第十三話 再会(3)
……随分と長い間、夢を見ていた気がする。
膜の張った五感の中で、最初に覚醒したのは聴覚だった。
布擦れの音、忍んだ足音、水音……あまつさえ、鼻歌が聞こえてきた。
次は嗅覚だった。独特の香の匂いがした。
慣れない香りだが、どこかで覚えもあるような気がした。どこだったか……
次に触覚。意識して指先を動かそうとすると、急に指令を与えられた神経が驚いたように、ビクリと手が跳ねた。
その瞬間、鼻歌が止まった。布擦れの音が近づき、気配が枕元に寄る。
「――気が付いたか」
上から降ってきた声は、少し低い、女性の声だった。
そこでようやく、視覚。ヴァンは、ゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
布張りの簡素な天井を背景に、女の顔があった。
健康的な肌色の、20歳に届くかどうかといった年頃の女性だ。顔に見覚えがあったわけではないが、その青みがかった黒髪と、夏の夜のような印象的な濃い藍色の瞳には、古い記憶が重なった。
スヴィド人らしい彫りの深い顔立ちと、誇り高さが表れた目元が美しいその女性は――
「マリーアか……?」
「覚えてくれていたようで光栄だな。ヴィンセント殿下」
そのあまり女性らしからぬ言葉遣いも、記憶のままだった。
「忘れるわけがないだろう。お前は、俺たちの――」
生真面目に答えかけ、ヴァンは己が横になったままであることに気付いて、身を起こした。
「あまり無理はするな。雪解けたとはいえ、この時期のエーギル海に飛び込んだんだ。身体が弱い奴なら息の根が止まっている」
ならば心身ともに丈夫なヴァンには縁のない話だ。身体の節々が痛んだが、幸い、動かない箇所はなかった。
姿勢を改め見回すと、そこは布で出来た簡易家屋の中であることが知れた。円形のスペースを骨組みで囲い、上から布をかぶせてあるらしい。香を焚いているのか、独特の香りが仄かに漂った。
遊牧民であるスヴィドの民の、伝統的な移動住居――ゲルだ。
現在では国境を決め、都心を中心に定住の道を選んでいるスヴィド人だが、広い平原を移動する際には、今でも馬とこのゲルを使う。
意外に広いそのゲルの中にいたのは、ヴァンとその女性――マリーアだけだった。
「随分と様変わりしたな」
向かい合う形で座ると、何よりも先にその言葉がついて出た。
「様変わり、とはなんだ。綺麗になった、くらいの言葉は出てこないのか、無粋なやつめ。ウィリアムならもっと上手く誉めるぞ」
「ああ……そうだな、綺麗になった」
真顔で訂正すると、苦情を申し立てたマリーア側が表情を緩め、ぷっと笑った。
「相変わらず真面目が服を着て歩いているヤツだ。いつもそれでは、ウィリアムの息が詰まるだろう」
笑いをかみ殺しながら腕を組む。女性の民族衣装である巻きスカートのまま胡坐をかくのはいかがなものかと思ったが、記憶の中のマリーアは、確かにいつもそうしていた。――あの頃は、常に男物の服を着ていたので気にならなかったが。
「まあ棒読みだったことは、この際まけておいてやろう」
別におべっかを言ったつもりはなかったが、相手には感情がこもっているようには聞こえなかったらしい。そんなつもりじゃない、と弁解しようとしたところ、
「ウィリアムを見慣れているお前に言われても信憑性が薄い」
不満が顔に出ていたらしく、きっぱりと付け足されて、ヴァンは今度こそ黙った。それはマリーア側の都合だろう。
だが特に重要な会話でもなかったようで、マリーアはさっさと話題を変えた。
「まったく、数年ぶりの再会がこんな形になるとはな」
「お前が俺を助けたのか」
問うと、マリーアは面白そうに目をすがめてヴァンを見た。
「見ていたぞ。馬を守るために、自ら的になって海に飛び込むとは、無茶をする」
「あのまま共倒れするよりはマシだ」
それは本心だったが、口にして、確かに無茶だったと自覚する。
「あれはヴァルクの国境警備部隊だ。警備と言いつつ、我々の領域に度々踏み込んでくる迷惑な客だがな。お前が襲われたのは、スヴィドの部族長と間違われたからだ」
「部族長に?」
「前にも言っただろう。野生の黒竜馬は手懐けられない。人間に従うのは、各部族長が代々飼っている種だけだ。この国であの馬に乗るということは、私はどこかの首長ですと言っているようなものだ。狙われて当然だな」
「…………」
あっけらかんと笑うマリーア。
その希少な馬をヴァンに贈った太っ腹な人間は、この目の前の女性だ。
「ヴァルクの国境警備隊はどうなった」
「私の部隊が蹴散らした。巡回中にお前が襲われているのを見つけて、後を追ったんだ。もう少し粘っていれば、無傷で助け出してやったものを」
「待て、お前の部隊だと?」
聞き捨てならない台詞に、聞き返す。
「私兵だ。まあつまり、弟たちだ。まだ成人していないヤツがほとんどだが、戦力としては申し分ない」
「お前はいくつだ」
聞きながら頭痛がしてきて、こめかみを押さえる。落ちた時に頭を打ったのかもしれない。
「レディに年齢を聞くのか? 相変わらず無粋なヤツだ」
「俺の記憶が確かなら、スヴィドのレディは馬を駆ることも部隊を率いることもないはずだがな」
「脳みその硬直した爺共と同じことを言うな。もっとも、お前の頭は昔からカチカチに固まっているが」
さらっと失礼なことを言って、マリーアは胸を張った。
「今年で19だ。どうだ参ったか。畏れおののいたか」
「……ああ、恐れおののいた」
正直に応える。
スヴィドの民の成人年齢は、大半の大陸の国家と同様、女は15歳、男は17歳だ。
女性は成人したら、自分で馬を駆ることはない。明確に禁止されているというわけではないが、品性の問題だ。
勿論、草原の民として危急時に馬を駆れることは大前提だが、日常的に乗ることは好ましく見られず、移動の際には、女性は馬車を使う。
馬を駆り戦に出るのは男の仕事であり、女性は家を守る役割に徹することを求められるということだ。
成人してからは、そういった女性らしさを求める周囲からの締めつけもきつくなるはずだが、4年揉まれてこの勇ましさというのは、ある意味おそろしい。
「そろそろお前達が決着をつけてくれんと、嫁き遅れてしまうぞ」
「…………」
その軽口にはあえて返事をせず、ヴァンは部屋に視線を走らせた。
聞かなければいけないことが多すぎる。
「俺はどれくらい眠っていた」
「なに、ほんの3時間ほどだ。海に落ちたところをすぐに引き上げてやったからな。まぁだから、もう少し休んだ方がいい」
「ここは?」
「私の部隊の駐屯地だ。場所はマルティの西の境界ギリギリだ。少し戻った形になるが、さすがに許可もなく他の部族のテリトリーにキャンプを張っては、何か問題が起きた時に面倒だからな。お前を見つけたのは、領内を巡回していた時だ。幸運だったぞ、もう少し西に走っていれば、もうアプリーリ自治共和国だ。領外で起こった揉め事なら、追いかける大義がなかった」
共和制を敷いているスヴィドでは、それぞれの部族がテリトリーを線引きし、忠実に守っているらしい。知識としては一応知っているが、その辺りのローカルルールは、異邦人であるヴァンには分かりにくい部分だ。
「ここは私専用のゲルだ。兄弟たちのゲルとは離れているし、私の指示なく人の出入りがあることはない。安心しろ」
そう言った彼女の言葉は、事情を察しているかのように物分かりが良かった。
「お前は行方不明になっているはずだから、正体を悟らせずに運び込むのに苦労した。兄弟たちはお前の顔を知らないが、父や母に情報がいけばバレる可能性がある」
マリーアの両親は、ヴァンの顔を知っている。
「……すまないな」
気にするな、という風に首を横に振り、マリーアは淡く笑った。ヴァンの記憶にはない、女性らしい微笑だった。
「裏にクンツァイトもいる。怪我はないから、お前が回復したら様子を見に行ってやれ」
「クンツァイトが?」
「前の主人を覚えているとは、本当に頭のいい馬だ。ひたすら北に猛進していて、兄弟たちでは追い付くことも捕まえることもできなかったが、私の呼び笛に反応して引き返してきた」
「そう……か」
大きく息を吐く。そこでようやく、肩の力が抜けた気がした。
「馬鹿なことを考えるなよ、ヴィンセント」
一拍の沈黙の後、そう言ったマリーアの声は空気を震わすように響き、そして、ヴァンの胸に届いた。
それまでのおどけた軽さとは一転した、真摯な眼差しがヴァンを射抜く。
マリーアは、マルティ共和国の首長――すなわち現国家元首の娘だ。
スヴィド共和国は、サン=フレイア王国と唯一良好な関係にある国家と言ってもよく、また別の理由からも、彼女の元には、ヴァンとウィルが失踪した件についての詳細が届いているはずだった。
……もっとも、それがどのような形で伝えられているのかは、ヴァンの預かり知るところではない。なんとでも言え、と思っている。
だがおそらく――5年前、わずかな時間だが2人の王子兄弟と、友として交流したことのあるマリーアであれば、その真実を察している部分はあるのではないかと思う。
だとすれば、ヴァンが単身、スヴィドを横断しようとする理由も、情報を照らし合わせれば自ずと見えてくるはずだ。
「…………」
「それが本当にウィリアムの望みか?」
穿つような一言は、ヴァンの弱い部分に刺さった。
「これは俺の望みだ」
言いながら、思った。彼女を見くびっていたかもしれない。ヴァンが想定していた以上に、マリーアは、事の本質を見抜き、そしてヴァンを窘めていた。
大人の女だ。この5年間での、外面の変わった部分と、内面の変わっていない部分ばかりが目についていたが、確かに彼女は、1人の大人の女性に成長していた。
「俺だって分かっている。あいつが、俺が危険を冒すことを望んでいないことを」
成長していないのは己の方なのではないか、そんな思いが過ぎり、ヴァンはいつになくむきになって反論した。
「だが、必要な時があるということも、あいつは分かっている」
「随分と都合のいい偶像だ」
軽い口調の揶揄に、言い返そうとしたのを、片手を挙げて押さえられる。
「まぁ、確かにウィリアムはそうかもしれないが……彼も人だ。傷つくことはある」
言って、マリーアは足を組みかえた。片膝を立てて、身を乗り出してくる。だからそれは成人した女性としてどうなのだと、日に焼けた片足が剥き出しになるのが見えるのを、ヴァンは視線を相手の顔に固定することで防いだ。
「私は、お前がウィリアムを傷つけるというなら、全力で止めたいと思うのだが?」
「命と心の傷では比べるべくもない。優先順位の問題だ」
彼の傷に対しての説教ならば、ヴァンは誰から受けるまでもなく、何万回と己を責めてきた。
「いずれ癒える傷を背負うことはない。背負わなければいけないのは、消えることのない傷だ」
心の傷は癒すことが出来る。だが、身体の傷はどうだ――例えば、もう二度と歩けなくなったりなどしたら。
「取り返しのつかないこと以外は、いくらでも修復がきくものだ」
「誰もがお前のように強いわけではあるまいよ」
「ウィルは俺よりも強い」
「分かった分かった」
いなされ、マリーアの方が突き合わせていた顔を外した。
なだめるような口調にむっとするが、しなやかな両腕が伸びてきたかと思うと、強引に肩を押された。
「少し寝ておけ」
そのまま、女性の力とは思えない腕力で寝床に押し付けられる。
枕に頭を乗せると、水をしぼった布を額に投げつけられた。
「熱はないぞ」
「頭を冷やせということだ」
雑に投げられて形の崩れた冷布の位置を正すと、茶目っ気のある笑みが降ってきた。
呆れて息を吐き、目を瞑る。心地よい冷たさが、額から全身に伝わってきた。
確かに、頭に血が上っていたのかもしれない。熱を奪われることで心身が弛緩し、急に睡魔が襲ってきた。
「おい、ヴィンセント?」
「ヴァンでいい」
ヴァンの眠気を悟ったのか、確認するような優しい声音に、目をつぶったまま答える。
マリーアと出会った時、その名で呼ぶ人間は、たった1人しかいなかったことを思い出す。
ずいぶんと特別な名前だった、その時は。
今は――
そちらの方がよほど、自分の中に根付いているような気がした。
「ヴィンセントは今ここにはいない」
「ではヴァン」
少し笑いを含むような声が落ち、額の上が軽くなった。布を取り上げたらしい。
「お前に少し協力しよう」
しばらく水音が響き、今度は綺麗に畳まれたらしい冷たい布が額に載せられる。薄目を開けると、上から覗き込んでくる彼女の顔が見えた。
「未来の夫のために一肌脱ぐのも、賢妻のつとめというもの――そうだろう?」
華やかな笑みを閃かせるマリーアの言葉を、ヴァンはもう一度目を閉じて、聞くともなしに聞いていた。
意識はゆっくりと閉じつつあった。
「いずれは、どちらかが私の夫になるのだから」




