第十七話 信頼(3)
マリーアはさすがにヘイムダル大平原の地理を熟知しており、彼女に先導されての旅は、約1日半で通過点であるウルズ半島まで進んだ。
予定よりも早い半島入りに、ヴァンが海に落ちて療養に費やした時間は取り戻せたことになる。
日が落ちる前に、フェブルア自治共和国の港町ルーベックに入る。
ルーベックは小さな町で、また、港町らしい活気をあまり感じられなかった。
「ここからも船が出ているのか」
マリーアはこの町で船を手配するつもりのようだったが、ヴァンの記憶では、ルーベックはサン=フレイア王国に、商港として正式に認められていないはずだ。
「昔はこちらが主流だったんだ。今はプルートに人が流れて、だいぶ寂れたがな」
閑散とした町並みを見渡しながらマリーアが答える。
ルーベックより更に西に向かった先にある、フェブルア自治共和国の商都プルートは、マルティ自治共和国のシャルバーニャに並ぶ、大貿易都市だ。
政治的には鎖国をとっているサン=フレイア側が、間口が多いことを嫌うため、この一都市で、二国間の貿易の大部分を担っていた。
サン=フレイア王国との交易拠点がプルートに移った時点で、ルーベックは見切られたのだろう。
その日は適当な宿に泊まり、そこで夕食をとりながら、マリーアから聞かされた明日の予定に、ヴァンは顔をしかめた。
「そんな顔をするな。脛に傷のある者は、相手を詮索しない。今のおまえにはちょうどいいはずだ」
向かいでフォークとナイフを動かしながら、その反応を予想していたようにマリーアが諭した。
「俺は構わん。だがお前は……」
「交渉だと言ったはずだぞ、ヴァン」
「…………」
マリーアの策は、この町から出る密輸船に同乗するというものだった。
今となっては非公式ではあるが、ルーベックの商港とは、古くから繋がりのある商人も多い。そのルートを使っての密輸が、現在のこの町の主なる収入源となっているらしい。
無論、闇商人を扮して乗船するのであれば、相応の商品を積載しなければならないが、それはこの場合、幻の馬種と呼ばれる黒竜馬の成体で十分だろう。
正攻法で船に積載しようとすれば、どうしたって目立つクンツァイトの希少性を逆手に取った、鮮やかな作戦である。
「商品は黒竜馬と美女。私のオブシディアンはおまえの馬だということにしておけば、向こうに行ってからの足にも困らない。完璧な作戦だ」
つまりヴァンが顔をしかめたのは、マリーアが自ら『商品』に扮すると息を巻いていることに対してである。
己の立場は、闇商人であろうが犯罪者であろうが構わないが、作戦とはいえ、女性にそういった役回りをさせることに抵抗があるのは当然だ。その上、相手は曲がりなりにも『婚約者』である。
だが交渉だと言われれば、取引を受けたヴァンが言い返せることは何もない。
小さく息をつき、ヴァンは食事を再開した。
※
翌日、密輸船は夜霧にまぎれてギャラル海峡を渡るため、船への乗り入れは日暮れ時を待って行われた。
マリーアはスヴィドの成人女性らしく頭巾をかぶり、身体のラインが分かる服装で『検閲』に挑んだ。
「男になったり女になったり、忙しい奴だな」
「慣れるとなかなかに便利だぞ」
呆れたヴァンの言葉にも、マリーアは動じない。彼女と再会してから、めっきり増えたため息をつきながら、クンツァイトを引いて、船着き場で灯りを手に待つ男の前に進んだ。
この船の持ち主である男は、うさん臭そうな目でヴァンを見上げた。
「新顔だな」
「金が要る」
「そりゃそうだ。ここに来るやつは、皆な」
だがそれ以上、男がヴァンを詮索することはなかった。
「こりゃあ、たまげた」
ヴァンが引いてきた巨大な黒竜馬に、船主は目を剝いた。
「俺も長い間この商売をやっているが、この大きさのやつを間近で見たのは初めてだ。いや、こりゃ立派だ。たいしたもんだ。仔馬ですらめったに手に入らないってのに」
男はひとしきり驚いている。もういいだろう、と思って後ろに控えていたマリーアを片手で呼んだ。
船主の方も切り替え、マリーアの腕をつかむ。
肩や腕に触れた後、顔の前にランタンを近づけた。
「ちぃと黒いか? だが、女であることには間違いねぇな」
マリーアの、女性として申し分ない身体のラインを見て、にやけた顔を見せる男を睨みつける。察し、男の方がパッと手を放して横柄に言った。
「いいぜ、乗りな」
「行くぞ」
ヴァンは、やや乱暴にマリーアとクンツァイトを引き立てた。あまり温情を見せると不自然だ。
甲板の船首近くには、すでに数頭の馬が繋がれていた。
その中に一頭だけ、目につく馬がいた。
「仔馬?」
足を折って甲板の隅に丸まっているのは、ポニー程度の大きさの黒竜馬だった。この種の大きさとしてはかなり小さく、生後間もないことが分かる。
「生まれたばかりの子をさらったんだな」
隣から仔馬を眺め、マリーアが推測した。
「産後の母馬は気が立っているから、さらう側も命がけだっただろう」
だが売れば、それだけの価値がある値がつくということだ。
ヴァンは仔馬に近づき、その隣にクンツァイトを繋いだ。クンツァイトが、小さな同志に鼻先を近付ける。
すると、元気なくうなだれていた仔馬が、顔を上げて臭いを嗅ぎ返した。
「クンツァイト、仲良くしてやれ」
軽く胴を叩いてそう投げかけ、甲板を後にする。
その他の主だった『荷』は、下層の船倉に集積されているらしい。
マリーアを引き連れて船倉の扉を開けると、複数の視線が集中した。
広いスペースに木箱や麻袋が積み上げられている傍らに、ぽつぽつと座り込んだ影が見える。ランプの明かりだけが頼りの薄暗い視界にも、それがすべて年若い女性であることが分かった。
「…………」
居心地の悪い空間だ。ヴァンの胸をよぎった不快感を察したのか、マリーアが耳打ちした。
「ヴァン、すぐに出ていいぞ。ここは安全だ」
「……そうさせてもらう」
もとより、この場に男が長居するのは好まれないだろう。マリーアに促され、ヴァンは船倉を後にした。
※
「……あいつは潔癖だからな」
倉の戸が閉まった後、その場に残されたマリーアは小さく呟いた。
厳格で潔癖、というのは一般的なサン=フレイア男性のイメージだが、まさにあの男は、それを地でいっている人間だ。
その上、元来正義感が強く、正道を好む男であり、このような現状を看過した上で利用していることに対して、精神的に抵抗がないわけがなかった。
だが、それを全否定しないあたりは、年を経ることで現実との折り合いをつけることを学んだのか――それらの信念を捻じ曲げてでも、貫きたい道があるからか。
あまり足音を立てずに、マリーアは部屋を移動した。すでに、邪魔な頭巾は脱いである。
ヴァンが退室して、集中していた視線の大半は霧散した。誰も、新しく増えた『仲間』には関心がないらしい。
空いたスペースに腰を下ろす前に、周りに積まれた荷を確認する。
(香に、酒――)
木箱に書かれた走り書きから、内容物を推察する。積まれた麻袋にもたれて腰を下ろし、手近なものを大胆に手で探った。口は堅く結ばれているが、中には袋自体が使い古されて中身が漏れ出ているものもある。
いきなり闇商人の荷を物色し出した女に、近くにいた別の女性が怯えたように距離を空けた。万一、持ち主が入ってきて見咎められた時に、仲間だと思われたくないという意思がひしひしと伝わってくる。
(葉――『クラッシュ』か)
袋からこぼれた物をつまみ、臭いを嗅ぐ。ただの干し草のように見えるそれは、麻薬や薬草として使える種類の植物を乾燥させたものだ。
大陸北部に群生する針葉樹の一つで、群生地が限られている為、外国では高値がつく。スヴィド共和国の一部でも取れるが、主生産地は、東大陸北部――シュヴァルト帝国の領地である、ニブルヘイム大山脈である。
その事実に、妙な清々しさと滑稽さを同時に感じ、マリーアは喉で笑った。母親にはとても見せられない、女らしさの欠片もない、嫌な笑いだ。……無論『婚約者』にも、見せられない。
(――?)
ふと、視線を感じて顔を上げるが、誰とも目が合うことはなかった。
直前で目を逸らされたか。
マリーアの奇行を凝視する者がいても、不自然ではなかった。大概の人間は、関わらないように目を背けるだろうが。
あまり目立つ行動は控えるか、と今更自省し、マリーアは葉の欠片を捨てて麻袋に背を預けた。
ガタン、と一度大きく船底が揺れ、ちらほらと怯えた悲鳴が聞こえた。船が動き出したらしい。
(さぁ、もう戻れないぞ。ヴィンセント――)
時は動き出した。今、この時流の中で、己がどの立ち位置に立っているのか、マリーアには分からなかった。
だが、すくなくとも3年前よりは、何かができているという自信はあった。
己が女であること、国家元首の娘であることを、あれ程恨んだことはないが、今はそのことに感謝してもいいだろう。
戦い方は身につけた。
あれからの3年間に思いを馳せるうちに、緩やかな波の揺れにいざなわれ、マリーアは束の間の眠りに落ちた。
※
「よし、いいぞクンツァイト。どう――うわっ?」
広大な庭園の1つを一巡りし、宮殿に設置された厩舎に戻ってきたヴィンセントは、安全に停止する直前に、黒竜馬の幼体に振り落とされた。
受け身を取って芝生に転がる少年に、豪快な爆笑が降り注ぐ。
「相変わらず気むずかしいな、クンツァイトは」
笑われたことにか、失態を見られたことにか――親の敵でも見るような目で睨み上げてきた王子に、マリーアが近づくと、相手はパッと起き上がって、身体についた草を払った。
「だが大分コツは掴んだ。最近は、ウィリアムを乗せなくても走らせることが出来る」
プライドの高いサン=フレイア人らしい断言口調で、憮然と答える。
草原の民であるスヴィド人をもってしても、屈服させることが難しい馬の王者は、不思議なことに、彼の兄であるウィリアム王子に対してだけは、従順だった。
無論、事故で両足の機能を失った少年が、1人で馬に乗ることはできないので、手綱を引くのはヴィンセントなのだが、その時だけは、クンツァイトは非常に大人しく、慎重に王子を運ぶ。
だがそれを繰り返していくうちに、徐々にヴィンセントの方がクンツァイトの扱いに慣れ出したのか――それとも、クンツァイトの方がヴィンセントにも心を開くようになったのか、彼が1人で乗ることを許すようになった。
「この短期間で、たいしたものだ」
それは心の底からの賞賛だったが、ヴィンセントは答えずに唇を引き結んだ。クンツァイトを見上げ、その艶やかな黒い胴を撫でる。
気丈に睨みつける横顔が、近づく別れを惜しんでいるように見えた。
マリーアが婚約の条件を飲む代わりに、サン=フレイア王国への留学を認められた期間は一ヶ月。
明日が、この国を発つ日だった。
無言でクンツァイトに触れるヴィンセントに近づき、マリーアもまたクンツァイトを撫でた。
しっとりとした漆黒の毛並み。生命の息吹を感じさせる、温かく躍動的な筋肉。彼は、力強く生きていた。
今にも消えそうな命の灯火を、必死に守った頃のことが思い出される。
――お別れの時間だ。
「こいつは、おまえにやる」
「何……?」
「スヴィドでは、部族長の一族だけが飼える馬だが、外国人のおまえには関係ないだろう」
この留学期間中に芽生えた迷いは、徐々に意志として固まり、昨夜の段階で決意になった。
だが、やると言われた側は明らかに驚きを見せ、マリーアを振り返った。
その澱みのない紫水晶の眼は、彼女の愛馬が向けるものとよく似ている。
なんだ、お似合いじゃないか――そんなことを思った。いずれは王者の威厳を持つであろうこの子は、きっと、彼にこそ相応しい。
「だが……」
「それに、女は大きくなったら馬に乗れない。私が手懐けたところで、他に乗れる者がいなければ、こいつはお払い箱だ」
「……ッ」
息を飲み込んだ顔に過ぎった驚きと――同情と憐憫の色は、この際見ないことにした。
仕方がないこともある。ここまで、何かとこの少年に対して張り合ってきたが、性別ばかりは覆せない。多分これから、どんどん引き離されていく。
彼はもっと身体も大きくなるし、力も強くなるだろう。性格は、直情的でムキになりやすいきらいはあるが、そんな欠点はマリーアだって持っている。多分、大人になったら失っていくものだ。
マリーアはどうだろう。女らしくなる己は想像がつかないが、男になれないのは間違いない。
強くなって前線で戦って、ヴァルクの馬鹿共を駆逐するのだ、と息を巻いて彼に語ったこともあるが、現実的にどこまで可能なのか。それは、これからのマリーアの挑戦だ。
「スヴィドの子として、サン=フレイアへの友好の証だ」
それは、マリーアが男だったら、是非とも大人になってから言ってみたい言葉だった。
多分言う機会はないから、今言う。子供じみたままごと願望だが、子供なのだから許されてもいいと思う。
「私にはこれくらいのことしかできないが、今後、サン=フレイアとスヴィドが、良い関係を築いていけることを祈っている」
その架け橋に、己が、己の願望とは違う形でなれるのだと――そういう思考は、その時点のマリーアにはなかった。
少年は胸を打たれたように黙ってマリーアを見つめていたが、やがて、静かに右手を差し出した。
マリーアがやりたかったことが、彼に伝わったのかもしれない。
「お前が男なら、良い王になっただろう」
「当然だ」
王ではなく、国家元首だがな――そう訂正して不敵に笑い、マリーアは差し出された手を握った。
嬉しかった。それは、マリーアが一番欲しかった言葉で、一番認めて欲しかったことだ。
叶わないと分かっていても、自分にはその器があると、誰かに言って欲しかった。せめて惜しまれたかった。
互いに目を逸らさず、真摯な眼差しで、固い握手を交わす。
……それは、その1ヶ月後に成人を迎えるマリーアにとって、最後のままごとだった。




