【番外編】父親
廃墟ビルの三階。
窓ガラスは割れ、外の街灯がかろうじて床を照らしている。
この時間、周辺の住人は誰も近づかない。
そういう手配だ。
建物の中は暗い。血の匂いが鼻を刺す。生臭い。鉄が錆びたような匂いだ。
物陰からギチギチ、という音がする。
魏骸だ。
二本足で立ち、人に似た姿をしている。
元は猿の妖怪だったのだろうか。四肢が異様に長く、背中が不自然に曲がっている。
僕は目を閉じた。
息を吐く。思考を断ち切る。集中しなければ死ぬ。
刀を構え、魏骸を見据える。
跳んだ。速い。だが僕のほうが速い。
背後に回り込む。
後ろから斬り込もうとした、その時。
しなる一撃が僕の刀を叩き落とした。
キン、と高い音が響く。刀が床を転がる。
尻尾だ。鋼鉄のように硬い。
不意打ちに、体勢が崩れる。魏骸はその隙を見逃さない。倒れた僕の上に覆い被さる。
「ぐっ…」
重い。息が詰まる。
僕は咄嗟に、右手の指を曲げた。
爪を立て、勢いよく魏骸の胸を突き刺す。
生ぬるい。ぐちゃりと内臓を掴む感覚が、手のひらに伝わる。
血が滴り、右手を伝って顔に流れる。
心臓を掴んだ。まだ脈打っている。
力を込めて握り潰し、引き裂くように手を抜く。
身体から、鮮血が噴き出す。
魏骸が断末魔の声を上げ、床に倒れ込む。
「はぁっ……はっ……」
息が上がっている。
僕はその場に座り込んだ。
血まみれの右手が、震えている。
嫌な感覚だ。何度やっても、慣れない。
『反応消失しました。お疲れ様です』
耳元のスピーカーから、人間の声。
後の処理は彼らがやってくれる。
僕は立ち上がり、その場を後にした。
外は、雨が降っていた。
傘は差していない。濡れたまま歩く。冷たさが、心を落ち着かせてくれる。
魏骸の正体は、妖怪だ。
変化すれば理性を失い、人を襲い続ける。かつては仲間だった者もいる。
僕は、そういう者たちを殺し続けている。
時々、罪悪感に押し潰されそうになる。
だが、足を止めるわけにはいかない。
玄関のドアを開ける。
暗い廊下を抜けて、リビングへ。
コウタが、ソファで寝ていた。
傍らには、ボロボロの傘が寄り添うように置いてある。
唐傘だ。気配を消して、じっとしている。
「……ふっ」
無防備な寝顔に、自然と顔がほころぶ。
——こんなに大きくなって。
僕は毛布を掛けた。
コウタと出会ったのは、六年前だ。
あの時、小さな彼は死の淵にいた。
僕は最初、傷は魏骸に斬られた足だけだと思っていた。
だが、病院で事実が分かった。打撲、骨折、栄養失調。コウタは何年にもわたって虐待を受けていた。
調書を読んだ。水商売の母親。父親は不明。三歳の頃から、母親の交際相手に殴られ続けていた。
無関心な母親。助けを求めても届かない声。
読み終えた後、しばらく動けなかった。
引き取ってからのコウタは、よくできた子だった。
おとなしく、わがままを言わず、自分のことは自分でやる。物も欲しがらないし、家事も進んでこなす。
僕の知る子供とは、まるで違う。良い子過ぎるのだ。
体調が悪くても黙っている。我慢する。気づくのは、いつも僕のほうが後だった。
あの環境が、コウタから「親に甘える」という選択肢を奪った。彼はいつも、大人の顔色を窺っていた。
コウタは自分の意見を、一度も口にしなかった。何かを言えば、その場の空気が悪くなる。それを、彼は誰よりもよく知っていた。
そんな彼が、あの日初めて僕にお願いした。
「僕にも、父さんの仕事を手伝わせてほしい」
その時の気持ちを、今もうまく言えない。嬉しかった。同時に、恐ろしかった。こんな子どもに、命を懸けさせてしまった。
僕は、もう一度コウタと唐傘を見た。
彼は、僕に気づいている。だが何も言わない。コウタを起こさないように、気を遣っているのだ。
唐傘は、コウタが命がけで仲間にした妖怪だ。
コウタは、きっとまた仲間を連れてくる。
そのたびに、僕の不安は増えていく。
もし、彼らが魏骸になった時。あの子のために、僕は斬れるのだろうか。
僕には術がかけてある。自分が魏骸化したら死ぬ術。
それを彼らにも、かけられるだろうか。
答えは出なかった。




