プロローグ
シュヴァルト帝国の歴史は、搾取と略奪の歴史だ。
北を常雪のニブルヘイム大山脈に阻まれた貧しい内陸国には、他者を侵掠し、搾取し、自国を拡大する意識が根付いている。
そうしないと、繁栄は望めなかったからだ。
極寒で脆弱な大地に生まれ落ちた不運な民の選択を、一体誰が責められようか。
だがそのシュヴァルトを、口の悪い西の大陸の者たちは、しばしば『悪魔の民』と罵る。
奪うことしか知らぬ、人の心を持たぬ国質だと。
神が恵みを与える者だとしたら、たしかに彼らは神に愛されなかったのかもしれない。
いつだって恵みは、与えられるものではなく、奪うものだったのだ。
「サラバンド――」
凍えるような低音が、その名を呼んだ。
石造りの、堅牢にて無骨な玉座の間。
滅多に空が晴れることのないこの都で、昼なお暗いその広間には、いくつもの松明が煌々と燃え盛っている。
寒く厳しい自然環境で生きるうち、力と炎を神聖視するようになったシュヴァルト帝国の、皇帝の間に相応しい、力強い炎。
「あの男、とうとう我らではなくアルファザードを選びよったわ」
牙狼王――とその男は呼ばれていた。
銀髪、というには黒に近い灰色の髪が、刃のような鈍い光沢を帯び、松明の炎を受け赤く揺らめく。
冷酷なアイスブルーの眼が見定める先に跪いた男は、面を伏せたまま口を開いた。
「左様でございますか。エルドラド国王――彼も、愚かな決断をしたものです」
一人娘の輿入れ先については、娘が成人する十五歳の誕生日まで決定を保留する――全ての候補先に平等に伝えられたその通知は、凡骨と評される男なりの、苦肉の策であったはずだ。
エルドラドの美姫の結婚相手には、白雪姫の評判を聞き及んだ複数の国が手を挙げてはいたが、実質は東西の大国、アルファザード王国とシュヴァルト帝国の二択でしかない。
ただの婿選びではない。東西大陸の勢力争いに挟まれ、緩衝地帯として中立を保ってきた小国が、一体どちらの勢力につくのか、その決断を迫られた、大きな局面でもあった。
「……全く愚かな男だ。転がり込んできた玉座にすら、上手く座ることが出来ないらしい」
玉座の男――シュヴァルト帝国皇帝バルドゥルは、呆れたような息を吐いた。怒りよりも、呆れの方が先立ったような声だった。
究極の決断を迫られたエルドラド国王は、元は第二王子で、野心もなく、自由気ままな若者であったという。
それが、兄の急死によって棚から転がり落ちてきた王位と同時に、国家存亡の岐路に立たされ、娘をどちらの国に売るかで自国の未来を左右する選択を迫られるとは――彼自身、思っても見ない数奇な運命であったはずだ。
跪く男――サラバンドは、黒いローブのフードを目深にかぶり、顔を地に伏せたまま、言葉を継いだ。
「――その上、幸運にもサン=フレイア王室に縁を持つ女を妻にしながら、その妻をも死なせ、後妻には出自のはっきりしない美貌のみの女を据える愚行ぶり……それでも、確かにサン=フレイアの血を引く姫君が生きていれば、助けを求める余地もあったでしょうが、その姫すら不審な死を遂げたとなれば――」
その先は言うまでもない。
矜持の高いサン=フレイア王国は、せっかくの特例をもってくれてやった愛姫と、その愛娘をみすみす死なせたエルドラドに対して、失望と不審を抱きこそすれ、その危機に身を削って駆けつけてやる理由は持ち合わせていないだろう。
小さく力を持たない、ただ地理的な重要性から緩衝地帯として、他国からの侵略を免れてきた国。
逆に言えば、東西の均衡が崩れた時、真っ先に戦禍の餌食となるのもまた、この国に課せられた宿命だった。
それでも、アルファザード王国の世継ぎとの婚礼が済んでいれば、西の大国に全面的な支援を望めた。
立場を明確に表明した今、エルドラド国王は婚約から婚礼までの時期を急いだはずだ。
だが、正式な婚約を発表する前に、虎の子の姫は死んだ。
「これは天啓である」
皇帝の声は、ニブルヘイム大山脈の常雪を思わせる、冷たさと重々しさを持って響いた。
最果ての王――この国が統一ディーア帝国の支配下にあった時代も、一辺境伯に任された荒れた土地が顧みられることはなく、華やかな歴史の変革の中心は、常に西側世界にあった。
大陸地図の片隅で、ひそやかに実りを奪い合い、旧習と本能に従って生きていた民を、目覚めさせたのはこの男だ。
鞭で叩き、飴で走らせ、長い停滞と惰眠を貪っていた雪国の民に、国家の犠牲という尊い役割を与えた――結果、東の巨人は、ようやく歴史の表舞台に立つだけの力を身につけたのだ。
「天啓でありましょう」
サラバンドも答えた。
「お前もそう思うか」
得たりと笑う。皇帝――バルドゥルにとって、サラバンドの言葉には、絶対の価値があった。
サラバンドは顔を上げ、黒い布で覆った顔から、瞳だけを覗かせて皇帝を仰ぎ見た。翡翠の瞳に、魔性の力を込める。
「時流が、新しい時代を拓こうとしています。今こそ我らが、神聖ディーア帝国を越える栄華を築く時――」
そして、『予言』を口にした。
「日は、シュヴァルトから昇るのです」
※
シュヴァルト帝国の第一皇子――皇太子アルベルトの私室の壁は、飾り棚で埋め尽くされていた。
それ自体に芸術的価値のある輸入物の飾り棚には、透明度の高いグレイシアス・ガラスが嵌め込まれ、数え切れないほどの陶磁器人形が陳列されている。
動物や天使の人形も混じっているが、その大半が若い女性か、少女を描いたものだ。
大きさも様々で、観賞用として一般的な掌サイズのものから、普通は手に入らないような赤子ほどの大きさのものまで揃っている。
この陶磁器人形は、雪豪馬と並ぶシュヴァルトの名産の一つだ。
皇太子の数百に及ぶコレクションは、シュヴァルト皇室専属陶磁器工房の名技師によって作られたもので、全ては皇太子自身のオーダーを賜り、希望を実現させたものだった。
無数の無機質な目に見つめられる奇妙な空間で、一人の士官が、つい先頃言い渡された報告を終えた。
「ああ、そう」
だがその報告を聞いても、アルベルトの反応は薄かった。
「まぁ、私が振られちゃったからね。仕方ないだろうね」
まるで他人事のように言い捨てた男は、円卓の前に腰掛け、熱心に中央に座した置物を見つめている。
「殿下、そちらは新作ですか?」
「ああこれ」
だが彼のことをよく知る士官は、そつなく彼の執心している置物について訊ねた。
すると初めて皇太子は、波打つ灰色の長髪を揺らし、嬉しそうに振り返った。
「うん。新しく陶磁器工房から届いた新作だよ」
御年二十二歳を迎えるアルベルト皇太子は、無邪気ともいえる猫のような笑みを浮かべた。
「私のオーダーに応えるために、冬の間中をかけて作ってくれたらしい。傑作だろう」
問われ、審美眼に自信のない士官は、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
彼が座るつづれ織りの肘掛け椅子や、寄木細工の丸テーブルの価値を問われた方がまだ、西大陸から輸入したという箔がつくだけ、褒めそやすには事欠かなかっただろうに。
――この巨大な国の長であり、彼の父でもあるバルドゥル皇帝は、己以外の全ての玉座に近しい人間を排し、流血によって頂点に上り詰めた男だ。
彼は即位した後、土木事業、貿易事業、国内の税制改革、官僚機構と常備軍の整備、戸籍管理から市民の服装や髭の手入れまで、ありとあらゆる分野に自ら着手し、強引な改革を推し進めた。
そのように若い頃は、まるで時代遅れの祖国を刷新するために生まれてきたかの如き革命家であったバルドゥルだが、いつからか戦争以外への興味を失ったように、軍事以外の分野は、廷臣たちに任せるようになった。
西大陸との貿易分野に関しても、第一皇子アルベルトに任せっきりで、好きにさせているというのが現状だ。
美しいもの、優れたものを愛するこの皇太子によって拓かれた交易路は、シュヴァルトに西大陸の息吹と恵みをもたらしたが、同時に、閉鎖的な祖国と対照的な、自由で華やかな西側世界への、人々の憧憬とコンプレックスを、より掻き立てるものにもなった。
そのアルベルトが、何よりも、最も心から愛するのが、この陶磁器人形だ。
「タイトルは……『三女神の嬌演』」
そう言って、すぐに皇太子の視線は人形に戻った。
寄木細工の円卓の上では、タイトル通り、三人の女性がそれぞれにポーズを取っている。
その一つ一つを指さして、皇太子が歌うように名前を挙げていく。
「フレイア、アプロディテ、アルテミス」
それは、有名な神話の三美神だった。
ある時、美貌で名高い美の女神アプロディテと、炎と戦の女神フレイアが、どちらが美しいかを競い諍いになった。
その仲裁をした男神が、もう一人の美神、月の女神アルテミスを交え、三人のうち誰が美しいのかを、大神オーディンの審査で決めるという案を持ち出したのだ。
そしてオーディンはそれを快諾し、選んだ者を妻にしてもいいとまで言った。
その結果は――
「やはり、アルテミスが一番美しい」
アルベルトが満足げに言った。中央で座る女性の人形の、艶やかな銀の髪を指先でなぞる。
「私も、大神オーディンと同意見だよ」
苛烈なる美貌を持つ戦女神フレイア。
艶やかな美の女神アプロディテ。
静謐なる乙女、月の女神アルテミス。
大神の心を射止め、最高美神の栄誉を手に入れたのは、女の争いに巻き込まれた形になったアルテミスだった。
だが彼女は、大神の求婚も振り切り、己が守るべき月へと帰って行く。
そしてこの話にはオチがあり、結局、戦女神フレイアが、オーディンの妻となり、女神の最高位に上り詰めたのである。
「――決して手に入らない清らかな乙女だからこそ、大神も惹かれたのかもしれないねぇ」
権威になびかず、月へと帰った処女神。そこには、ある種の男の女性への幻想が詰まっている。
呟いてからアルベルトは、
「そういえば、振られるところまで一緒だな」
と苦笑する。
「白雪姫は、彼女くらい美しかったのかな」
結局見ることの叶わなかった『婚約者候補』を、彼は口にした。
「透き通る陶磁器の肌――髪の先まで宝石のように輝く、清らかで気高い美貌――静謐な微笑――美しい翡翠色の瞳」
口ずさみながら陶器の表面を滑っていく指先が、顔の上で止まる。
言われて初めて士官は気付いたが、そのアルテミスの瞳は、エメラルドを嵌め込んだような、鮮やかな翠色をしていた。
「思い出すね」
懐かしそうに笑う彼が、誰を思い出しているのか、正直分からなかった。
「……さて、私の可愛いお人形は、今頃どこにいるのかな」




