第1話:すべては煩悩の果てに
男の名は黒鉄リョウ。肩書きは工学博士にして、電子物理学および非線形波動解析の孤高なる研究者――というのは建前で、その実態は、人類の生み出したもっとも深遠なる不可視領域、すなわち「着衣の向こう側」に己の全人生と知性を捧げ尽くした、筋金入りの変態であった。
リョウが地下に構えた私設研究所は、静寂に満ちていた。
天井に埋め込まれた昼光色LEDが、チリひとつない作業台を均一に照らし出している。卓上に転がる何台ものデジタルオシロスコープ、精密スペクトラムアナライザ、そして銀色の光沢を放つ最新型のハンダステーション。それらすべてを支えているのは、地上からの電力網ではない。屋上にびっしりと敷設された単結晶シリコン受光素子アレイと、地下壁面に整然とラックマウントされた自作の大容量リン酸鉄リチウムイオン蓄電盤である。
リョウは細身の体を作業椅子に沈め、右手に持ったセラミックピンセットで、爪の先ほどしかないミリ波帯フェーズドアレイアンテナの素子を基板へと精密にマウントした。息を止め、0.1ミリのズレもなく半田ペーストの上に配置する。卓上ルーペの向こう側で、リフロー用の温風が素子を基板へと吸着させていく。
「……よし。表面実装、完了。インピーダンス整合性、完全。寄生容量、許容リミット以下」
ピンセットを卓上に置き、リョウは深く息を吐き出した。
乾いた喉を潤すため、傍らの冷水筒に手を伸ばす。コップに注がれた透明な液体をあおると、研ぎ澄まされた冷たさと滑らかな口当たりが喉頭を通過していった。
この水もまた、水道局の供給ではない。
敷地を掘削し、深度八十メートルの不透水層を貫いて到達した帯水層から汲み上げられた、極めて不純物の少ない被圧地下水である。自作の多段中空糸膜フィルターと逆浸透膜セルを通過したその水は、精密機器の超音波洗浄にも耐えうる水質を保っていた。
さらにその隣には、深度千メートルを超える熱水層から直結されたバルブが存在し、いつでも地下の浴槽に弱アルカリ性の天然源泉をかけ流しで供給できる。すべては、長時間の極限集中に伴う筋膜の緊張と末梢血流の阻害を、生化学的に最速で回復させるための合理的処置であった。
「食事の準備で思考を寸断するなど、知性の冒涜だからな」
リョウは卓上の銀色アルミパウチを一本引きちぎると、中身の灰褐色ペーストを無感情に口腔内へ絞り出した。
完全栄養食である。人体に必要な五大栄養素、必須アミノ酸、微量元素、ビタミン群のすべてを網羅した合成食料。味は無機質な大豆プロテインと微かな塩気しかしないが、咀嚼の時間も調理の片付けも一切要らない。
部屋の隅には、その完全栄養食の段ボール箱が、天井に届かんばかりの勢いで山積みにされていた。
本来の試算では、非線形波動を布地のみに共振させる基礎理論の構築と、生体への無干渉性の立証には最低でも半年の歳月を要するはずだった。そのため、半年分の完全食――およそ五百四十食分を先行して買い溜めしていたのである。
だが、リョウの煩悩が叩き出した知的出力は、彼自身の冷静な計算を遥かに凌駕していた。わずか四十日余り、一度も部屋から出ることなく昼夜を忘れてコードを書き、回路を焼き、熱伝導をシミュレートした結果、理論は瞬く間に完成してしまったのだ。
結果として、部屋の四隅には手つかずの完全食の山がそびえ立ち、万が一の大規模震災に備えて完璧に整備した防災用備蓄品――長期保存缶、滅菌ガーゼ、自立型医療キット、予備の発電機用資材――もまた、新品のフィルムに包まれたまま静かに棚を埋め尽くしていた。
外界の天災など、この地下要塞においては無意味な戯言に過ぎない。
太陽が照り、地下水が湧き、無機質な栄養が手元にある限り、黒鉄リョウの世界は完結していた。
「さて……まずは、第一世代プロトタイプの総括からだ」
リョウは作業台の脇、アクリルケースの中に無造作に転がされていた、拳銃のような形状のデバイスに視線を向けた。
無骨な黒色アルマイト処理が施されたダイカストフレームに、太い同軸ケーブルと集束レンズが組み込まれたその銃――『衣服分子崩壊銃・マークⅠ』。
開発初期、リョウは衣服の視覚的パターンをトリガーとして発振し、その照射領域内に存在する「非生物」の分子結合のみを電磁的励起によって一瞬で灰燼に帰せしめるこの武装を組み上げた。生体組織の細胞膜やタンパク質構造には一切干渉せず、着用者の衣服だけを瞬時に粉砕・霧散させる。理論通りの超絶技巧兵器であった。
だが、完成した銃口をマネキンに向けた瞬間、リョウの脳内に雷鳴のような怒りと自己嫌悪が吹き荒れた。
「愚劣極まる……! 服を力任せに破壊して対象を全裸にするなど、それはただの野蛮な暴力であり、品性の欠如だ! 私が欲しているのは裸体そのものではない! 布地という社会的束縛の境界線を維持したまま、その内側に秘められた柔らかな起伏を、観測者の知性によって静かに暴くこと……『着衣の向こう側』という不確定性領域を確定させる観測行為そのものにこそ、至高の情緒が宿るのではないか!」
己の過ちに戦慄したリョウは、完成したばかりの分子崩壊銃を即座に没処分とし、ケースの底へと放り投げた。
衣服を吹き飛ばしてしまえば、そこにあるのはただの露出狂の世界だ。布地の皺、布地の引っ張り、そしてその下にある肉体の存在を同時に視界へ収めてこそ、男が命を削るに値する美学が成立する。
そうして、己の煩悩の軌道を純粋観測へと修正し、さらに不眠不休の作業を重ねて生み出されたのが、いま作業台の真ん中に鎮座しているデバイスであった。
『非破壊観測型共鳴装置・EROゴーグル』。
形状は、近未来の軍用ナイトビジョンを思わせるマットブラックの二連ゴーグル。
レンズの奥には、リョウが極限までチューニングを施した特殊共振フィルタが組み込まれている。
「最終チェックを開始する」
リョウはゴーグルを手に取り、端末のコンソールに光ファイバーケーブルを直結した。
モニタ上に、無数のパラメータと論理ブロックが滝のように流れ落ちていく。
「照射規格の確認。共鳴波の励起スポットは、照準中心部より直径約三十センチメートル、深度約六十センチメートルの円柱領域に限定。周辺視野には一切干渉させない。これによって、肩や四肢、衣服の襟元や袖口といった『着衣の境界』を保ちつつ、鑑賞対象の中核部のみを鮮明に透過・観測する。うむ、完璧だ」
中心だけが丸く透け、周囲には衣服がそのまま残る。これこそが、着用という現実と露出という幻想が交錯する絶対領域を生み出す黄金比であった。
「次いで、誤作動防止シーケンス。本機は対象が『衣服』を着用している状態を視覚認識したときのみ、衣服トリガーとして発振回路を閉じる。何もない空間や、ただの壁面に向けても波は放射されない。……そして」
リョウは端末のキーボードを叩き、深層コードの最下層にある、ある絶対条件を画面に呼び出した。
```text
[EXCEPTION_FILTER_ID: USER_SELF]
TARGET_BYPASS: TRUE
ANGULAR_CUTOFF: VERTICAL_DOWN_45_DEG
STATUS: PERMANENT_LOCKED
```
「術者自己除外フィルタ……よし、正常にロックされているな」
リョウはひとり、満足げに頷いた。
自分の服を認識して、足元や腹部が透過して己の見苦しい肉体が視界に飛び込んでくるなど、悪夢以外の何物でもない。万が一にも己の下着や貧相な腹筋を網膜に焼き付けるような惨劇を防ぐため、自らの衣服、および視界の下方四十五度角に存在する自己の身体領域は、いかなる例外もなく認識対象から恒久的にブラックリスト除外してある。
「自分の裸など、一ミリも見たくないからな。これぞ理系たる者の当然の危機管理だ」
そして最後に、リョウは最も重要な心臓部のゲージを呼び出した。
画面中央に表示されたアナログメーター。針は現在、最下端の『ゼロ』を指してピクリとも動いていない。
「出力管理モジュール。使用者のリビドー、すなわち煩悩の脳内神経伝達物質の分泌量とダイレクトに共鳴し、発振周波数を決定する生体同期機構……。低すぎれば励起が起きず不発。適正域においてのみ、美しい透過観測が可能となる」
リョウはメーターの上限、赤く塗られた危険領域を指先でなぞった。
「だが、感情の昂ぶりが限界を超え、リビドーが飽和状態に達した場合……過電流による網膜損傷を防ぐため、安全ヒューズが物理遮断され、システムは即座に完全沈黙する。観測者たる者、常に理性の手綱を握り、適正域を保たねばならん。暴走は破滅を招くのみだ」
すべての自己診断が終了し、コンソールに『ALL GREEN』の緑色文字が灯る。
リョウは光ファイバーを引き抜くと、ゴーグルを両手で持ち上げた。
指先に伝わるアルミニウム合金の冷たさと、計算し尽くされた重心バランス。重量はわずか四百グラム。ヘッドバンドの締め付けも人間工学に基づいてミリ単位で調整されている。
「完成した……。私の、私の生涯の傑作が……!」
歓喜が、胸の奥底からマグマのようにせり上がってきた。
引き籠もって四十日余り。完全食と地下水だけで生き延び、温泉で疲労を騙し騙し溶かしながら、ただひたすらにこの瞬間を求めて研鑽を重ねてきたのだ。
理論は机上にあるのではない。現実に観測されてこそ、科学は真理となる。
「実地試験を行わねばならん。外へ……街へ出るぞ!」
逸る心を抑えきれず、リョウは白衣のポケットにゴーグルをねじ込もうとして――ふと、作業台の隅に転がっていた『衣服分子崩壊銃』が目に入った。
一度は失敗作として捨て去った、衣服を木っ端微塵にするだけの野蛮な光線銃。
「……まあ、いい。一応、数週間ぶりの外出だ。野良犬や狂ったカラスに襲われた際、驚かせるくらいの護身用にはなるだろう」
リョウは深く考えず、その銃を白衣の右ポケットへと乱暴に突っ込んだ。
そしてゴーグルを首にかけ、防塵用の薄いウインドブレーカーを作業着の上に羽織る。
足取りも軽く、リョウは地下通路を歩いた。
厚さ十五センチメートルの防音・断熱気密扉。外部のあらゆる騒音をシャットアウトし、完璧な無音の思考環境を提供してくれていた鋼鉄の重扉だ。
電子ロックのテンキーに暗証番号を打ち込むと、空気圧の抜ける重々しいシューという音が響き、ロックボルトが外れた。
「待っていろ、世界の衣服たちよ。今こそ、その奥にある調和の美を私が記録してやろう」
リョウは両手でハンドルを押し込み、地上へと通じる階段を駆け上がった。
非常階段の頂点にある外扉のレバーを押し下げる。
ガチャリ、と金属音が響き、外光が視界を刺した。
「……ん?」
眩しさに目を細めたリョウの鼻腔を、奇妙な風が撫でた。
春の匂いでも、アスファルトの照り返しの熱でもない。
何かが腐り落ち、放置された生ゴミが夏の直射日光で発酵したような――ねっとりとした、不快極まりない重苦しい異臭。
リョウは眉をひそめながら、路地裏から大通りへと一歩を踏み出した。
時刻は正午を過ぎたあたりのはずだった。雲ひとつない青空が広がっている。
だが、耳朶を打つべきはずの音が、何一つ存在しなかった。
自動車の走行音も、信号機のピヨピヨという誘導音も、遠くの幹線道路から響くはずの喧騒も、人の話し声も、犬の鳴き声すらもない。
ただ、生ぬるい風がアスファルトの上を吹き抜け、古新聞の切れ端がカサカサと虚しく転がっていくだけだった。
「……妙だな。道路工事の規制区域にでも指定されているのか?」
リョウは首をかしげ、白衣の襟元を正した。
歩道の脇には、ドアを開け放ったまま乗り捨てられた軽自動車が一台。フロントガラスには蜘蛛の巣状のヒビが入り、車内には茶褐色に変色した飛沫がこびりついている。
その向こうのコンビニエンスストアは、自動ドアのガラスが派手に粉砕され、店内の陳列棚がなぎ倒されていた。
「物騒な街だ。治安の低下にも程がある。自治体は何をしているんだ」
インフラが死滅し、文明が断絶した外界の有様を、リョウはただの「近所の治安悪化」として片付けた。
何しろ、数分前までいた自分の地下室では、電気が燦々と灯り、蛇口からは清冽な水と極楽の温泉が溢れ、何ヶ月分もの完全食が整然と積まれていたのだ。世界が滅びているなどという突飛な発想が、彼の脳裏をかすめるはずもなかった。
リョウにとって重要なのは、ただ一点。
『この街のどこかに、観測すべき対象がいるかどうか』、それだけであった。
「まあいい。誰でもいい、歩行者を見つけねば実験が始まらん」
リョウは首にかけた『EROゴーグル』を両手で持ち上げ、カチャリと目元へと装着した。
視界が青みがかった高精細な電子スクリーンへと切り替わり、中央に直径三十センチを示す薄緑色の照準レティクルが浮かび上がる。
静まり返った廃墟の街へ、最強のインフラに守られた男が、己のスケベな探究心だけを胸に足を踏み出していった。




