第二十四話 決断(1)
その屋敷は、王城周辺に立ち並ぶ貴族屋敷の1つであった。
持ち主はサン島ゆかりの男爵であったが、ローゼン侯爵領とは直接の繋がりはない。
夜陰にまぎれ、1台の馬車が屋敷の門前についた。
そこから、喪服のような黒いドレスを来た女性が降りる。
4人の男を連れて門をくぐった女性が、庭園を横切り、屋敷の前に立つと、待ち構えたように両開きの扉が開いた。
客人を迎え入れるにしては遠慮がちに開いた扉の隙間から、ひそやかな声が招き入れた。女性を迎え入れたのは使用人ではなく、この家の主だった。
「お待ちしておりました。もう、お二方はお待ちです――お二階へ」
女性は黙って頷き、滑り込むようにして扉の隙間をくぐった。従えていた男のうち2人を残して、他2名が後に続く。いずれも暗い色合いの服装に身を包み、腰には剣を佩いていた。
中は、ごくありきたりな貴族屋敷の造りをしていた。
絨毯敷き玄関ホールに足を踏み入れると、正面に大階段が伸び、2階へと続いていた。
男爵の先導を受けながら階段を上る。気が急いて、不覚にも足を滑らせかけた。
「足元が暗くなっておりますので、お気をつけ下さい、王妃殿下」
蝋燭を持って先を行く男爵が、慇懃に囁いた。王妃は羞恥に染まった顔をうつむけたが、この暗がりでは、相手が気付くことはなかったはずだ。
乱れる心を落ち着けようと胸に手を当て、大きく息を吸う。
忌々しいほど計画が狂っている。
事態の急変を受け、ベアトリスは急遽、コルタ財務大臣とフェッセン伯爵との談合の日取りをつけた。それが今夜であったのは、己の手際の良さを賞賛したいくらいだ。
そもそもは、サン島の代表的貿易都市ロンテル自治商区に対する、フレイア島側の不当な税政策が根底にある。
元老院は課税の承認権を有し、元老院議会の承認なしに、不当な課税は認められない。
逆に言えば元老院を通過すれば、その議案は滞りなく大法官に上げられる。よほどのことがない限り、国王がこれを否決する理由はない。
ロンテル自治商区は特別課税を納めることと引き替えに、市民による自治権を得ていたが、近年、好景気と共に課税が増した。
フェッセンを始め、サン島派が減税施策を訴えるも、議席数で優位に立つフレイア島派が、自治権やその他の特権を盾に、次々と課税案を通し、事実上は青天井となりつつあった。
その不当な扱いに不満を抱いたロンテル市議会には、元老院に対する発言権はなく、彼らが訴える先は、平民からなる庶民院しかない。だが庶民院は、いまだ形だけのものであり、下院決議の効力はないに等しかった。
一方、行政側に目を転じても、官職にブルジョワ官僚の数は増えているものの、行政各庁の上級職は全て宮廷貴族に独占されている。結局のところ、彼らは有力貴族議員に擦り寄り、便宜を図ってもらう他に道はなかったのだ。
そうしてロンテル自治商区の有力者が、フェッセン伯爵に話を持ちかけ、その話がベアトリスにまで聞こえてきた。
こちらからつついたという部分もなくはないが、表向きはフェッセンからの願い出を引き受けるという形で、ベアトリスが取りなし、コルタ財務大臣との繋ぎを取ってやった。無論、コルタ候を『こちら側』に引き込むには良い機会だという、打算があってのことだ。
コルタ財務大臣には多額の賄賂と、また、王妃の息子が王位についたあかつきには、国璽尚書への引き立てもちらつかせた――ちらつかせただけだが。
コルタ自身は宮廷貴族として、その狡猾さでのし上がってきた佞臣であり、大法官に次ぐ、俗貴族の最高職である国璽尚書の地位に、目がくらまないわけはない。
だが、耳の良いコルタは、もう城下で急速に広まっている噂を耳にしているはずだ。
第一王子ウィリアムの帰還は、サン島に傾きつつあった流れを、一気にひっくり返しかねないほどの爆弾だ。
せっかくまとまりつつあった話を、白紙に戻されてはたまらない。今夜は話し合いを重ね、念を押すための機会であったが、ベアトリスは同時に、フェッセンを糾弾しなければいけない、と強く念じていた。
フェッセンは、3年前からベアトリスが目をかけてやっていた議員だ。今回の議長当選は、ローゼン侯爵家の威光をもって、フェッセンに票を集めた結果と言ってもいい。
ロンテル自治商区の勢いも隠れ蓑となり、不自然なく50年ぶりのサン島議長に当選した。
だが結局、3年前のあの時、あの男がしくじったことが、今になって尾を引いている。
ここまで引き立ててやった恩をどう返すつもりか、どんな手を使って事態の打開を図るつもりか、コルタとの話し合いの内容よりも、そちらの糾弾の手順の方が、ベアトリスの脳裏をめくるめく。
今、ベアトリスの胸は怒りに滾っていた。
ここまで狂うような怒りを覚えたのは、3年ぶりのことだった。
※
衝動のままに花瓶を叩きつけると、耳障りな音を立てて陶器の破片が絨毯に飛び散った。
その音はおそらく、城の廊下の向こうまで響いていただろうが、誰かがベアトリスの私室に飛び込んでくることはなかった。
手当たり次第に近くのものを叩き落とし、壊していく。掴める物が手近な場所になくなったところで、ようやくベアトリスは肩で息をしながら、その惨状を見下ろした。
割った中には、グレイス産の貴重な硝子細工も含まれていたらしい――暗く沈んだ床に、月明かりを受け輝くきらめきがあった。
誘われるように、窓の向こうの月を見上げる。
満月に近い円を描く巨大な白月を、ベアトリスは憎々しい思いで睨んだ。
「ヴィンセント……」
零れたのは、愛しい息子の名前だった。
沸き立つ感情を抑えるように、胸の前で拳を握る。
2人目の息子――エドゥアルトの12歳の誕生日から一夜を明け、ベアトリスの元に届いたのは、待っていた朗報ではなく、悲報だった。
第一王子と第二王子の失踪。
昨夜、第一王子の襲撃を手配したフェッセンの話では、放った2人の暗殺者のうち1人は戻り、失敗を報告したという。
もう1人の行方は知れない。
第一王子の傍についていた第二王子によって取り押さえられたのは確かだが、その後、姿を見た者はおらず、死体が上がってきたという話もない。話題にも上がらない。
結果だけ見れば、昨夜唐突に第一王子と第二王子が行方をくらましたという事実だけが残り、その不可解な事件は、城内を騒然とさせた。
詳細は分からない。
だが、ヴィンセントが常日頃、ベアトリスから見れば異常と思うほどに第一王子に心酔していること、1人では車椅子がなければ動くことの出来ない第一王子の姿が、王城のどこにもないこと、ヴィンセントの愛馬である黒竜馬が消えたことを考え合わせると、結論はおのずと導き出せる。
ヴィンセントは、ついに命を狙われ始めた兄を連れ、危険な宮廷を逃げ出したのだ。
唐突に、背後に人の気配を感じた。
「――少しやり過ぎましたな、王妃よ」
「…………」
今見たい顔でもなく、ベアトリスは振り向きもせずに、背中で男の声を聞いた。
「以前お話ししたでしょう――我々の目的は、第一王子の心を殺すことです」
「まどろっこしいわ」
神経を逆撫でする咎め立てに、ベアトリスは吐き捨てた。
「結果的に、あの子が玉座に座ればそれでいいのよ」
――そう、全てはその為のものだ。その為には、どんなことでもしてみせる。悪魔に魂を売ることも。
「この件は、あなただけに任せているわけではないのよ。もっとも、あなたが呪いでも発動して、あの男を殺してくれれば話は別だけど」
6年前、最初にこの男の協力を取り付けた時は、すぐに決着がつくと思った。
人外の力と知恵で、邪魔者の息の根を止めてくれることを期待した。
だが、大きな誤算があった。
彼が取引条件として求めたものと、ベアトリスの目的は恐ろしく一致していたが、彼の求めた条件の方が厳しかった。
「肉体を殺してはいけません。心臓が黒ずみ、使い物にならなくなるのです」
その言葉は何度も聞いた。
契約者――と彼は呼んでいた。その意味はよく分からないが――が自らその命を差し出さなければ、意味はないのだと。
最初にその話を聞いた時は、いささか失望したものだが、こちらが手をかけた痕跡を残さずに、彼自身が死を選んだように見せかけられるのならば、それが理想だった。
天上の島には、東国の蛮族のような血生臭い交代劇は許されない。強引な手段を取れば、真っ先に疑われて汚名を着せられるのは我が子だ。
時間がかかっても、じわじわと外堀を埋めながら、彼を玉座へと迎え入れるつもりだった。
だが、期限は迫っていた。
2ヶ月後には、ウィリアムとヴィンセントは揃って成人を迎える。
国王が、すぐに成人した第一王子に王位を明け渡す気配はなかったが、フレイア島派の工作は水面下で続いており、予断は許さなかった。
また、国王は近年大きな病を何度か患っており、後遺症として、視力が急速に低下していた。
まだ壮健である年齢だったが、身体の障害が公務に支障を来すようになれば、若い世代への譲渡を考えるかもしれない。
危機感は常にあった。
だからこの期に、ベアトリスは一線を踏み越え、常に己の内にあった、獰猛な欲望を解き放った。
無論、ローゼン侯爵家の関与が疑われるような真似はしない。餌をちらつかせれば、駒を買って出る人間はいくらでもいる。
第三王子エドゥアルトの12歳の誕生日には、全国から来賓が集まっており、このブリギッド城も、常にない人の出入りを見せる。不審者が侵入しやすい状況となり、犯行動機や容疑者の特定がしにくくなる、格好の機会だった。
フレイア島派に弱みを見せるわけにはいかない。いくらでも言い逃れができる状況を作ることが肝要だった。
「あなたの手柄でなければ、殺したところで文句はないでしょう」
「それは勿論、道理です」
男の声はいつも平坦だった。感情の起伏と言うものが存在しないように、淡々と事実を紡ぐ。
「だが焦った結果、その大切な王子までが、あなたから逃げ出してしまった」
「…………」
その指摘に、唇を噛み、ベアトリスは俯いた。
まさかそんな手を使ってくるとは思わなかった。
誰が思うだろう。
自らの胎から生んだ子が、己を捨て、憎い女の子供と共に、国を捨てることを選ぶなどと。
その事実を知った時から――我が子に見捨てられたという事実が、羞恥と屈辱となって、ベアトリスを襲い続けていた。
恥辱を恥辱のまま受け入れることは、ベアトリスのプライドが許さなかった。
それは、そのまま1人の人間に対する憎悪に転換された。
「――私としても、手元に彼がなければ意味がないのですが、乗りかかった舟です。最後までお付き合いしましょう」
「どうするつもり」
そこで、初めてベアトリスは男を振り返った。男は、薄暗い部屋の中で、やはり闇色のローブをまとって佇んでいた。
目深にかぶったフードの奥の顔が、実は若いことを知ったのは、彼を2人目の息子の家庭教師として引き立て、城内に住まわせるようになってからだ。
いかにも怪しいこの風体のまま、息子の傍に侍らせることは出来なかったので、相応の装いをするように指示したのだ。意外にも、鮮やかな翡翠色の両眼が美しい男だった。
「仕方がないですね。筋書きを変えましょう」
だが男の声は、ベアトリスが知るその見た目よりも、老いて聞こえた。
「ヴィンセント殿下が、第一王子を誘拐したことに致しましょう」
「なっ……?」
予想外の――あまりにも愚かしい提案に目を剝く。だが男は平然と――平坦に続けた。
「これは殿下の陰謀です。かよわい第一王子を拉致し、殺し――潜伏期間を経て、ほとぼりが冷めた頃に戻ってくる。王として」
それは、おそらく事実とは全く相反することだが――想像することは出来た。妄想に近い。
実際にそうであれば、幾分かマシだろうに。
「私の息子に罪人になれというの?」
フードの下から零れた口元が笑った。
「彼はこれから、大陸を暴掠する。史上最大の略奪者となる男です――そう、在りし日のアルフォンス大帝のように」
三大国を滅ぼし、大陸統一を果たした伝説の大帝を、彼は引き合いに出した。
それは、ベアトリスにとっては、積年の夢を叶えた先にある――形すらない芒洋たる野望であったが、はっきりと他人の言葉で響いた、その未来に、胸を満たす恍惚を覚えた。
心技体全てに恵まれ、迸る才気と強固な信念を持つ我が子は――それだけの器の男であると、ベアトリスは信じていた。
ならば、その野望を現実とするに足る、剣と盾は、我が子のものにならなければいけない。
長年の安寧と停滞を打ち破り、新たな歴史を作るのだ。
「兄殺しという少しばかりの悪名は、100年も経てば異名になる――若き頃に略奪の限りを尽くしたシュヴァルトの帝王も、今や牙狼王などと呼ばれ、畏怖されているではありませんか」
男の平坦な声は、ベアトリスの耳に心地よく届いた。
「第一王子は一人では生きられません。我が君も、すぐに悟るでしょう。一時の情で、自分以外の人間を背負うには、あまりにも彼は若く、無力だ。権力も血統も意味を持たない世界では、青臭い理想や信念など、何の価値もない。その現実を知った時、あの方は、真に王たる器に目覚めるでしょう」
ベアトリスは想像してみた。男の言う未来を。
息子は殺すだろうか――見捨てるだろうか、あの王子を。
全てが立ち行かなくなった時、何も出来ない無力な兄に幻滅し、自らが玉座につくことを望むだろうか。
ベアトリスは笑んだ。それは、悪くないシナリオだった。
「我々は待てばいい――我が君がひとり戻ってきた時、還るべき玉座を用意するのです」




