保留
シャワーを浴びて、さっぱりした。
脱衣所の洗濯機がうなりながら回っている。ずぶ濡れの服が、そこで必死にもみ洗いされていた。
僕は、タオルをもう一枚取った。
あの傘も、ずぶ濡れだった。だからきれいなタオルで拭いておいた。骨の隅々まで、丁寧に水気を取った。
着替え終わって、傘を手に取る。
「……行こう」
ポンッ!
手の中の傘が、唐傘おばけになった。
「はいっす!」
僕の後を、ぴょん、ぴょんと跳ねてついてくる。
廊下を抜けて、リビングへ。父さんの待つ場所へ。
父さんは、ソファに座っていた。テレビもつけずただ、待っていた。
僕と唐傘は、テーブルの向かいに並んで正座した。唐傘は正座というより、きちんと座るという感じだった。傘のくせに、背筋がピンと伸びている。
結構バランスいいな。足一本なのに。
父さんは、僕と唐傘をじっと見た。
しばらく、誰も何も言わなかった。琥珀色の瞳から、静かな圧が伝わってくる。
「…コウタ、まずは今日何があったかを教えてください」
父さんは、僕に言った。唐傘ではなく僕に。
僕は、話した。
朝のこと。ゴミ捨て場で声が聞こえたこと。川で溺れかけたこと。傘が、妖怪になったこと。そして、仲間になったこと。
父さんは、最後まで黙って聞いていた。途中で何度か目を閉じた。ため息は、つかなかった。
「……そうだったのですね」
父さんは、唐傘を見た。
「あなたの持ち主は、あなたをとても大切に使っていたようですね」
急に話しかけられた唐傘は、びくっと跳ねた。緊張しているのか、少し震えている。
父さんは、静かに語り始めた。
「長く、大切に使われたものには『心』が宿ることがある。道具にも魂が棲みつくことがある。こちらでは、付喪神と呼ばれています。」
「ただ…」
父さんは、少し首を傾げた。
「付喪神は普通そこまで行き着きません。魂が宿ってもただの道具のままです。まして完全な妖怪になるなど……」
父さんは、そこで言葉を切った。そして、なぜか僕をちらりと見て黙った。
僕は、その視線の意味をまだ知らなかった。
ずっと俯いていた唐傘がぽつりと口を開いた。
「……僕は、坊ちゃんにとって初めての傘だったっす」
消え入りそうな、小さな声だった。
「雨の日も、晴れの日も僕を持って外に出かけてくれて……。それはもう、大切にされて……」
唐傘の声が、途中で詰まった。
「……だけど」
「骨が、折れて、壊れてしまったから……捨てられたっす」
大きな目から涙がボロボロと溢れてくる。
「僕は、役に立たないゴミ傘っす」
リビングが、静かになった。洗濯機の音が遠くから聞こえた。
父さんは、唐傘の方を、まっすぐ見ていた。
「現代では、骨が折れた傘を直して使おうという人は、あまりいません」
父さんの声は、淡々としていた。でも冷たくはなかった。
「壊れたら捨てて、新しいものを買う。それが当たり前になっています」
父さんは、少しだけ、間を置いた。
「……そんな人間の自分勝手さに、がっかりしましたか?」
唐傘は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと、首を横に振った。
「……悲しかったっす。捨てられて、悲しかった」
唐傘の声は、震えていた。でも続いた。
「だけど、恨んじゃいないっす。だってコウタが……コウタが、命懸けで僕を助けてくれたから」
父さんは、唐傘を見たままわずかに目を細めた。
僕は、何も言えなかった。ただ隣で唐傘が震えているのを、感じていた。
父さんは何か考えているようだった。その視線は、今度は僕に向いた。
「コウタ」
「……はい」
「彼が、『完全な妖怪』になったのは…」
父さんは、少し言い淀んだ。
「コウタと出会ってからだ。おそらく、僕はそう思う」
しばらく、沈黙が続いた。
そして父さんは、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「戦いは、危険を伴います」
「だから、彼を討伐に加えるかどうか、今は保留にします」
唐傘が、少しだけ、しょんぼりした。
「ただし」
父さんは、唐傘を見た。
「僕がいないとき…コウタのことを、守ってあげてくれませんか?」
唐傘は、一瞬、固まった。
「戦うことと、守ることは違います。あなたには、きっと守る方が向いている」
父さんは、小さく息を吸った。
「…お願い、できますか」
目を閉じ、静かに頭を下げた。
僕と唐傘は、お互いを見合わせた。
唐傘は、しばらく戸惑っていた。無理もない。あの父さんが、頭を下げている。それも自分に。
けれど、やがて観念したようにびしっと背筋を伸ばした。
「……任せるっす」
その声に、さっきまでの震えはなかった。
---
あれから、数日が経った。
夜。今日も、父さんはいない。
僕は、ベッドの中で、目が冴えていた。
しばらく天井を見つめる。時計の音。外の風の音。
僕は、玄関へ向かった。
傘立てに、あいつがいる。ボロボロの姿で。
「……ねぇ」
呼びかけると
ポン。
小さな音を立てて、唐傘おばけになった。
「眠れないんだ」
唐傘は、にぱっと笑った。
「じゃあ、少し話でもしますか」
リビングのソファに、二人で並んで座った。
電気はつけない。窓から差し込む月の光だけで、十分だった。
僕は、唐傘にこれまでのことを話した。
六年前魏骸に襲われて、父さんに助けられたこと。
父さんが僕を引き取って育てていること。
父さんは一人で戦っていること。
ああみえて、怒ると怖いところ。
僕たちはたくさん話して、たくさん笑った。
笑い声が止んだのは、いつだったか。
唐傘が、ぽつりと口を開いた。
「僕を坊ちゃんにプレゼントしたのは、おばあちゃんだったっス。四歳の誕生日だった」
唐傘は、思い出を一つずつ手に取るように話し始めた。
「坊ちゃんは僕を大層気に入ってくれて。どこへ行くにも連れて行ってくれたっす。おばあちゃんが亡くなってからもずっと、僕たちは一緒だった」
唐傘の瞳が、わずかに揺れた。
「でも……」
声が小さくなった。
「五年生くらいになったら、周りの友達に言われるようになったっす。『まだそんな傘使ってんの』『ダサくね?』って」
僕は黙って聞いていた。
「それでも、坊ちゃんは、何も言わなかった。僕のことをずっと使ってくれた。でも…」
唐傘の声から、笑みが消えた。
「ある日、強い風に耐え切れず、骨が一本折れてしまったっす」
間があった。長い間だった。
「それを見て、坊ちゃんは僕を物置にしまったっす。でも僕思ったっす。『きっとまた出してくれる』って。また前みたいに一緒に外を歩けるって」
唐傘の声が少しだけ明るくなった。でも、すぐ沈んだ。
「物置の中は真っ暗で、外の音だけが聞こえたっす。怖かったけど、僕はずっと待ってた。いつか扉が開いて、坊ちゃんがまた外に連れ出してくれるって思って」
唐傘は、一度、言葉を切った。窓の外では風が木の枝を揺らしていた。
「次に扉が開いたのは、いつだったか。僕はゴミ捨て場にいたっす。坊ちゃんは、いなかった」
そこで、一度目を閉じた。
「僕、最初はわからなかったっす。『忘れているだけ』って思った。きっと迎えに来るって。だから、待ったっす。ゴミ捨て場で。雨の日も晴れの日も」
「…でも、いくら待っても坊ちゃんは来なかったっす」
声が、震えていた。
「本当は、捨てられたのかもって思った。でも、受け入れたくなかった。独りは寂しすぎたから…」
唐傘は、そこで僕の方を向いた。月の光を受けてその目が、少しだけ濡れているように見えた。
僕は、胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
うまく言葉が出なかった。
「……僕も」
やっと、それだけ言った。
「僕も、わかるよ」
唐傘が、僕を見た。
「母さんが、出かけた時。僕、毎日玄関で待ってた。すぐ帰ってくるんじゃないかって。ずっと…」
声が、自然と震えた。
「父さんは、仕事ばっかりで。一人でごはん食べて。一人で、寝て。一人で…」
そこで、言葉が詰まった。
「わかってる。父さんの仕事は忙しいし、わがまま言ったらいけないってわかってる。だけど、だけどさ…」
感情が、止まらない。
唐傘が、ぽつりと言った。
「コウタ」
「……独りは、寂しいよね」
もうだめだった。
涙が、ぼろぼろ出てきた。止めようとしても止まらなかった。
唐傘も、泣いていた。布がぐしゃぐしゃになるほどわんわん泣いていた。
僕は、唐傘を抱き寄せた。ボロボロの布が頬に当たって、少し冷たかった。でもなぜか、温かかった。
唐傘も、僕の腕の中で小さく震えていた。
月が、ゆっくりと傾いていく。
夜は、静かだった。
いつの間にか僕は眠っていたらしい。抱えたままの唐傘は、妙に温かくて心地よかった。
カチャリ。
玄関の扉が、静かに開いた。
父さんが、疲れた足取りでリビングへ入ってくる。
血の匂いが、まだ少し残っていた。きっとまた戦ってきたのだろう。
そして、近くに来て足を止めた。
呼びかけようと思ったけど、目を開ける力がなかった。瞼が重かった。
ソファで寝ている僕の腕に、ボロボロの傘がすっぽりと収まっていた。
傘は、まるで僕を守るみたいに少しだけ傾いていた。
父さんはしばらく、その光景を見ていた。
それから、ふっと笑った。
とても、小さく。
でも、確かに。
父さんは、そっと僕の肩に毛布をかけて静かに部屋を出ていった。
月の光が二人の上に、まだ降りていた。




