第八話 離別(3)
――その日、ヴァンは帰っては来なかった。
「なんで、一日ずつ人が減ってるんだよ……」
一夜明け、朝食の席に着いたメンバーは、ウィルの隣の席が空いているのを、不安げな表情で見つめていた。
8人掛けのダイニングテーブルを囲んで座っているのは、ウィル、ラウ、リッド、フィオナの4人だけだ。
おたまを手に、三角巾で包んだ頭を掻いて呟いたのは、キッチン側に立っているカミュである。
そこはかとなく不気味な雰囲気を漂わせたまま始まったモーニングは、いやに静かで、ナイフとフォークのわずかな音が耳についた。
「……なぁ、ヴァンちょっと変だったよな」
そんな重苦しい空気に耐えかねたのか、リッドがパンをちぎりながら、ぽつりと呟いた。
「最後、俺にウィルを守れとか、変なこと言い出したりしたし」
「……!」
その台詞に、静かにスープをすくっていたウィルの手が止まった。
カチン、とスプーンを置いた音は決して大きくはなかったが、そのタイミングではやけに目立ち、全員の視線が車椅子の青年に向く。
「なぁウィル、ヴァンはどこに行ったんだよ」
斜向かいで、この場合一番距離の遠い位置にいるウィルに向かって、リッドが問いかけた。
「なんか知ってるんだろ。もしかして、ジークやユーリのことも」
「おい、リッド」
「だって、ウィルは何でも知ってるじゃんか」
問い詰めるような口調になるリッドを、ラウがたしなめる。だが反論したリッドの言葉は、無根拠ながら説得力に溢れていて、ラウも口を閉ざした。
引き換えに、ウィルが答える。
「ジークとユーリの行先は知らないよ。俺も、聞いてない」
「ヴァンは……」
「俺には何も言わなかったけど、行き先は分かってるよ」
ウィルはそこで言葉を切ったが、集中する視線が、彼に続きを促した。
「――サン=フレイア王国」
静かに告げられた国名に、全員の表情に動揺が走る。
だがこの場に、その意味を正確に理解できた者はいなかった。カミュとラウは別の大陸から来たよそ者であるし、リッドとフィオナは世間知らずな子どもだ。
「それってマズいんじゃないの?」
カミュが聞きかじりの情報を集めながら考えている顔で、そう聞き返す。
向かいでラウが同じような顔で、状況をまとめようと口に出した。
「確か、ヴァンを王様にしたい奴らに、ウィルが命を狙われてるわけだろ。で、今、ヴァンがウィルを置いて国に帰ったら――」
そこまで言って、ラウが眉根を寄せて首を捻った。
「あれ……? ヴァンが王様になるのか?」
「……あいつは、そんなつもりは更々ないよ」
彼らの混乱を静かに聞いていたウィルが、ようやく口を挟んだ。
「ヴァンは、自分を王位に祭り上げようとしている身内――母親と、弟と、その派閥と立ち向かおうとしてる」
「……一人で?」
低い声で確認したカミュに、小さく頷くウィルの顔は冷静だったが――微かにわなないた唇を、並びの良い歯が噛み締めた。
「だからって、俺を推す人間が、ヴァンの味方なわけじゃない」
「そりゃそうだよな……」
カミュが、頭を抱えて呻いた。おそらくこの面子の中では、一番察しがいい。
「彼らは、俺が国を離れていることで、かなり追い詰められた立場にいるはずだ。味方どころか、積極的に敵対する相手と認識されているだろう。原始的な方法を選べば、邪魔なヴァンを殺そうとすることだって考えられる」
ウィルの口から殺す、という言葉が簡単に出てきたことに、彼らの祖国がどれだけ殺伐とした状況にあるのかが察せられた。
「ただ、ヴァンには母親を同じくする弟がいる。ヴァンを殺したところで、俺が国に帰らない限り、王位はヴァンの弟のものになる――余程のことがない限り、そんな無意味な手を打ってくることはないと思いたいけれど」
「なんかそれ、八方ふさがりっていうんじゃねぇの?」
カミュの感想は、この上なく的確なものに聞こえた。
「ヴァンのやつ、3年も国離れてて、味方もいねーのに、どうするつもりなんだよ!」
テーブルを叩き、声を荒げたのはリッドだ。
「殺されるか、王様にされるか? 究極の二択だな。しかも、どっちも本人の望みじゃないっていう……」
ようやく状況を飲み込んだらしいラウのぼやきは、彼が言うと妙に怖さが軽減されるが、内容は絶望的だった。
「なんでそんなとこに、黙って行っちまうんだよ。あいつ……」
ふてたように卓に突っ伏したリッドが、悔しげに吐き捨てる。
「……うそ……」
それまで、黙して彼らの会話を聞いていたフィオナが、小さく呟いた。
それは、本人すら意識していないような、思わず漏れた声だったが、全員が注視した。
ことさら、ウィルの表情が痛ましげにひそめられる。
「……そんな……だって、必ず、すぐ戻ってくるって、遠くには行かないって……」
昨日の会話が鮮明に思い出され、フィオナは、目鼻の奥からせり上がってきた熱をこらえた。
「……約束……」
ヴァンが、嘘をついた。
ヴァンが約束を破るわけがない。そう信じて見送った結果が、今の話だ。やはり、あの時どうあっても引き留めておくべきだったのだ。
知らず膝の上で握りしめていた拳を、優しく解かれた。いつの間にか、車椅子で隣まで寄っていたウィルの白い指先が、フィオナの手を握り込む。
「――ゴメン」
「……なんで、ウィルが謝るの……」
まだ泣いていないはずなのに、ウィルの表情は、泣かしてしまった相手に謝罪するような後悔で満ちていた。
「……分かってたんだ。あいつを止めることは出来ないのは……でも、賭けたんだ、俺は……もしかしたら君ならって。君の言葉なら、もしかしたらあいつは聞くかもしれない、変わるかもしれないって」
「ウィル……」
「……こんな風に、君が傷つく可能性を考えなかった。俺は、最低だな」
「私の方こそ、ちゃんと、約束守れなくて……」
謝りたいのは、フィオナだって同じだ。
「俺に頼まれたとは言わないでほしい」と言われていたのに、言ってしまった。
自分の言葉が相手に届くか自信がなくて、彼の中のウィルの存在を使って引き留めようとした。
だがそれは、あの時のヴァンには、『言ってはいけない言葉』だったのだ。
椅子を蹴立てて、リッドが立ち上がった。
「なぁ! 今から追いかけらんねーのかよ? 馬買ってさ!」
「ばか、相手はクンツァイトだぞ、追いつけるわけねぇだろ。それに、サン=フレイアにどのルートを通って入国するのか……」
「多分、スヴィド共和国を横断して、ギャラル海峡から船で入国するつもりじゃないかな」
カミュの反駁に答えたウィルの声は冷静だった。冷静過ぎて、逆に不安になる程に。
「オルフェンから北に駆ったら、途中で北西に向かう街道がある。ヴァルクとの国境沿いは情勢が不安定だから、出来るだけアルファザード国内を縦に突っ切るはずだ」
フィオナの手を離し、車椅子をダイニングからリビングの方へと移動させながら続ける。
「スヴィド共和国の南東からヘイムダル大平原を横断して、ウルズ半島からギャラル海峡を渡る船に乗り込むだろう。クンツァイトの足なら、2週間もかからない」
よどみなくそう言い切ったウィルに、ラウは素直に感心した顔を見せたが、カミュの表情はみるみる曇った。
「ウィル……なぁ、あんまり……」
思い詰めるな――そう言おうとしたのだと分かるが、それよりも先に、ウィルが口を開いた。
「あいつが何を思って、どの道筋を通って、いつ、どうやって行くかも、手に取るように分かるのに」
戸口を見つめる後ろ姿からは、彼が今、どんな表情をしているのかは分からない。
ただ、声が揺れた。
「――なんで、俺は追いかけられないんだろう」
わずかな熱と震えを伴った声に、かけるべき言葉を見失う。
約束を破られた、と小さなことに傷ついたフィオナに謝ったウィルが――本当はもっと傷ついているのだということに、ちゃんと気付けなかった。
誰よりも辛いのはウィルだ。どれだけ冷静を装っていても、その心境が穏やかなわけがない。
最愛の弟が、己のために命の保証もない苦境に飛び込もうとしている。
そしてそれを止められない。追いかけられないのだ、物理的に。
「ウィル……」
それは、誰の呟きだったか。
「……っ」
重苦しい沈黙が支配する空間で、ウィルの肩が大きく揺れ、彼を乗せた車椅子が戸口に走った。
「ウィル!?」
1人外へ飛び出した背中を呼び止めるが、追いかけようとした足が自然と止まった。
それは、皆同じだったのだろう。ラウが迷いを口にした。
「連れ戻すか? でも……」
車椅子のウィルを、無理矢理引き留めて連れ戻すのは簡単だ。
だが、簡単過ぎるが故に、今、それを彼にやってしまうのは、あまりにも酷な気がした。
「ちょっと、そっとしといた方がいいんじゃないか」
判断を下したのはカミュだ。
「今は朝だ。この時間なら、1人で外に出ても、獣に襲われるようなことは多分、ない」
出来るだけ客観的な理由を引き出そうとするように、淡々と言葉を紡ぐ。
「俺たちはヴァンじゃない。そこまで、ウィルを過保護に縛りつけることは出来ない」
閉ざされた扉を見つめたまま、カミュはどこか突き放すような、感情を抑えた声で言った。相反して、紅い瞳が悔しげに歪む。
声にならない、己の無力さを責める叫びが聞こえる気がした。
「――あれをやっていいのは、ヴァンだけだ」
唯一の肉親で、己が人生をかけてウィルを守ろうとするヴァンが、どれだけ過剰に世話を焼こうとしても、ウィルは何も言わない。
でも、そうではない人間が、彼が足が悪いからという理由で過剰な同情を寄せることを、本当は、彼は好まない。
それは、本来の彼の自立心の高さや、芯の強さを知っている人間だからこその判断で、それに対して異を唱える者は誰もいなかった。
どちらにせよ、彼の足ではそう遠くへ行くことは出来ない。
そういう思惑が前提になっている面は否めず、そのこと自体がまた、ウィルに対する後ろめたさを増幅させた。
最後に、カミュがフィオナを振り返って、申し訳なさそうに付け足した。
「フィオナ、ごめん、それでも心配だから、見に行くだけ見に行ってもらってもいいか。俺たちがぞろぞろ行くよりは、いいと思うから」
「分かったわ」
その場で己が適任であることは、フィオナも理解していた。
少し間を開けた方がいいだろうか、という気持ちもかすめたが、あんなウィルは見たことがなかったので、心配が先立った。
追いついて、落ち着いているようなら様子を見て1人にさせようと思い、駆け足に探しに出る。
庭に出ると、もうウィルの姿はなかったが、芝生についた真新しい車輪跡で、どちらの方向へ向かったかは見当がついた。
森の中に乗り入れてからは、逆に跡を探すのが難しくなったが、木の根が盛り上がり足場が悪くなった場所を、そう遠くまで走れることはない。
慎重に姿を探すと、森の中に投げ出された車椅子があった。
だが、そこにウィルの姿はない。
「ウィル!?」
焦って飛び出すと、車椅子の傍ら、死角になっていた繁みにウィルがうずくまっていた。
「何してるの、ウィル!」
膝をつき、手を使って盛り上がった木の根を掴み、這って進もうとするウィルの身体を、地面から引きはがす。裾の長い服が泥に汚れていた。
「くそっ……」
湿った黒土が付着した手で乱暴に額をこする。白い頬や銀の髪に泥が飛んだが、構わず前に進もうとするウィルを必死に抑え込んだ。
「やめて、ウィル。怪我をするわ」
「――ヴァンは、罪を犯すかもしれない」
「……!」
思わず息を飲む。
ヴァンが、罪を犯す。
――きっとそのことを、彼は何よりも恐れているのだろう。
「くそっ! なぜ動かない!」
切羽詰まった声で、ウィルが膝を叩き悪態をついた。
「なんで、俺は……」
悔しそうに土の上で握る拳に力を込め、立ち上がろうとするように全身を強張らせる。
「歩け! 立て!!」
自身を叱責する厳しい声に、フィオナは耳をふさぎたくなった。
自分の運命を受け入れているように見えた。
出来ることと出来ないことは理解している。と、そう言った彼の強さばかりが印象に残っていた。
こんな風に、無理矢理あがこうとするウィルの姿を見るのは初めてで、フィオナは、夢中で彼の背中を抱きしめた。
「ウィル、ウィル……もうやめて……!」
涙が出た。縋りついて名前を呼ぶと、ようやくその身体から力が抜けた。跪いたまま、顔を伏せたウィルの背に顔を押し付け、フィオナは祈った。
(レイン――!)
彼を救って欲しい。
他の何を引き替えにしても、今、彼が全身で願っている望みを叶えて欲しい。
「お困りですか?」
まるでその祈りが届いたかのようなタイミングでかけられた声に、フィオナは後ろを振り返った。
「レ……ッ」
だが、そこにいた予想外の人物に言葉を失う。
「ユーリ!?」
振り返ったウィルが名を呼んだその相手は、月毛馬にまたがった双子王子の弟の方――ユーリだった。その後ろに、ジェードに乗ったジークが控えている。
「ユーリ、ジーク、なぜ……君たちは、国に戻ったんじゃ」
「ちょっと、忘れ物を取りにきまして」
唖然とするウィルを薄笑いで見下ろし、ユーリは馬上で告げた。
「西に行く便はさすがにありませんが、東行きならありますよ」
その瞬間、見上げるウィルの眼の色が変わった。紫水晶の瞳の奥に、火が灯るような変化だった。
「どう活かすかは、あなた次第ですが」
「それって、東の魔法使い……?」
思わず、フィオナは聞きかじった情報を口にしたが、ユーリは答えなかった。
翡翠と紫水晶が交錯するその先で、無言のまま交わされた会話を推し量ることは出来なかったが、やがて眼を逸らさないまま、ウィルが口を開いた。
「行くよ」
その回答は予想通りだったので、フィオナはすぐに声を上げた。
「私も行きます!」
それには、ぎょっとしたように3人の視線が集まる。だが、怯むつもりはなかった。反対されるのも予想の範囲だったので、フィオナは毅然とした口調で言い切った。
「ヴァンに、ウィルから目を離さないで欲しいと頼まれました。ウィルだけを連れて行かせるなんて出来ません」
それは、ヴァンと最後に交わした約束だ。
もしかしたらヴァンは約束を破ったのかもしれないが、それはフィオナまで破る理由にはならない。
「フィオナ……」
困ったような声はウィルのものだったが、それでも、この場で強く反対は出来ないようで、視線を馬上の兄弟へと向ける。
意見を求められた側は、後ろ頭を掻きながら苦笑した。
「仕方がないなァ……」
「ジーク」
それはほとんど了承の言葉だったので、ウィルはすかさず兄の名を呼んだ。
「……俺は構わない」
彼の返答も、いつもと同じ。
ウィルが肩を落とすのが分かった。
「……だが、これは2人に言えることだが……命の保証はない」
余計な脅しを口することはない男から付け足された忠告に、フィオナは無意識に背筋を伸ばした。
「……それでも構わないというなら、連れていくことは、たいした手間ではない」
抑揚のない声は、ただ事実を事実として告げるだけの作業だった。
そんなジークに、ユーリが肩をすくめて補足する。
「よく考えた方がいいですよ。彼、本気で連れていくだけのつもりですから」
「俺は構わないよ。でも、フィオナは……」
「私も構いません」
自分のことには即答したウィルの台詞にかぶせる。
困惑して振り返った紫水晶の瞳に既視感を感じ、すぐにその正体に思い当たる。
昨日、出て行こうとするヴァンを引き留めた時だ。
状況はあの時に似ている。そして、フィオナはあの時言えなかった言葉を、ためらいなく口にしていた。
「私も連れて行って下さい」




