第七話 離別(2)
異変は、程なくして起こった。
朝から姿を消していたフィオナが戻ってきたことで『森の家』の住人達も落ち着き、いつもと同じ時間にティータイムが始まった。
よく出掛けていたジークはともかく、お茶の時間だけは、ほぼ皆勤で参加していたユーリがいないことに違和感はあったが、それはそれとして受け入れられ、フィオナとリッドがしばらくの間、ジークのやっていた掃除を分担して受け持つことに決まった。
春の食材を使用したカミュの新作スィーツを堪能した後、キッチンで食器を洗うのを手伝う。一通り作業を終え、フィオナがダイニングに戻ると、ちょうど身支度をしたヴァンが部屋から出てきたところだった。
「あれ、ヴァンどっか出かけんの?」
一緒にキッチンから出てきたカミュが声をかけた。
「ウィルは」
「この時間だから、裏で洗濯物取り込んでるんじゃないか。呼んでくるか?」
短い問いに答えたのは、3人掛けのソファでリッドとじゃれていたラウだった。
「いや、いい」
かぶりを振ったヴァンが、フィオナを見た。
家に戻る前にウィルに言われたことを思い出し、一瞬、鼓動が跳ねる。
近づいてきた相手から視線を逸らせずにいると、大きな手が肩に乗せられた。
「昨夜、トロイの街でロバートという青年に出会った」
「!!」
突然の告白に、言葉が出ない。動揺を抑えようと、フィオナは両手で顔を抑えて、深く息を吐いた。
「どんな……人でしたか……」
ロバートという青年――それだけでは、フィオナが思い描いている人物かどうかは分からない。
ようやくの思いで絞り出したその問いに、ヴァンは丁寧に答えてくれた。
「年齢は、ラウと同じくらいか。明るい栗色の髪と、濃い藍色の目の、礼儀正しい青年だ。少し、雰囲気はウィルに似ていたかもしれない。元は猟師だったそうだ」
(ああ……)
ロバートだ。
そう確信した瞬間、顔を覆ったままフィオナはその場に膝をついた。
視線を合わせるように床に片膝をついたヴァンが、彼にしては珍しいくらい柔らかい――労わるような声で続ける。
「父親と2人で、トロイの街で暮らしていると言っていた。疲れは見えたが、怪我はなく健康に働いていた」
「良かった……」
心の底から安堵して、大きく息を吐く。
「あの街はエルドラド王国に近いが、白雪姫の消息について噂する者は、もうほとんどいない。レナードも、お前が生きていたことは口外していないのだろう」
順調に火消しはされているということだ。フィオナの殺害に失敗したことさえ継母に知られなければ、ロバートの身に危険が及ぶことはないはずだ。
「……ヴァン。もしかして、そのことを確認するために、わざわざトロイまで……?」
トロイは、ここからだとかなり遠い。クンツァイトの足が早いとはいえ、あの時間から急に出かけた彼の行動に疑問を感じていたが、今の話で、昨日ヴァンにロバートについて話したことを思い出した。
「…………」
「……ありがとうございます」
ヴァンは答えなかったが、フィオナは礼を言った。ずっと気がかりだった、胸のつかえを取ってくれた青年に微笑む。
フィオナの肩から手を外し、ヴァンは立ち上がって、その場にいる全員に向けて言った。
「少し遠出をする」
「何、ヴァンも出掛けるのかよ」
これはリッドだ。
「帰りは遅くなるだろう。戸締まりはしっかりしておけ。それと、ラウ、カミュ、リッド」
手短に用件だけを述べる無愛想な口調は、いつもと変わりない。名指しされた3人は、反射的に背筋を伸ばした。
「危険はないだろうが、フィオナとウィルを頼む」
「おう」
「たりめーだろ」
「任しとけって」
これももはや口癖に近いのだが、口々に応えた3人のうち、1人に付け加えられた台詞は、少しだけ非日常だった。
「頼んだぞ、リッド。お前がウィルを守るんだ」
「お? おう!」
なぜわざわざ名指しでリッドなのか、という疑問をその場にいる全員が抱いたが、名指しされた当人は、胸を張って力強く応えた。
「ヴァン……」
別れの挨拶もそこそこに、ドアの向こうに消えた背中に向けて、フィオナは無意識に呟いていた。
焦燥が胸を叩く。
ほんの数時間前に、ウィルに言われた言葉が、何度も頭の中で再生された。
(ひとりで、どこかに行って……もう帰ってこないかもしれない――)
これが、『そう』なのだろうか。
判断がつかない。だが、不安と予感だけが、冷たい空気を孕んで背に膨れ上がっていく。
急ぐようにトロイに向かい、フィオナの気がかりを一つ消してくれたことも、今となっては不安を掻き立てる要素の一つになっていた。
「ま、別になんもないと思うけど、あんまり1人でうろうろしないようにな? お姫様」
ぽん、と後ろに立っていたカミュが肩に手を置いてくる。そして、小さな溜息と共に、呟きが聞こえた。
それは、さほど深刻なものではなかったが――迷っていたフィオナの背を、強烈に後押しした。
「あいつも心配なら、わざわざジークとユーリがいない時に出掛けなくてもいいのに」
「……っ!」
「ちょ、フィオナ!?」
放たれたように駆け出したフィオナの背に、カミュの声が届く。
「すぐ戻るから!」
それだけ言い置いて、フィオナはヴァンの後を追った。
※
フィオナが外に出ると、ちょうど、森の中に黒光る馬の背が隠れたところだった。
門を飛び出して、慌てて後を追いかけ、声を張る。
「待って! ヴァン!」
幸い、まだ声が届く範囲にいたクンツァイトの手綱が引かれ、馬上のヴァンが振り返った。
足下に気をつけながら、森の中に佇む黒竜馬に駆け寄る。
「どうした。何かあったか」
「い、行かないで下さい」
息を切らしながら、縋るように言ったフィオナに、ヴァンが明らかに困惑したような顔を見せた。
「何故だ」
「だって、どこかに行ってしまうんでしょう? 行って、2度と戻ってこないんじゃないかって……」
「何故そう思う」
「それは……そのっ、勘です!」
口止めされている手前、ウィルから聞いて、とは言えなかったので、思わずそう言い切った。
言ってから、己の言動がかなり支離滅裂であることに気付き、顔が赤くなる。相当恥ずかしい。
そんなフィオナに、ヴァンは少しだけ笑って、クンツァイトを降りた。
手綱を握ったままフィオナの前に立ち、常よりも優しい声で諭してくる。
「仮に、俺が帰ってこなかったとしてもだ。あの家にはカミュも、ラウも、リッドもいる――ウィルもな。お前が一人になることはない。心配するな」
「違っ、そうじゃなくて……!」
反射的に否定しようとした言葉を飲み込む。
ヴァンの言う通りだ。
フィオナには、彼の行動を止める権利も、理由もないはずだった。
だが、嫌なものは嫌なのだ。ただそれは感情的なもので、そんな根拠のないもので駄々をこねることなど出来ない。
だが今は、ウィルとの約束があった。
あのウィルが、ヴァンを引き留めて欲しいと言ったのだから、きっと今、ここでヴァンを行かせてはいけないのだと、フィオナは無条件で信じられた。
そこに、自分のわがままが少し乗っかるだけだ。
手を伸ばして袖を引き、フィオナは上目遣いで長身の青年を見上げた。
「い、行かないで下さい……ダメですか?」
「…………」
無言で見下ろしてくるヴァンの眉間に皺が寄る。怒っているというより、困っている表情だということが分かるようになったのは、フィオナの進歩だ。
「……俺は行かなければいけない、と言ったら?」
低く訊ねられた言葉は、意外なものだった。常に断定的な物言いをするヴァンから、そんな曖昧な問いかけを受けたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
動揺し、フィオナは必死で答えを探した。決して迷わない彼から投げられた着地点の見えない問いは、彼自身にも、わずかな迷いが生じているのかもしれなかった。
「……それは……そのっ……」
じゃあ、私も連れて行って下さい。
――とは言えなかった。
そんな答えが求められているとは思わなかったし、そんな選択肢が、いの一番に思い浮かんだ自分に驚いた。
すぐに却下して他の回答を探すが、フィオナ自身、ただ「行ってほしくない」という漠然とした感情だけで、彼を積極的に引き留められるだけの材料は持っていなかった。
「だって、ウィルが――」
だからつい、その名前が口をついて出た。
「ウィルが、心配してます。私に頼み込むくらい、ヴァンを行かせたくないって……」
「そう、か」
静かに頷いたヴァンが、考えるように目を閉じた。
その表情からは、何も読み取れない。
やはり、ウィルが直接言った方が良かったんじゃないだろうか――そんな思いが過ぎり、審判が下るのを待つまでの時間が息苦しかった。
「必ず戻ってくる。そんな遠くには行かない」
真上から降ってくるような声に顔を上げると、目の前に大きな手が降りてきた。頭に置かれた手の重みで、自然に目線が下がる。俯いたまま、フィオナは念を押した。
「本当に? すぐ帰ってきてくれますか?」
「ああ、すぐに」
力強い声が即答してくる。
「約束ですよ?」
「……ああ、約束だ」
その言葉を聞いて、少しだけ安堵する。引き留めることは叶わなかったが、それでも、すぐに戻ってくると約束してくれた。
ヴァンが約束を破るようなことはないから、きっと大丈夫だ。
「それまで、ウィルのことを頼みたい。決して目を離さないでやって欲しい」
「はい、分かりました。約束です」
ヴァンの頼みを聞いて、フィオナは頷いた。
ウィルの頼みを半分しか聞けなかった分、ヴァンとの約束はちゃんと守りたいと思った。
ヴァンは約束を守ってくれるだろうから、フィオナも、彼が帰ってきた時、胸を張って迎えられるだけのことをしたかった。




