、今回は見逃される、という部分だけは瞬時に汲み取ったらしく、男はわたわたと腰を上げた。
「……待て」
立ち上がった男の胸元からこぼれ落ちた小袋に、ジークが再び待ったをかけた。男が、条件反射に近い反応で静止する。
「貴様、何を落とした」
「コレは……!」
男が拾うより先にジークの切っ先が落とし物を突き刺し、裂けた布袋から中身が零れ出した。
それは、無骨な軍人男性が持つには相応しくない香袋だった。
凍りつく士官の前で、袋からこぼれ落ちた香草を拾い上げたジークが匂いをかぐ。
その瞬間、滅多に表情を変えない男が、露骨に眉を顰めた。
かと思うと、目にも止まらぬ早さで男を振り返り、今度は拳でなく、抜き身の剣の柄で横薙ぎにこめかみを殴打した。
骨が折れたのではないかと思うような音立て、廊下の真ん中に転がった士官は、もんどりを打ちながらも、気を失う直前で持ちこたえた――持ちこたえさせられた。
「下劣なものを持ち出すな」
「ぐっ……ウッ……も、申し訳ございませ……っグアッ」
謝ろうとする男の脇腹を、容赦なく軍靴の先で抉り、ジークは、身悶える男に平坦な声で命じた。
「お前だけではないだろう。言え。一人残らず吐き出せ。さもないと……」
「い、言います! 言います!!」
再び剣に手をかけた皇子に、男は魂を絞るような声で叫んだ。




