第十二話 再会(2)
人気のない廊下を静かに進んでいると、ウィリアムが提案をした。
「外に出ない? 今夜は満月だ」
「部屋に戻らなくていいのか? 体調が悪いなら……」
「嘘だよ」
何のてらいもなくそう言った兄にきょとんとする弟を見上げ、ウィリアムはいたずらっぽく笑った。あまり、ヴィンセント以外に見せることのない表情だ。
「君が、秋波を送ってくる貴婦人に困っていたみたいだから、助け船を出したつもりだったんだけど」
「そういうことなら、確かに助かった」
「君は成人したら大変そうだな」
「お前も人のことは言えまい」
「俺? どうかな」
ふふっと笑い、意味深に視線を逸らす。その横顔に一瞬真剣なものが過ぎり、ヴィンセントは機会を逃さぬように進言した。
「――ウィリアム、お前は一刻も早く王になるべきだ」
少し驚いたように、兄の目線が上がる。その目を真正面から見返し、ヴィンセントは続けた。
「国王には俺からお伝えするつもりだ。母上の言葉に惑わされ、お悩みになっておられるようだが、そもそも、初めから俺に王位継承の可能性などない。俺が王位を狙う意志がなく、生涯ウィリアムを支える立場を望んでいることを改めて伝えれば、父上もお心をお決めになるだろう」
「…………」
王位継承の正統性は圧倒的にウィリアムにある中で、ヴィンセントを担ごうとする一派の牽制は過激さを増している。第一王子の成人を前にした焦りがあるのは明らかであり、そんな危うい状態にいつまでもウィリアムを晒しておくことが、ヴィンセントには耐えられなかった。
戴冠さえ済ませてしまえば、この国はウィリアムのものだ。弟のヴィンセントとの立場の差は歴然とし、ヴィンセント派――というよりローゼン侯爵派は声を上げる理由を失ってしまう。それでも反発が続くようであれば、反対派をあぶり出して粛清することも可能だ。
だが、ウィリアムは答えなかった。そのことがもどかしくもあったが、はやる己とは別に、兄には何か深い思慮があるのだろうと、そのもどかしさを飲み込む。
ウィリアムの提案で中庭に出ると、少し湿った風が頬を撫でた。
回廊に四角く囲まれた庭は美しく手入れされており、中ほどには水が引かれていた。両脇に噴水が湧く大理石の橋を渡った向こうには、ちょっとした森が造られており、朝時であれば爽やかな緑の葉の合間に、小鳥たちが憩う姿が垣間見える。
整備された小路を渡り、周囲より少し高くなっている橋の上で、車椅子を止めた。
夏の初めのこの時期は、暑くも肌寒くもなく、夜でも快適な気候だ。
雨を呼び込みそうな風に思えたが、空は晴れており、真上に大きな満月が浮かんでいた。
「ああ、綺麗だね」
「……そうだな」
月光の下に浮き上がる白銀の髪が、宝石のように輝く。
無邪気な笑みをこぼすウィリアムの横顔から目を逸らさず、ヴィンセントは淡々と相づちを打った。
心のこもらないヴィンセントの返答に振り返ったウィリアムは、相手の顔を見た途端、小さく吹き出した。
「何だ」
「眉間の皺、また増えてる」
言われて、余計に増えた気がする。
実際増えたのだろう。ウィルがまた笑った。
「老けるよ?」
「今更だろう」
「はは」
彼の方こそ、こんな風に笑っていられるような状況ではないのだが、その緊張感のなさは相変わらずだった。
豪胆なのか天然なのか――たまに、別の答えが頭に浮かび、ヴィンセントはその度に不安になる。
あらゆる不条理を笑って受け止める度量を持つこの男は、もしかしたら、己の命を奪う不条理すらも、運命だと笑って受け入れてしまえるのではないかと。
銀の器が黒くくすんだことに端を発し、不自然な彫刻の崩落や不審火。成人が近付くにつれ、ウィリアムの周辺は騒がしくなっている。その理由におおよその見当がついても、それを誰も表立っては口にしない。
不愉快な調和。何事もないかのように、表層を通り過ぎていく平穏と、その裏でうごめき続ける思惑。生まれた時から続いているその薄気味の悪い状態を、この国は『永劫の平和』と呼ぶ。
――その時、微かに枝を折る音がし、暗い森の奥で人の気配が揺らいだ。
「何者だ!?」
今は闇に沈む人工の森に向かって、ヴィンセントが誰何を投げると、今度は、明らかに繁みを揺らす音が聞こえた。木立のわずかな合間、月明かりの下に、黒い影が見えた。
「暗殺者――!?」
夜よりもなお暗い、漆黒を頭から爪先まで纏ったその姿は、暗殺を生業とする者のそれだ。
――そうと認識した瞬間、ヴィンセントの中で何かが弾けた。
「……そこまでやるか……ッ」
「ヴァン!」
兄の声を背に聞きながら、森へ駆け込み、腰に履いた剣を抜く。兄を狙う暗殺者であるならば、逃すことはできなかった。
(捕まえて吐かせる――!)
ついに暗殺者まで雇った人間の顔が直感的に浮かび、全身が憎悪に燃え上がる。
何かを期待していたわけではない。だが、肉親の情というのは確かにあって、何か他に解決の道があるのではないかと――甘い考えがあったのは否定できない。
もう、相手はそこまで追い詰められていたのだ。本当の意味で、手段を選ばぬほどに。
人工の森の散歩道を抜けると、木立の陰に、闇よりも黒い人が見えた。一足飛びに詰め寄り、上段から剣を振りおろす。金属の擦れる嫌な音が響き、相手は鉤爪のような妙な武器で、その一撃を受け止めていた。
「……ッ」
一瞬、膠着状態に陥る――その時。
「ヴァン! もう一人いる!」
ウィルの切迫した声が届いた。
「しまった……!」
(誘導――!)
気付いた時には遅い。わざとウィリアムから引き離すように、森の中に誘い込まれていた。
「ウィル!」
囮の暗殺者を一顧だにせず駆け戻ると、悲鳴と大きな水音が聞こえた。
近づいた暗殺者の腕を護身用の懐刀で刺し、隙を見せた相手に車椅子をぶつける形で飛び出したウィリアムが、橋から落ちたのだ。
悲鳴は、刺された男のものだったらしい。腕を押さえた黒づくめの男が、水辺に落ちた少年に手をかける前に、ヴィンセントは脇差の小剣を投げつけた。
短い刀身が背に刺さり、身悶える敵に追いついた瞬間、引き倒す。男の体を橋の上に沈め、その背を踏みつけて動きを封じたヴィンセントは、相手の背中に刺さったショートソードを無造作に引き抜いた。悲鳴を上げる間も与えず、抜いた刃先を勢いよく首筋に突き立てる。
男の黒衣と薄皮一枚を切った剣先は、大理石の橋を抉って垂直に止まった。
「――誰に頼まれた?」
低く問う。が、男は答えない。
「殺しはしない。が、洗いざらい吐き出してもらう」
こんなにもあっさりと捕まる先兵に、黒幕に迫る情報が与えられているとは思わないが、ある程度の足取りくらいは追えるはずだ。
だが、依頼主にとって、正体が割れることは己の身を滅ぼすのと同義であり、その危険を顧みずにここまで直接的な方法をとってくるというのは――
もはや相手側も、一刻の猶予もないということか。
ヴィンセントは、相手のこめかみに踵を叩きつけ、気絶させた。ここで無理に尋問を続けて、勝手に死なれては意味がない。
背後の森を振り返るが、もう一人は失敗を悟ってか、かき消えるように姿を消していた。
「ウィル! 怪我はないか」
それ以上の刺客はないと判断し、ヴィンセントは水辺に横たわる少年を抱き起した。足首が浸かる程度の浅瀬で、水底は大理石や色石がはめ込まれた平らなものなので、落ちたところで危険はない。
だが水を吸ったウィリアムの服は重く、衝撃で結い紐が解けた長い髪が、濡れて絡みついていた。
頬に張りついた銀糸を後ろに撫でつけてやり、顔を覗きこむ。陶磁器のような透き通った肌は、冷たい水に触れてひんやりとしていたが、顔色は悪くなかった。
「すまん、俺が先走った……」
「ヴァン……」
伏兵がいることくらいは考えてしかるべきだった。冷静さを失って側を離れた結果、ウィリアムを危険に晒してしまった。
護身用の短剣で相手を怯ませて、車椅子をぶつける……それが今の彼に出来る精一杯の抵抗なのだと痛感すると、胸が痛み、目を離したことを激しく後悔する。
自責の念に囚われるヴィンセントの頬に、冷え切った指先が触れた。いたわるように頬を撫でられ、見返した先で、紫水晶の瞳が柔らかく微笑んだ。
「君の方が死にそうな顔をしてる」
「…………ッ」
不意に、泣きそうなほど胸を締め付けられた。その表情を見られまいと、衝動的に彼の頭を引き寄せる。
(どうして――)
「俺は大丈夫」そう言って笑う相手に、失いたくないという想いが込み上げる。
何があっても、失いたくない。この強い兄がたった一度だけ泣いた日から、例え世界を敵に回しても、自分だけは彼の片翼であろうと誓った。
なぜ彼ばかりが、こんな不条理に遭わなければいけないのか――そう嘆くのは無意味だ。その無意味さを最も知る本人が声を上げて泣かないというのなら、ヴィンセントもまた、それを嘆くべきではなかった。
弟の気持ちの整理がつくのを待つように、兄はされるがままにじっとしていた。抱きしめた身体の細さに、また別の種類の切なさが過ぎるが、それらを封じ込めて顔を上げる。
濡れた身体を抱き上げて車椅子に座らせると、ウィリアムが堪え切れずにくしゃみをした。
「寒いか」
問いかけると、相手は静かに首を横に振った。少しはにかんで、付け加える。
「でも、さすがに早く着替えたいかな」
「ああ、そうしよう。早く湯を浴びて、着替えて――」
そこで言葉を切り、ヴィンセントは小さく息を吸った。
それは、ずっと心の片隅にあった選択肢だ。だが、本当にそれを選択する日が来るとは――思いもよらなかった。
「今夜、この城を出よう」
「え……?」
見返した兄の目には、素直な驚きがあり、ここまで彼の意表をついたことは、過去になかったのではないかとすら思った。
「ウィル」
身をかがめ、低い位置にある両肩に手を置く。逃げ道をふさぐように真正面から見据え、ヴィンセントは決意を口にした。
「逃げるぞ」
濁りのない紫水晶の瞳が見開かれ、揺れる。
「何を言っているんだ君は」
「これ以上ここにいるのは危険だ」
畳み掛けると、やや先程の動揺から抜け出したような目が挑みかけた。
「俺に王になれと言ったのは君だ」
「お前を失うわけにはいかないんだ」
ここにいても、彼を失う未来しか見えない。失っては、全てが終わってしまう。生きていれば――反撃のチャンスはある。
「頼む。俺と逃げてくれ」
「ヴァン……君はどうして……!」
苦しげに歪められた瞳がヴィンセントを映す。
悲痛な声は全てを口にする前に飲み込まれ、俯いた彼の背を押すように、ヴィンセントは静かな声で重ねた。
「どこまでも強引で、性急な提案だということは分かってる……だから、頷いてくれるだけでいい」
この場から逃げるという選択を、彼の決断でしろというのは酷な話だった。
だから、ヴィンセントはあえて強引に、己のわがままを押し通した。
「そうすれば、俺は今夜お前をさらって、この国から逃れる」
誘拐だと思ってくれればいい。足の不自由な第一王子をかどわかした罪人に堕ちれば、手段を厭わず、しがらみに捕らわれることなく、彼を守ることができる。
「……それが君の望み?」
「そうだ」
「俺が嫌だと言っても?」
「…………」
見上げてくる兄の、探るような静かな問いに、ヴィンセントは揺るぎない眼差しで答えた。
「それが、お前が生きることを嫌だという意味なら」
ふっ……と、息を吐くようにウィリアムの瞳が和らいだ。その変化がヴィンセントには不思議だったが、彼は彼なりに何かを決断したのだということは分かった。
「いいよ――君が、俺が生きることを望むというなら、俺は君と共に生きることを望みたい」
そう言って微笑んだ、彼の気丈な眼差しを、ヴァンは生涯忘れることはないだろう。
多くの葛藤を飲み込み差し出された白い手を取る時、今まで感じたことのない高揚に充たされた。
彼は選択したのだ。全てのしがらみと、不条理の檻を飛び出し、先の見えない道を行くことを――ヴァンと2人で。
それは、羨み焦がれ続けた存在の、唯一人に選ばれた瞬間だった。




