第3話:衣服破壊光線、死線を穿つ
迫り来る男ゾンビの腐肉の腕が、リョウの鼻先十センチにまで迫っていた。
黒ずんだ爪の隙間にこびりついた乾いた肉片、毛穴から滲み出るドス黒い脂、そして鼻腔を直撃する耐え難い死臭。それらすべてが、リョウの脳内にある純粋培養されたリビドーを容赦なく急速冷凍していく。
「ぐっ……ダメだ! 男の筋繊維とタンクトップの皺が網膜を汚染して、煩悩が……私の神聖なるエネルギーが死滅していく……!」
銃身の側面に埋め込まれたアナログメーターの針は、凍りついたように『ゼロ』の目盛りに張り付いたままだ。トリガー回路は「全性別対応」で無理やり開いたというのに、肝心の動力炉が氷点下では、ただの重い鉄の塊に過ぎない。
男ゾンビの咆哮が鼓膜を震わせる。
リョウの明晰な頭脳が、頭蓋骨粉砕までの残り時間をコンマ三秒と冷酷に弾き出した。
「死んでたまるか……! こんな路傍で、野郎の死体になすり潰されて死ぬなど、我が美学に対する最大の汚辱だ!」
リョウは眼球の焦点を男ゾンビから無理やり外し、己の内なる記憶領域、脳の奥深くに格納された超高解像度妄想フォルダを全速力で展開した。
「思い出せ……! 地下に引き籠もる直前、電子書店で大人買いした『週刊ヤンググラビア初夏特大号』巻頭ぶち抜き十六ページ! 南国の波打ち際、白のスリット入りワンピースが潮風に煽られ、濡れた薄布が背中から腰のくびれにかけて吸い付くように張り付いていた、あの奇跡の布地テクスチャを!!」
ニューロンのシナプスが超伝導のごとく火花を散らした。
リョウの視床下部から、アドレナリンとドパミン、そして狂気的なリビドーの濁流が一気呵成に血管内へと解き放たれる。
カチッ……カチカチカチッ!
グリップを伝う生体同期センサが、リョウの脳波の超高周波発振を検知した。
凍りついていた出力計の針が跳ね上がる。
青色の待機領域をぶち抜き、緑色の適正域を突破し――危険領域の境界線ギリギリ、限界値の九十八パーセントで激しく震動した。
「いけええええええええっ!!」
リョウは人差し指に渾身の力を込め、無骨な引き金を絞り切った。
カシュンッ――!
発射音は、銃器のそれとはまったく異なっていた。空気の分子が超高密度で圧縮され、一瞬にして真空の裂け目が生まれたような、低く澄んだ破裂音。
銃口の集束レンズから放たれたのは、肉眼では捉えきれない、空間の陽炎めいた不可視の励起波であった。
『衣服分子崩壊銃・マークⅠ』。
照射規格:直径約三十センチメートル、深度約六十センチメートル。
対象の衣服を認識してトリガーを閉じ、その円柱領域内に存在するすべての「非生物」の分子間結合を、電磁共鳴によって一瞬で灰燼に帰せしめる、かつてリョウ自らが「下品極まる」と封印した暴力の具現。
直後、男ゾンビの巨躯に物理現象の極限が訪れた。
バツンッ!
男ゾンビの胸元、タンクトップの中央を中心とした直径三十センチの円形領域が、一瞬だけ白銀の光芒に包まれた。
衣服が吹き飛んだのではない。
タンクトップの繊維が分子崩壊すると同時に――その奥にあった、死後数週間が経過して生命活動を完全に停止していた腐肉、黒ずんだ血管、胸骨、肋骨、脊椎、そして背後の腐乱した背筋に至るまでが、寸分の狂いもなく「非生物」と判定された。
ボフッ、と乾いた音が響いた。
直径三十センチ、奥行き六十センチ。
男ゾンビの胸部中央が、巨大な円柱状の虚空へと変換され、微細な灰となって風に吹き散らされたのだ。
残されたのは、胸の真ん中に綺麗な円形の風通し穴が空いた、両手と頭部と下半身だけの異様な肉塊であった。
「……ア?」
男ゾンビの濁った瞳から、攻撃的な光がふっと消え失せた。
上半身の骨格と神経中枢を根こそぎ虚空へと消滅させられた巨躯は、運動エネルギーの連鎖を完全に断ち切られ、まるで糸の切れた操り人形のように、どさりとアスファルトの上に崩れ落ちた。
痙攣すらしない。完全なる、永遠の沈黙。
「…………」
リョウは銃口を突き出した姿勢のまま、固まっていた。
引き金を引いた人差し指が、わずかに震えている。
目の前には、胸にぽっかりと巨大な円形の穴を穿たれ、ピクリとも動かなくなった筋骨隆々の死体。
そして、その穴の向こう側で、最初にリョウを襲おうとしていた小柄な死体が、千切れた顎をガクガクと震わせながら立ち尽くしていた。
「あ……」
リョウの口から、間の抜けた音漏れがこぼれた。
硝煙の匂いすら漂わない静寂の中、リョウの超絶的な論理思考が、目まぐるしい速度で因果関係のパズルを組み上げていく。
「…………あれ?」
リョウは手元の無骨な銃を見下ろし、次いで足元に転がる男ゾンビの死骸を見下ろした。
「倒れた……? いや、倒れたなどという生易しい現象ではない。活動を完全に停止した……? 心臓を貫いたからか? いや違う、相手はとっくに死んでいるゾンビだ、血液循環など活動原理に関係ない。中枢神経系……脊椎と主要な神経束を、胸骨ごと直径三十センチの円柱領域として根こそぎ消滅させられたからだ」
リョウの瞳が、驚愕と学術的興奮で見開かれていく。
「この銃は……『衣服分子崩壊銃』だ。私は生体を傷つけずに衣服だけを破壊するつもりで作り、服を破くことの野蛮さに絶望して封印した。だが……だが、こいつらは『死体』だ! 細胞膜の代謝も、タンパク質の合成もとっくに途絶えた、物理学的にはただの有機化合物の塊……完全なる『非生物』!」
リョウは足元の死体を指差しながら、思わず叫んでいた。
「つまり、生きた人間を撃てば『服だけが消し飛んで素っ裸になる』という低俗な結果に終わるが……死体が動いているだけのゾンビに向けて撃てば、服をトリガーにして『衣服ごと、その範囲内の肉体と骨格すべてを一瞬で分子崩壊させる』特効の即死兵器になるということか……!?」
自らがゴミ箱に放り投げた失敗作が、世界を滅ぼしつつある怪物に対する、これ以上ない絶対のカウンター兵器へと反転した瞬間であった。
「シャアアアアッ!」
思考に耽るリョウの目の前で、残されていた小柄なゾンビが、我を取り戻したように腐った爪を振り上げて飛びかかってきた。距離、わずか二メートル。
「フン……構造が理解できれば、貴様らなどただの的だ!」
一度コツを掴んだリョウに、もはや躊躇はなかった。
小柄なゾンビが身にまとう、泥まみれのシャツの襟元へ銃口を向ける。
ピピッと衣服認識が成立。
リョウは脳内にふたたび先ほどのグラビア雑誌を召喚し、瞬時にリビドーを適正域へとブーストさせた。
カシュンッ!
軽やかな破裂音とともに、二条の不可視の励起波が放たれる。
標的となった小柄なゾンビの首元から胸部にかけて、直径三十センチの空間がごっそりと消失した。
頭部を支える頸椎を失った頭蓋骨がアスファルトを転がり、残された胴体がその場に崩れ落ちる。黒い体液が一滴も飛び散ることのない、極めて清潔で完璧な分子レベルの消滅。
「ふは……ははは! 見ろ、この圧倒的なエネルギー効率を! 弾薬の概念すら存在しない。私の煩悩が尽きない限り、無限に撃ち続けられるのだ!」
リョウは勝ち誇ったように銃口を掲げ、高笑いを上げた。
己の知性とスケベ心が、未知の脅威を完全に打ち破ったのだ。これなら街の治安が悪化していようが、暴徒が徘徊していようが、何一つ恐れることはない。
だが――その歓喜の余韻を断ち切るように、不気味な地鳴りが大通りを揺らした。
ズルッ……ズルリ……。
ペチャリ、ペチャリ……。
アスファルトを擦る無数の足音。
リョウが怪訝な顔で視線を巡らせると、左右の路地、コンビニの裏手、雑居ビルの非常階段、そして大通りの先にある交差点の角から、おびただしい数の人影が這い出してきた。
一人や二人ではない。
数十、いや、ゆうに百を超える死体の群れ。
サラリーマンのスーツ、女子高生の制服、作業着、ジャージ――生前の名残である衣服を身にまとったそれらは、リョウが放った不可視の衝撃波の気配、あるいは生身の体温を嗅ぎつけ、濁りきった視線を一斉にリョウへと集中させていた。
「ア……ガ……ァァァ……」
「ウ……ルルル……ァ……」
重なり合う呻き声が、大気そのものをビリビリと震わせる。
死臭が突風となって吹き荒れ、リョウの白衣を激しく煽った。
「…………」
リョウの手元で、マークⅠの出力計の針が、すうっと音を立てて『ゼロ』へと沈み込んでいった。
百人を超える腐乱死体の群れ。しかもその半数以上は、薄汚れたワイシャツや作業着を着た、むさ苦しい男ゾンビの集団である。
「……無理だ」
リョウの喉が、ヒュッと乾いた音を鳴らした。
「いくら私の妄想力が高水準に保たれているとはいえ……あんな汚泥の濁流のような野郎の群れに囲まれて、グラビア雑誌の残像を維持できるわけがない……! 間違いなく脳の冷却回路が焼き切れる!!」
衣服トリガーは全性別に対応させた。
だが、撃ち続けるための「燃料」が、この視覚的拷問に耐えられるはずもなかった。
「退却だ! 戦略的撤退を敢行する!!」
リョウは踵を返すと、なりふり構わず全力疾走で大通りを駆け出した。
背後から、百を超える死体たちの飢えた咆哮が、津波のように追いすがってくる。




