第十五話 信頼(1)
ヴィンセントの持つ女性像と、マリーアという女性は、おおよそかけ離れたものだった。
そもそもサン=フレイアは、女性に貞淑と温雅を求める向きがあり、ヴィンセントは、多くの淑女は、初めからそうあるものなのだと思い込んでいた節がある。
無論、中には例外もおり、その稀なる例外の1人が、己の実の母親なのだとも感じていた。
対して、まさにサン=フレイア女性の理想像と言わしめるウィリアムの母親は、慎ましく慈愛に満ちた女性であり、満月の光が滴り落ちたような、優しい輝きを纏った人だった。
理想の女性を挙げろと言われたら、ヴィンセントも彼女だと答えるかもしれない。
もっとも、それはあれが女性の理想だと言われて育ったから、そういうものだと認識しているというだけで、憧れであったり思慕の情があったわけではない。
だがいずれにせよ、女性をそういうものだと考えていたヴィンセントにとって、マリーアとの出会いは、まず女性の認識を改める、強烈な一撃になったのは間違いなかった。
よく見ると、その大きな馬は、図体の割りにつぶらな瞳をしており、顔つきは幼かった。
「仔馬かい? 大きいね」
そう言って正面のウィリアムが両手を伸ばすと、位置の低い彼に合わすように仔馬の顔が降りてきた。その両頬を挟むようにして触れ、無防備に覗き込む兄に、後ろで見ていたヴィンセントは冷や冷やした。
「もっと大きくなる。平均でも、これよりまだ一回りは成長するだろう」
「そんな大きな馬を乗りこなせるのか?」
これはヴァンの質問だ。
「大きさはどうにでもなるが、問題は気性だ」
答えたマリーアは、いつでも引き離せるように短く手綱を握っていたが、彼女の用心を裏切るように、クンツァイトは大人しかった。
「野生の群れは手に負えないくらい気性が荒い。騎馬として人間に飼い慣らされているのは、ほんの一握りだ」
「じゃあ、とても希少な馬なんだね」
ウィリアムが相槌を打つと、マリーアはこくりと頷いた。
「普通は、女が乗っていい馬じゃない。だが、どうしても自分の馬が欲しくて、生まれた子を一頭もらった。生まれた頃は病弱で、騎馬として使えないと言われていた……だから譲ってもらえたんだが、私は必死に、こいつの命を繋ぎ止めるために看病した」
そう言って漆黒の胴を撫で、大人しく他人に触られている愛馬を見て目元を和ませる。そういう表情をすると、確かに女性だと分かる。
「今はこの通り、兄弟にも負けないくらい元気だ。もともと身体は小さくなかったから、きっと立派な騎馬になる」
なぁ、クンツァイト。そう声をかけると、仔馬は律儀に顔を上げて主人を見返した。紫水晶の澄んだ眼が、少女を映す。
その目を見上げる彼女の横顔は、嬉しそうだったが、寂しそうだった。
――その表情の理由を、ヴィンセントが知ることになるのは、もう少し先の話だ。
「せっかくだから、城まで案内するよ、マリーア姫」
混乱する兵士を処理した後、ウィリアムの手引きで、マリーアはそのまま裏門をくぐった。
どうやらマリーアは、正門から入城する予定だったところを、途中で彼女の愛馬――クンツァイトが暴走し、従者とはぐれて裏門まで来てしまったので、「もう面倒臭いのでそのまま入ろうと思った」らしい。
「興奮した暴れ馬に乗ったまま、城門に突っ込むヤツがあるか!」
と怒鳴りつけたいのを、ヴィンセントは「客人」「女」と胸で唱えて飲み込み、大人しくウィリアムの車椅子を押して、マリーアと並んで歩いた。
「姫と呼ぶな」
ウィリアムの申し出に対し、マリーアはつっけんどんに言った。
「私は国家元首の娘であって、王女ではない」
ウィリアムは納得顔で頷いた。
「なるほど、正論だ。じゃあ俺は、君のことをなんて呼べばいいかな」
「マリーアでいい」
ぷいっとそっぽ向く動きに合わせ、短い黒髪が揺れる。
「分かった。マリーア、俺のことは……」
「その代わり! おまえのことはウィリアムと呼ばせてもらう! おまえはヴィンセントだ! いいな?」
皆まで言わせず、拒否権のない一方的な提案を、指さし確認付きで言い切った少女に、ヴィンセントは開いた口がふさがらなかった。
ヴィンセント達には、女兄弟はいない。今、城内で彼らを呼び捨てにする女性は、それこそ母親くらいだ。
「……これが姫だと?」
ぶしつけに突きつけられた指を睨んでいたヴィンセントの口から、これまで我慢して飲み込んでいた言葉が、ぽろりと零れた。
「だから姫ではない」
聞き咎めたマリーアが言い返してくる。
何だったら、これが自分たちの――もしかしたらウィリアムの――妻となる女だという。
「……最悪だ」
「なんだ、その最悪は。意味が分からん。詳しく説明してみろ。何事もまずは話し合うことが肝要だ」
初対面の時から妙に落ち着きを払っているこの少女は、なぜか年下のくせに微妙に上から目線だ。ヴィンセントは頭を抱えた。
「最悪だ」
「言葉の通じんやつだな」
混乱と絶望に襲われるヴィンセントに対し、動じないマリーアが追い打ちをかける。
そのやりとりに、笑いこらえていたウィリアムがついに吹き出した。普段正論を好むヴィンセントが、正論の前で感情的になっている姿がツボに入ったらしい。
ウィリアムは楽しそうだったが、ヴィンセントは己が笑い者になっている気がして、気分は最悪だった。
レナードの時も大概最悪だったが、あの場合、物笑いの対象は主にレナード側だったため、何とか己のプライドは保たれたのだ。
この女は、やることは破天荒だが、一見まともそうなことを言う――というか、彼女が男性であれば、年の割に肝の据わった男だというプラス評価が加わっていただろう――ため、いちいち動揺しているこちらの方が、阿呆に見える気がした。
「……最悪だ」
今度は、意識が浮上するのは早かった。元々、寝起きは悪くない方だ。
布張りの低い天井を睨みつけ、ヴァンは夢の余韻に溜息をついた。寝たのに疲れた。
「何が最悪なんだ? ヴァン」
左に寝返りを打ち、すぐ隣から聞こえた声にぎょっとした。
目と鼻の先あった濃藍の瞳に、飛び起きる。
「…………」
さすがに悲鳴を上げるような無様な真似はしなかったが、隣で片肘をつきながら寝そべっていた女を、無言で睨みつける。女――マリーアの方は、にやにやと人の悪い笑みを浮かべながら、ヴァンを見上げた。
「言ってみろ。話くらいは聞いてやる」
「まずは何故、お前がそこにいるのか聞かせてもらおうか」
「言っただろう。ここは私専用のゲルだと」
「それは知っている。何故それなりに広さのあるこの場所で、わざわざ俺の隣に寝転がっているのかと聞いている」
質問というよりは小言に近い厳しい声に、だがマリーアは反省した様子もなく、上体を起こして伸びをした。だから、巻きスカートで胡坐をかくなと。
「まあいいじゃないか、そんなこと。事情を話せば長くなる。まぁ端的に言えば、起きた時のおまえの反応が面白そうだったからだな」
「それだけだろう」
「そうとも言う」
マリーアが声を殺して笑った。ヴァンはその向かいで、やはりこちらも胡坐をかいて、頭を抱えた。
「最悪だ」
「寝言と同じことを言うな」
「寝言?」
「うなされていたようだが」
「ああ」
促されて、直前まで見ていた夢の内容を、おぼろげに思い出す。
「悪夢を見ていた」
「ほうどんな?」
興味をそそられたように、マリーアが身を乗り出してくる。
「お前と初めて会った日のことだ」
「……それが悪夢か! 相変わらず失礼なヤツだな! 仮にも命の恩人に向かって……」
「だが、今は会えたことに感謝している」
「…………」
「お前に教えられたことは多い」
「全く……相変わらずだな、おまえは」
唐突に、真正面から伝えられた謝辞に、面喰っていたマリーアが苦笑した。
「俺はどれくらい眠っていた」
「半日ほどだな。さっき日が昇ったばかりだ」
天井を見上げると、布越しにも、外の明るさが分かった。
胸の前で腕を組み、マリーアは口調を改めた。
「ギャラル海峡を渡るのだろう。どうやって行くつもりだ」
「泳いででも渡ってやるさ」
何かしら方法はあるだろうと、とりあえず現地に着いてから手段を考えるつもりで、特に何も決めてない。
「ぷっ」
すると、マリーアが失礼な顔で吹き出した。
「相変わらず、冷静なのか馬鹿なのか分からんやつだ」
言うことは余計に失礼だ。
だが彼女は、男らしいと言ってもいいふてぶてしさで、頼もしい言葉を口にした。
「手引きしてやらんでもない」
※
「着替えるから外で少し待っていろ」
と、ゲルを追い出されたヴァンは、裏に回ってクンツァイトと再会した。
飽きるほど変わらない景色が続く草原の真ん中に、間違い探しのように唐突に現れる白いゲルは、適当な距離をあけて4つ建っていた。それぞれにマリーアの兄弟と従者が止まっているらしく、裏手には数頭の馬が繋がれている。
「クンツァイト、良かった」
首を撫でると、愛馬は再会を喜ぶように身を震わせた。
ヴァルク兵の返り血を浴びた胴は、綺麗に洗い流されており、漆黒の毛並みは丁寧に梳かれていた。
ここ数日、日が上っている間はほとんど走りづめで、あまり手をかけてやれなかった分、見違えて綺麗になっている。
クンツァイトは、もともとマリーアが飼っていた馬だ。
出会った頃のクンツァイトは、まだ仔馬だった。と言っても、その時点で、すでに一般的な成馬よりも大きかった。
手のつけられない気性の激しい馬を、マリーアが見事な技術で御していたのだが、なぜか、何の技巧も持たず、一人で馬に乗ることもできないウィルの前で、クンツァイトは無条件に大人しかった。
動物の子供は、外敵に襲われないよう愛らしい姿をしているのだという。つまり、野生の獣たちの中にも、か弱いものを慈しむという感情が存在するのだ。
人と心を通わせる知能を持つクンツァイトにとって、ウィルは、決して傷つけてはいけない、無条件に慈しむべき存在だと認識されていたのかもしれない。
「感動の再会は済ませたか?」
よく通る落ち着いた声が背にかかり、振り返ったヴァンは、反射的に顔をしかめた。
「またそれか」
「また、とはなんだ」
マリーアは男の姿をしていた。
スヴィドの成人男性が着る乗馬服は、元々上背があり、骨格も女性にしてはしっかりしているマリーアが着ると、よく映えた。
日に焼けた肌色は、雪国の女にしては、いささか健康的に過ぎる。女性の白い肌を尊ぶスヴィドの風習を考えると、この格好をしている彼女を、女性と思う者はいないだろう。
見事な『美青年』だった。
「女の姿で馬に乗ると、何かと面倒なんだ。この方が楽でいい」
マリーアは、自分の変身後の姿を確かめるように見下ろし、胸のあたりを叩いた。
「大分女らしい体型になってしまったのでな。胸をつぶすのが少々苦しいのだが、まぁごまかせているだろう? 触ってみるか」
「ふざけるな」
「ふざけているに決まっている」
「…………」
マリーアは笑いながら、仕上げとばかりに手にしていた帽子をかぶった。
高い位置で1つに結んでいた長髪を小さくまとめ、器用に帽子の中に納める。
「そういえば、随分髪も伸びたんだな」
「今更気付くか?」
青みがかった黒髪はスヴィド人に多いが、5年前に出会ったときは、男のように短くしていた。
「私にとっては邪魔の比率の方が高いのだが、女は髪が命なのだそうだ。すぐに伸びるものではないし、嫁入り時に男のような頭をしていては、さすがに先方に申し訳が立たないだろう」
「…………」
マリーアの台詞に、ヴァンは返答を迷った。
正直、マリーアに再会するまで、婚約の話も忘れかけていた。
というより、いつ戻れるかも分からない逃亡劇で、捨てた国の都合で決まった婚約話を、現実的に考える余裕などなかったというのが正しい。
だが、それはこちら側の都合で、相手の方は、婚約者がともども失踪した話を伝え聞いた後も、いつになるか分からない嫁入りのために、準備をしてきたことになる。
……全てを捨てて祖国を出たことに、後悔はなかったはずだ。
だが、捨てた側に彼女も入っていたのだということを再認識すると――
「この期に及んで、私に対して申し訳ないという気持ちが生まれてきたのなら、それは必要ないぞ、ヴァン」
無意識に視線が下がっていたらしい。表情を読んだようなマリーアの台詞に顔を上げると、相手はすぐ目の前にまで近づいていた。
一般的な女性よりも頭の位置が高い相手を見下ろすと、右手が伸び、視線を固定するように顎を掴まれた。
目を逸らさずに、彼女が告げる。
「私たちの婚約は個人のものではなく、国家間のものだ――これは外交だ。それを違約した場合、おまえは我が国と自国に対しての責任は負うが、私個人に対して責任を負うことはない」
「…………」
「はじめから、夫が誰になるか分からない状態で、婚約する『国』は決まっていたんだ。私はそれに従うと決めた。相手が誰であれ、いつになれ、それを受け入れるのが私の役目だ。まぁ、どちらかの国が現状に耐えかねて婚約を破棄すれば、その限りではないが」
「あぁ……」
すまない――と、謝るべきではない。
そう思い、出かかった言葉を飲み込む。
結婚を外交だと言い切るこの女性の強かさに敬意を表して、ヴァンは以後、彼女を『婚約者』ではなく、『外交官』と見る努力をすることに決めた。
「それか、おまえたちでなければ、下の王子になるかもな。大分年増だが」
指を離し、付け足された軽口は、ヴァンにとっては二重の意味で重かった。




