第2話:透視の向こうの空白
頭上にはどこまでも澄み渡る五月の青空が広がっていた。初夏の陽光は容赦なく降り注ぎ、路面のアスファルトを熱している。だというのに、肌を撫でる大気には、冷凍庫の奥底から吹き出す冷気のような、底知れぬ悪寒がこびりついていた。
黒鉄リョウは、目元に装着した『非破壊観測型共鳴装置・EROゴーグル』の側頭部にあるロータリーエンコーダを指先で微調整しながら、人気のない大通りの中央を堂々と歩いていた。
「焦点深度、オフセット正常。空間座標追従アルゴリズム、アクティブ。……しかし、通行人が見当たらんな。今日は平日のはずだが、自治体の避難訓練か何かか?」
視界に広がる高精細な電子スクリーンには、路面に散乱したガラス片や、横転したワンボックスカーが冷徹なワイヤーフレームとしてハイライトされていた。
リョウの脳内辞書において、この異様な光景はすべて「極めて治安の悪い暴動の痕跡」あるいは「大がかりな映画のロケ現場」として処理されていた。地下室の強固な日常に浸かりきっていた彼にとって、己の立っている足元がすでに人類文明の墓標であるなどという発想は、数学的に考慮するに値しなかった。
「おや……いたぞ。第一被験者だ」
リョウは足を止めた。
五十メートルほど先、歪んだガードレールの向こう側。背中を丸め、千鳥足で覚束なくふらつきながら路地から大通りへと這い出てくる人影があった。
遠目に見ても、その服装は奇妙だった。泥と黒ずんだ染みで汚れきったシャツに、膝の破れたスラックス。肩を不自然に落とし、まるで首の骨が脱臼しているかのように、頭部を斜め前方に傾けている。
「ひどい酩酊状態だな。白昼堂々から前後不覚になるまで飲酒とは、生活習慣の乱れが極まっている。だが――」
リョウの口元が、研究者特有の冷徹な、そして純度百パーセントのスケベな笑みに歪んだ。
「衣服を着用しているという一点において、立派な観測対象だ。まずは距離三十メートルでの位相共鳴感度を測定する」
リョウはゴーグルの中央に浮かぶ、直径三十センチメートルを示す円形の緑色レティクルを、その人物の胴体へと重ね合わせた。
その瞬間、ゴーグルの光学認識エンジンが高速でパターンマッチングを開始する。
『布地テクスチャを検知。襟、前立て、ボタン構造を認識……ターゲット条件【衣服】と合致』
『照射トリガー、スタンバイ』
「よし、衣服トリガー成立。リビドー発振、初期シーケンスへ移行」
リョウは軽く深呼吸をした。
ゴーグルの心臓部に埋め込まれた生体同期センサが、リョウの脳波とアドレナリンの微弱な分泌を感知する。
これこそが彼が血の滲む思いで組み上げた機構――使用者の煩悩が、励起回路を駆動させるトリガー電流となるのだ。
視界の右隅に配置されたアナログ風の出力計の針が、微かにピクリと跳ね上がり、緑色の『適正動作域(GREEN ZONE)』の最下端へと滑り込んだ。
ヒュン……と、耳の奥で微弱な高周波の共鳴音が鳴った。
ゴーグル先端のフェーズドアレイアンテナから、不可視の励起波が放たれる。
照射規格:直径約三十センチメートル、深度約六十センチメートル。
照準された人物の胸元を中心とした空間が、リョウの網膜の前で、音もなく変容した。
「……ん?」
リョウは思わず目を細めた。
期待していた光景は、そこにはなかった。
布地が透過し、その奥にある生々しい皮膚の質感、胸板の筋肉の隆起、あるいは鎖骨の稜線が浮かび上がるはずだった。それこそが『着衣の向こう側』という神秘の領域であるはずだった。
だが、ゴーグルが映し出したのは、あまりにも奇怪な幾何学模様だった。
レティクルの中心、直径三十センチメートルの円形領域。
そこには、皮膚も、肉も、骨も、血管も、何一つ存在しなかった。
ぽっかりと、完全な円形の穴が空いていた。
その穴の向こう側には――その人物の背後にある、アスファルトの路面と、ひび割れた歩道の白線が、何の遮るものもなく鮮明に見えていたのである。
「な……んだ、これは?」
リョウの思考が、一瞬のフリーズを起こした。
円形の境界線の外側には、黒ずんだシャツの袖や、泥にまみれた襟元、そして紫色の斑点が浮かんだ鎖骨の端が、そのまま残っている。周辺視野の着衣を残すという仕様は完璧に機能していた。
だが、その内側の「空間」が、まるごと消滅しているのだ。
向こう側の景色が丸見え。まるで、その人物の胴体を直径三十センチの大型ホールソーで綺麗にくり抜いたかのような、完璧な空洞。
「光学迷彩か? いや、そんな技術が民間で実用化されているはずがない。空間歪曲? 馬鹿な、私の理論はただの非線形波動共鳴だ、重力子を操作しているわけではないぞ。……まさか、センサのアライメント不良か?」
リョウが不可解さに眉根を寄せ、ゴーグルを額へと押し上げた、その時だった。
電子スクリーンの補正が外れ、生身の肉眼に飛び込んできた光景に、リョウの心臓が冷たい指で鷲掴みにされた。
「グルルゥ……ァ……」
喉の奥が腐乱し、声帯が裂けたような、汚泥を吐き出すような唸り声。
二十メートル前方に立っていたその「人物」の顔面は、人間のそれではなかった。
皮膚は土気色を通り越してどす黒い緑色に変色し、右の頬肉は削ぎ落とされ、黄色く変色した歯茎と顎骨が剥き出しになっていた。濁りきった白眼には焦点がなく、裂けた唇からは、どろりとした赤黒い体液が涎のようにアスファルトへと滴り落ちている。
その怪物は、リョウの体温と気配を察知したのか、首をゴキリと異様な角度にねじ曲げ、爛れた両手をリョウへと向けて突き出した。
「ア……ガ……ァァァッ!」
「ひっ……!?」
リョウの喉から、みっともない悲鳴が漏れた。
生化学の領域にも通じる彼の明晰な頭脳が、眼前の怪奇現象に対し、極めて冷酷な論理的結論を瞬時に導き出していた。
死体だ。
どう見ても死後数週間が経過した、組織の自己融解と腐敗が進みきった人間の死体。
それが、死んでいるにもかかわらず、筋肉の死後硬直を無理やり引きちぎるようなデタラメな運動エネルギーを伴って、こちらへ向かって突進してきている。
「ゾンビ……!? 生ける死体、アンデッドというやつか!? 馬鹿な、そんなオカルトじみた生物学的矛盾が存在していいはずが――」
パニックに陥りかけたリョウの脳裏に、先ほどのゴーグルの不可解な透過像が、稲妻のように閃いた。
『本機より放たれるERO線は、生物の細胞膜およびタンパク質構造には一切干渉せず、非生物にのみ透過・干渉・崩壊作用を及ぼす』
それが、リョウ自らが構築した絶対の物理法則であった。
生きた人間を覗いた場合、服(非生物)だけが透過し、生体細胞(生物)はそのまま反射して網膜に像を結ぶ。だからこそ「服の下の素肌」が観測できるはずだった。
だが、眼前の怪物はどうだ?
肉体はすでに生命活動を停止している。代謝は途絶え、細胞は壊死し、魂などという不確定要素はとっくに揮発している。
つまり――この怪物の肉体は、物理学的・生化学的定義において、道端に転がる石ころやプラスチック片と何ら変わらない、完全なる『非生物』なのだ!
「そうか……! 死体だからか! 死んでいる肉体だから、我がERO線はそれを『物体』と判定した! 服もろとも、肉も骨もすべてまとめて『非生物』として認識し、奥の景色まで丸ごと透過させてしまったのか……!!」
己の理論の正しさが、これ以上ないほど悪夢のような形で証明された瞬間だった。
しかし、学術的真理に感動している猶予は一秒たりとも残されていなかった。
「グアァァァッ!」
死体が、腐乱した両手を振り上げ、リョウの目前五メートルにまで迫っていた。鼻を突く強烈な死臭が、リョウの肺を満たす。逃げ場はない。
「くそっ、離れろ! あっちへ行け!」
リョウは無我夢中で後ずさり、白衣の右ポケットへと手を突っ込んだ。
指先が触れたのは、今朝がた「護身用」として放り込んだ、重厚な金属の塊――一度は己の美学に反するとして封印したはずの失敗作、『衣服分子崩壊銃・マークⅠ』のグリップであった。
だが、銃を引き抜いたリョウの視界の端、路地裏の暗がりから、さらなる絶望が躍り出た。
ズシン、と重い足音が響く。
コンビニの割れたガラスをバリバリと踏み砕きながら姿を現したのは、先ほどの死体よりも二回りは巨大な、筋骨隆々の男のゾンビであった。
上半身にはボロボロに引き裂かれたタンクトップを身につけ、浮き出た血管は黒く変色し、胸筋には死斑が醜く広がっている。その男ゾンビが、濁った眼球をギラつかせながら、リョウの逃走経路を塞ぐように猛然と突進してきたのだ。
「な……ッ!?」
リョウの背筋に、死の恐怖とはまったく別の、底知れぬ悪寒と生理的拒絶が駆け抜けた。
「野郎……!? 野郎のゾンビだと!?」
マークⅠの銃口を構えようとしたリョウの指が、引き金の上で激しく痙攣した。
この銃の基本構造はゴーグルと同じだ。
『視覚認識した衣服のパターンをトリガーとしてロックオンし、その直線上にある非生物を分子レベルで励起する』。
だが、リョウの開発思想において、認識すべき衣服とは「女性の衣服」でなければならなかった。
男の着ている服などに焦点を合わせ、その先にあるものを観測するなど、リョウの魂が、美学が、全細胞が断固として拒絶していた。汚らわしい。男の服にトリガーを引くなど、自らの網膜に対する冒涜以外の何物でもない。
「嫌だ……! 見たくない! 野郎の服なんかにフォーカスを合わせたくない! そんなものに私の煩悩を使えるか! 死んでも御免だ!!」
リョウの脳内リビドーが急速に氷点下へと落ち込み、銃のインジケータが警告の赤色に点滅する。
だが、男ゾンビの巨大な腐肉の腕が、リョウの頭上から振り下ろされようとしていた。爪の隙間には、誰かのものとおぼしき乾いた肉片がこびりついている。
頭蓋骨を叩き割られるか、己の崇高なるスケベの美学を汚すか。
極限の二者択一が、コンマ数秒の火花となってリョウのニューロンを焼き焦がした。
「あああああクソッ! 背に腹は代えられん!!」
リョウは血を吐くような絶叫とともに、端末のセーフティスイッチを親指で乱暴に押し込んだ。
『警告:トリガー認識テーブルの制限を解除』
『衣服認識アルゴリズム:【全性別・全形状無差別モード】へ緊急移行』
ピピッと電子音が鳴り、男ゾンビの胸元にあるタンクトップへ、赤色のロックオンマーカーが強制吸着する。
衣服トリガーの認識条件はクリアされた。
だが――マークⅠのグリップを握りしめるリョウの手元で、心臓部の出力計の針は、依然として冷え切った『ゼロ』の目盛りにへばりついたまま、微動だにしなかった。
「ぐっ……トリガーは通った! だが、野郎の汗臭いタンクトップを直視したせいで、私の煩悩が完全に凍結している……! 出力が出ん!!」
認識が成立しても、励起を起こすための動力――リビドーが枯れ果てていては、光線は一筋たりとも発振しない。
男ゾンビの腐乱した剛腕が、空気を切り裂きながらリョウの顔面へと迫る。死臭と風圧が前髪を激しく揺らした。
「ええい、思い出せ! 先週読んだグラビア雑誌の巻頭特集を思い出せええええっ!!」
リョウは眼を血走らせ、迫り来る男ゾンビの胸元へ銃口を突きつけたまま、己のニューロンへ向けて狂乱の檄を飛ばした。




