雪女
骨が折れた唐傘を修理に出して、はや三日。
「直ったよ」という電話をもらって、僕は商店街へ向かっていた。
商店街は、年々静かになっていく。シャッターの下りた店。空き家。剥がれかけた看板。全盛期を知らない僕でも、そこに残る気配だけで昔はもっと賑わっていたんだろうなと想像できる。すれ違うのは、お年寄りばかりだ。
傘を直してくれる店は、もうこの町に一軒しかない。八十を超えたおじいちゃんがひとりでやっている修理屋さんだ。店の中はいつもごちゃごちゃしていて、独特な油の匂いがする。
「ほれ、ちゃんと直ったから確認してみな」
僕は、傘を受け取った。おじいちゃんの手はごつごつしていて、黒い汚れとマメで覆われていた。何十年も、こうして物を直し続けてきた手だ。
その場で傘を広げてみると、折れていた骨はぴんと張って傘の形に戻っていた。前よりも、少しだけ頼もしく見えた。
「ありがとう、おじいちゃん」
「しかし珍しいねぇ。そんな子供用の傘を、わざわざ直してまで使うなんて。お兄ちゃん、よっぽど思い入れがあるんだろ?」
「……うん」
僕は、まっすぐに傘を見た。
代金を払って頭を下げ、店を出る。
商店街を歩きながら、僕は唐傘に話しかけた。周りに人がいないのを確かめてから、小さな声で。
「唐傘、ちゃんと直ったよ。よかったね」
返事は、すぐには来なかった。あれ?もっと喜んでくれると思ったんだけどな。
「……コウタ」
傘のまま、唐傘が低い声で言った。
「ここに来る途中、誰かと会ったっすか?」
「え? ……ああ、うん」
唐傘に聞かれた僕は、さっきの出来事を話した。
「そこの路地裏で、女の人に会ったんだ。赤いリボンの。綺麗だけど人形みたいに無表情で…なんか、すごく思いつめたような顔をしてて」
「心配になって、思い切って声をかけたんだ。だけど「気にするな」って言われちゃって」
「それでもなんか、放っておけなくて…。すぐ戻るから、それまで待っててって言ったんだ」
唐傘は、しばらく黙っていた。傘の布が、風もないのにわずかに揺れた。
「……なんか、なんか、僕の気のせいかもしれないっすけど」
「うん」
「店に入ってきたコウタから、妖怪の気配を少し感じたっす」
僕は、足を止めた。
言葉が出なかった。
あの人がいた場所へ、自然と足が急いだ。
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「……あれ?」
路地裏に着いたけれど、あの人はいなかった。
ひんやりとした空気だけが、そこに残っている。昼なのに日の光が届いていないみたいに、暗くて冷たい。
僕は唐傘に言った。
「電話かけてみようかな」
「電話?」
「うん。カバンも何も持ってなかったから、僕のスマホを渡してあるんだ」
「スマホを?」
「うん」
「コウタの?」
「うん。だから、かけたら出るかなと思って」
「コウタのスマホ、今、無いんすよね?」
「え?」
「じゃあ、連絡できなくないっすか?」
「……あっ」
沈黙が、続いた。
やばい。事の重大さに、ようやく気が付いた。知らない人に、スマホを渡すなんて。しかもその相手が妖怪かもしれないなんて。心配だったから、つい、とっさに行動しちゃったけど。
ふいに、商店街の方から声が響いた。
「火事だー!」
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行ってみると古い空き家から、もうもうと煙が立ち上っていた。窓の奥で、火が赤く揺れている。
「消防車はまだか!」
「早く避難を…!」
周りには、取り囲むように人だかりができていた。
僕の顔が、青くなる。
あの人は、あんなに思いつめた顔をしていた。行く当てもなく、あの路地裏にひとりで立っていた。もしかして、もしかしてあの人が……。
焼身自殺。
その四文字が、頭をよぎった。
「…まだ、間に合うかも」
唐傘をぎゅっと握った。
「助けなきゃ」
僕は、走り出していた。
後ろから、誰かが制止する声が聞こえる。
けれどそれを振り切って、火が出ている建物へ向かった。
中に入ると、異常な熱気が肌を刺す。煙が目に染みて前が見えない。
ポンという音がして、唐傘が妖怪の姿になった。
「危ないっすよ! コウタは人間なんす! 何考えてるんすか!」
「きっと、あの人も、独りぼっちだったんだ。それで、こんなこと……」
「コウタ!」
「絶対に、死なせない。探す」
火の手が広がっていく。パチパチという音が、すぐ後ろでした。
煙が、喉に入る。呼吸が苦しい。咳き込みながら、それでも僕は探した。
「おーい! いたら、返事して!」
「コウタ、もう外に出るっすよ! 僕の体も、燃えそうっす!」
プラスチックでできた傘は、熱に弱い。唐傘の声が、いつもよりずっと必死だった。
そういえば、妖怪は普通は死なないって聞いた。でも唐傘は付喪神だから、燃えたら終わりだ。
あの人だって、もしかしたら…。
「お願い……返事を……」
ふらついて、膝が笑う。
その時だった。
「はい」
天井から、ひょこっと、顔が出た。
見覚えのある赤いリボン。あの女性だった。
「この中から、あなたの声が聞こえたので」
「えっと…あなたたちは一体ここで何をしているのですか?」
事態を全く理解していないという顔で、女性の瞳が僕と唐傘を交互に見る。
「生きてた……」
「よかったぁ……」
安堵した僕は、そのまま、倒れ込んだ。
体が、動かない。煙を、たくさん吸ってしまった。
薄れゆく意識の中で、唐傘と女性の声が聞こえる。
その瞬間、とてつもない冷気があたりを一気に冷やしていくのを感じた。
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気が付いたら、あの路地裏にいた。
唐傘と、あの人が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
どうやら助かったらしい。
商店街の方からは、消防車の音が聞こえる。
「うわぁあん、コウタ! よかった! よかったっすー!」
唐傘が泣きついてきた。布が、ぐしゃぐしゃだ。
「……あなたが、助けてくれたのですか?」
僕は、彼女に問いかける。
彼女は、僕の方を見た。
出会ったときは普通の服だったのに、今は白い着物だ。
赤いリボンだけが、変わらず髪に結ばれている。
透き通った青い瞳の中に、きらきらと雪が降っているように見えた。
「すみません。あの時、待っていろと言われたのに……あなたを探して、ここを離れてしまいました」
「これを、返そうと思って」
そう言って、彼女は着物の袂からスマホをそっと取り出した。僕は、それを受け取る。
「コウタ! この人、妖怪っすよ! 雪女っす!」
唐傘が、状況を説明する。僕が倒れた後、この人が力を使って火を消したのだと。
「…つまり、あなたは私があの中にいると思って飛び込んだのですね?」
彼女は、静かにそう言った。
そう、そうなんだけど…。勘違いで死にかけて、恥ずかしい。
思わず顔を覆った。
「あなたは人間だから、死ぬかもしれなかったですよ。どうして……?」
僕は、正直に話した。
「君があの路地裏にいたとき、すごく思いつめた顔をしてたから。それで、放っておけなくて…」
「何か、力になれればと思ったんだ」
彼女の瞳が、また僕を見た。
「なんでまた、こんな町中にいたんすか?」
唐傘が、問いかける。
彼女は、少しだけ間を置いた。
「……住んでいた山が、無くなりまして」
静かな声だった。
「開発、というのでしょうか。木が一本も、残らなくなりました。行く当てもなく歩いていたら、いつの間にかここに」
そこで、言葉が途切れた。
僕は、何も言えなかった。
山が、無くなる。自分の居場所が、跡形もなくなる。それはとても悲しく、寂しいことだ。出会ったときのあの表情もうなずける。
それでも、僕は聞かなければならなかった。
彼女の悲しみに付け込むようで、ずるいと思った。でも他に頼れる人がいない。
「…僕は、妖怪の仲間を探しています」
一呼吸おいてから彼女の方を向いた。
「僕の父さんは狐の妖怪で…魏骸っていう化け物と戦ってる」
彼女は、静かに聞いていた。
「妖怪は普通は死なないって聞いた。でも、魏骸との戦いだけは別なんだ。父さんの仲間も、皆そうやって命を落とした」
言葉を選びながら、なるべく正直に言おうと思った。彼女を、騙したくなかった。
「君も、同じだ。戦ったら死ぬかもしれない」
風もないのに、路地裏の空気がすっと冷たくなる。
「それをわかった上で…それでもよかったら」
そこまで言って、僕は頭を下げた。
「父さんを、助けてほしい」
そのまま動けなかった。顔を上げたら、断られるのが怖かった。
「…あなたは、私が断ると思っていたのですか?」
「え」
顔を上げると彼女は、僕の目をじっと見ていた。青い瞳の中で、雪が、ゆっくりと降り続けている。
「あなたはさっき、燃えている家の中に私がいると思って飛び込んだ。自分が死ぬかもしれないのに」
静かな声だった。責めるでもなく、ただ事実を確かめるように。
「つまり、勘違いだったとはいえ、あなたは私のために命を懸けたということです」
僕は、言葉に詰まった。
「私にはもう、帰る場所がありません。行くあても、ありません」
彼女は一歩、僕の方に近づいた。足音はしなかった。それなのに、あたりの温度がほんの少しだけ下がった気がした。
「だから、行きます」
「私も戦います。魏骸と」
その声は、冷たくて、静かで。
けれど、僕には、この上なく温かく聞こえた。
「…ありがとう」
僕は、そう言った。それしか、言えなかった。
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家に帰ると、父さんがいた。
僕は全身、煤だらけ。後ろには、唐傘と雪女がいる。
父さんは、もう、何があったか聞かなかった。
「……風呂に、入ってきなさい」
あきれたような声で言って、父さんはリビングへ向かった。
その足取りは、心なしか少し重かった。




