第0話:境界線の前夜(The Night Before the Goggle)
雨は三日前から降り続いていた。
アスファルトを叩く重たい水音が、世界から人間の生活音を完全に洗い流してしまっている。かつて国道沿いに立ち並んでいたチェーン店やコンビニエンスストアは、いまや黒ずんだガラスの破片と散乱したゴミの吹き溜まりに過ぎない。
「……千冬ちゃん、足、大丈夫……?」
暗がりの中、途切れ途切れの掠れた声が響いた。
マキだった。
泥水に浸かり、裾のほつれたロングスカート。かつては柔らかいベージュ色だったはずのカーディガンは、雨水と排気ガスの煤を吸って鉛のように重く垂れ下がっている。その胸元は激しい息遣いで上下し、寒さに凍える指先が、抱きかかえるように持った小さな紙袋を離すまいと白く強張っていた。中身は、先ほど荒れ果てた薬局の床の瓦礫からかき集めた、泥に汚れたブドウ糖タブレットが二袋だけ。
「……平気。声落として、マキさん」
その半歩前。
濡れそぼった黒髪を乱雑に後ろで束ねた千冬が、掠れた声で遮った。
雨風を吸い込んで重くなった濃紺のジャージに、泥まみれのランニングシューズ。その右手に握られているのは、工事現場の仮囲いから力任せに引き抜いた単管パイプ――鉄の錆と乾いた血が幾重にもこびりついた、唯一の武器だった。
二人が身を潜めているのは、半壊したガソリンスタンドのサービスピットの隅、オイル缶が山積みになった冷たいコンクリートの陰だった。
風に乗って運ばれてくるのは、ガソリンの揮発臭ではない。濡れた土の匂いと、内臓を煮崩したような、甘ったるく濃密な腐敗臭。
(……近い)
千冬はコンクリートの壁に背を預け、荒い呼吸を鼻腔の奥だけで殺した。
体育大の陸上中距離で鍛え上げた心肺機能も、丸二日間の断水と不眠の前には限界を告げつつあった。大腿四頭筋が鉛のように重く、鉄パイプを握る掌の皮はすでに何度も破れてジュクジュクと血膿を滲ませている。
感染爆発から約四十日。
世界は一瞬で崩壊した。
走って逃げる者は肉を食い千切られ、室内に閉じこもった者は飢えと脱水で狂気に呑まれた。
千冬は大学のキャンパスから一人で逃げ延び、途中のロードサイド店舗で、群れに追い詰められて泣き叫んでいたマキの手を引いた。それだけの偶然。それだけの巡り合わせ。
「……あいつら、耳が利く。雨足が弱まったら、すぐに動く」
千冬は小声で囁き、マキの紙袋からタブレットを一粒取り出してマキの唇の間に押し込んだ。
「噛まないで、舐めて溶かして。血糖値を落としたら走れなくなる」
「千冬ちゃんも……」
「私は後。……それより、さっき見えた?」
「うん……川の向こう、倉庫街のあたり……」
マキが震える指で、ピットの開口部の先――暗雲の下に沈む臨海工業地帯を指差した。
街中の街灯や工場の送電網はとっくに死に絶えている。だが、あの埠頭の一角だけ、まるで別世界のように、鋭いナトリウム灯の白光が規則正しく点灯していたのだ。
自家発電か、それとも生き残った誰かが防衛線を張っているのか。
「あそこまで行けば……水があるかもしれない。頑丈な扉もあるはず」
千冬は低く言った。
希望などという甘い言葉ではない。ただ、次に足を一歩踏み出すための、物理的な理由付けに過ぎない。ここに留まれば、あと半日で低体温症か脱水で動けなくなる。動けなくなれば、肉塊として消費される。計算はそれだけだった。
その時だった。
ペタ……。
ズザ……。
オイルまみれの水たまりを、硬いゴム底を引きずるような不快な摩擦音がピットの入口から滑り込んできた。
千冬の背筋に、氷柱のような冷気が走る。
スタンドの洗車機スペースから、三つの影が這い出してきた。
生前の面影を残したレインコートの男。頭部が半分陥没し、首が異様な角度に折れ曲がったツナギの整備士。そして、下顎の肉を欠損させ、舌を垂れ流した女。
彼らの瞳には光がない。白濁した角膜の奥にあるのは、ただ生きた温血動物の体温と匂いに対する、純粋な飢餓反応だけだった。
「……ッ」
マキが両手で自らの口を塞ぎ、悲鳴を喉の奥で押し潰した。
ゾンビたちは、視力こそ鈍い。だが、雨の切れ間に漏れ出た人間の呼気の匂いを、確実に嗅ぎ取っていた。
整備士の死体が、折れた首をカクカクと揺らしながら、ピットの入口へ向けてゆっくりと歩を進める。距離、わずか七メートル。
逃げ場はない。ピットの奥は行き止まり。
突破するしかない。
「……マキさん」
千冬が極限まで音を殺して囁いた。
「私が先頭の首を折る。隙ができるから、絶対に立ち止まらずに外の側溝へ走って」
「だ、ダメよ、千冬ちゃん! あんなに……!」
「走って!」
千冬の瞳が、獲物を狙う野獣のように研ぎ澄まされた。
「私の脚なら、撒いてすぐに追いつける。……お願いだから、足を止めないで」
嘘だった。
この脚はもう、あと百メートルも全力疾走できない。膝の軟骨が擦り切れるような激痛が走っている。
だが、言わなければこの心優しい女は動かない。
千冬は濡れたアスファルトを蹴った。
「うおおおおおおッ!」
咆哮とともに、鉄パイプを両手で突き出す。
体重のすべてを乗せた刺突が、先頭のレインコートの喉仏を正確に貫いた。グシャリと軟骨が破砕する鈍い感触が、鉄パイプを通じて千冬の両腕に痺れるような衝撃を返す。
そのままパイプを横へ薙ぎ払い、倒れ込む死体を盾にして整備士の死体へと激突させた。
「走れ、マキさん!!」
マキが泥水を撥ね上げてピットを飛び出した。
だが――。
ガッ!
「ぎゃあああああっ!」
洗車機の陰に潜んでいた四体目――片足を引きずった作業着の死体が、飛び出したマキのロングスカートの裾を掴み倒した。
マキの体が水たまりへ叩きつけられ、紙袋の中のブドウ糖タブレットが無残に泥水へと散らばる。
「マキさんッ!」
千冬が振り返った、その一瞬の隙。
喉を潰されたはずのレインコートの死体が、腐乱した腕で千冬の左足首を万力のような力で掴み取った。爪が肉に食い込む。
「しまっ……!?」
バランスを崩し、膝をつく千冬。
そこへ、顎のない女の死体が、腐汁を滴らせる口腔を剥き出しにして頭上から覆いかぶさってきた。
死の匂いが、鼻腔を灼いた。
逃れられない。鉄パイプは挟まれ、腕を振り抜くスペースがない。
人間の顎の噛合力は、本能のブレーキが外れれば百キロを超える。一度でも皮膚を破られれば、数時間後には自分もあの泥濘の化け物へと成り果てる。
(ここまでか……)
千冬の脳裏を、走馬灯のように諦憬がよぎった。
一人で走っていれば、もっと遠くまで逃げられたかもしれない。誰の手も取らなければ、飢えて行き倒れるにしても、生きたまま肉を裂かれる屈辱だけは免れたかもしれない。
「はなせええええええっっっ!!」
甲高い絶叫とともに、重たい打撃音が響いた。
ドガッ!!
マキだった。
スカートを引き裂かれ、膝から血を流しながら、マキは足元に転がっていた錆びた十キロのオイル缶を両手で振り上げ、千冬の頭上に迫っていた女ゾンビの後頭部へ力任せに叩き落としたのだ。
バキィッ、と頭蓋が割れる鈍い音。女の死体が横へと倒れ伏す。
マキの腕は激しく震え、その瞳からはボロボロと大粒の涙が溢れていた。非力で、争いなど一度もしたことがないはずの女が、肩を怒らせ、喉を涸らして叫んでいた。
「千冬ちゃんを……食べるなああああっ!!」
二度、三度。マキはオイル缶を死体めがけて振り下ろし続けた。
その隙に、千冬は渾身の力で足首を掴んでいた腕を踏み砕き、自由を奪還した。
「マキさん、もういい! 走るよ!」
千冬はマキの手首を掴み取った。
折れそうなほど細く、震えている手。
(……なんだよ)
千冬の胸の奥で、熱いものが込み上げていた。
(守ってやってたつもりだったのか、私は。……この人も、命がけで私を助けてくれたんじゃないか)
二人は雨の中へ飛び出した。
だが、世界は甘くない。
先ほどの叫び声とオイル缶の打撃音は、雨音を切り裂いて周囲の廃墟へと響き渡っていた。
ズシャ……ズシャシャシャシャ……!
国道の左右、打ち捨てられた大型トラックの荷台の陰、ガソリンスタンドの裏手の藪。
あらゆる暗がりから、雨に濡れそぼった無数の人影が、ワラワラと這い出してきた。
十、二十、三十――いや、それどころではない。
完全に退路を塞ぐように、異様な熱気を持った群れが、扇状に包囲網を狭めてくる。
千冬の足が、悲鳴を上げた。
ガクンと右膝の力が抜け、アスファルトの上に崩れ落ちそうになる。マキが必死にその体を支えた。
「ハァ……ハァッ……ハァッ……!」
「千冬ちゃん、しっかりして……!」
囲まれた。
四方はフェンスと廃車。正面には五十を超える死者の壁。
千冬は息を呑み、鉄パイプを両手で構え直した。だが、指先にはもう感覚がない。パイプの重みすら支えきれず、切っ先が小刻みに揺れている。
「……ごめん、マキさん」
千冬は唇を噛み切り、血の味を飲み込んだ。
「……私の判断ミスだ。巻き込んじゃった」
マキは首を横に振った。
泥だらけの顔に、無理やり作ったような、しかし温かい笑みを浮かべて、千冬の冷え切った手を両手で包み込んだ。
「ううん。千冬ちゃんがいなかったら、私、三日前にあのお店で死んでた。……ここまで一緒に走ってくれて、ありがとう」
絶望の底で交わされる、静かな遺言。
雨足がわずかに弱まり、死者たちの濁った瞳が一斉に二人へと焦点を合わせた。
先頭の群れが、獲物の体温を貪るべく、一斉に腕を伸ばして雪崩れ込んできた。
距離、五メートル。
三メートル。
千冬の瞳が、血走った視界の中で、サービスピットの壁際に転がっていたもう一つの物体を捉えた。
――業務用の大型粉末消火器。
ピンは錆びつき、ホースは破れかけている。だが、圧力ゲージの針は、ギリギリで緑のゾーンを指していた。
(……これだ!)
千冬は鉄パイプを投げ捨て、マキの手を引いてピットの壁際へ飛び込んだ。
「マキさん、目を閉じて! 息を止めて!」
渾身の力で消火器を抱え上げ、黄色い安全ピンを指ごと引きちぎる。
レバーを両手で力任せに握り潰した。
プシュウウウウウウウウウウッッ!!
爆発的な噴射音とともに、超高圧のリン酸塩粉末が、白濁した猛毒の煙幕となって狭いスタンドの開口部へ吐き出された。
激しい薬品の粉塵が、突進してきたゾンビたちの眼球孔と口腔、そして雨水で濡れたアスファルトを真っ白に覆い尽くす。
視覚と呼吸器の機能はとうに失われていたとしても、猛烈な粉末の圧力と大気を遮断する濃密な粒子は、死者たちの嗅覚受容体を完全に物理遮断し、前進の勢いを押し留めた。
「ゲホッ……! 今だ、走れっ!!」
千冬は空になった消火器を投げ捨て、煙幕の切れ目へ向けてマキの手を引いた。
粉塵に巻かれて互いに足をもつれさせ、同士討ちのように折り重なる死体たち。そのわずかな隙間、トラックの車体とガードレールの間の狭い隙間へと、二人は滑り込むように擦り抜けた。
「ハァッ……ハァッ……! 千冬ちゃん、追ってこない……!」
「立ち止まらないで! 風で煙が晴れたらすぐ追いつかれる!」
二人は泥水を蹴り、闇の中へ溶けるように国道を外れた。
背後で響く、獲物を見失った無数の咆哮が、降りしきる雨音の奥へと次第に遠ざかっていく。
---
夜が、明けていく。
雨はいつしか小降りになり、東の空が冷たい鉛色から薄い紫へと変わり始めていた。
二人は、川沿いの土手の上にいた。
マキのスカートは泥でボロボロになり、千冬のジャージもあちこちが裂けていたが、二人は互いの肩を支え合い、一歩、また一歩と濡れた草を踏みしめていた。
「……マキさん、見えた」
千冬が息を切らしながら指差した。
朝靄の向こう。
川を渡った臨海部の埋め立て地に、防潮堤とフェンスに囲まれた巨大な物流倉庫群が、静かにその巨躯を横たえていた。
昨夜見えたナトリウム灯の光は、その倉庫街の一角――異様に真新しいソーラーパネルと巨大なパラボラアンテナが林立する、奇妙なラボのような施設から放たれていたものだった。
「あそこなら……人がいるかもしれないわね」
マキがかすかに頬を緩め、千冬の顔を見上げた。
「……うん。でも、油断しないで。生きてる人間が一番危ないかもしれないから」
千冬は痛む拳をぐっと握り直した。
「もし変な奴だったら、容赦なくぶん殴って物資だけ奪う」
「ふふ、千冬ちゃんは強いわね」
「強くないと、マキさんを守れないでしょ」
二人は顔を見合わせ、泥だらけの顔で小さく笑い合った。
もう、どちらが守る側でも、守られる側でもなかった。
二つの命は、この過酷な夜を共に越えたことで、誰にも引き裂けない強固な結び目を結んでいた。
朝の冷たい風が、二人の濡れた髪を揺らす。
倉庫街の入口へ続く橋の向こう――。
そこに、自分たちの運命を根底から狂わせる白衣の男がいることなど――二人はまだ、知る由もなかった。




