ボロボロの傘
一週間が過ぎた。
僕はまだ、何もできていなかった。
あの夜、父さんの前で啖呵を切った。
「仲間を集める」とか「父さんを一人にしない」とか、大それたことを決意して、それきり僕は何も進められずにいる。
僕はリビングの机に突っ伏した。
妖怪の図鑑を買った。インターネットで調べた。昔話や伝承のサイトを見て、名前だけはいくつも覚えた。けれど、小学生の僕ができることには限りがあった。
人間が妖怪に会うには、どうすればいいのか。そこがわからない。一番大事なところなのに。
そもそも、妖怪なんて本当にいるのか。いや父さんがいるんだからいるんだろうけど。
でも、父さんは特別なんだ。あんなに強い。僕が会えるような妖怪は、街のどこかに普通にいるものなんだろうか。
「僕、何もできてない」
呟いてみた。誰もいない部屋で、声はやけに大きく響いた。
心が、折れそうだった。
時計が夜十時をまわった。
父さんは、今日も部屋にこもっている。普通にしてるけど、あの日から、何となく気まずい。僕はそっと足音を殺して、自分の部屋に戻った。
夜、ベッドの中で六年前のことを思い出す。
初めて魏骸に会ったあの日。
むせるような血の匂い。僕は床に倒れていて、魏骸の気配がひたひたと近づく。
「――こ ろ し て」
声が、聞こえる。僕は死にかけていた。意識は細い糸みたいに切れそうだったけど、その声だけははっきりと耳に残った。
あの感覚を、思い出せ。もっと鮮明に。
思い出すんだ、僕。
翌朝。
「よいしょ」
僕はゴミ袋を二つ持って家を出た。今日は不燃物の日だ。登校のついでに捨てていく。朝の空気は冷たくて、まだ街は静かだった。
ゴミ捨て場に着いて、袋を置く。振り返ったその時だった。
「もし」
声がした。今にも消えそうな、小さい声。
「そこの、あなた」
僕は周りを見渡した。誰もいない。車も人も、猫一匹いない。
「もし」
もう一度、声がした。足元からだ。僕は目線を下に移す。
そこにあったのは、傘だった。
ボロボロの、子供用の傘。黄色い布はあせてところどころ破れ、骨も一本折れている。誰かが捨てたのだろう、ゴミの山の端に半分埋もれるようにして転がっていた。
「……傘?」
僕は傘を手に取り、耳を近づける。
「よかった。やっと、気づいて、もらえた」
僕はぎょっとした。
さっきから聞こえているたどたどしい声は、この傘から発せられている。傘が、喋っている。
「ずっと、呼んでた。でも誰も、聞いて、くれなくて。きみ、聞こえるんだね」
近くで見ると、本当に古い傘だった。持ち手のところは手の脂で黒く光っている。誰かが、長いこと握っていたんだろう。
「お願い、あるの」
傘は言った。
「僕を、持ち主に、返してほしい」
「持ち主?」
「うん。僕のこと、ここに、忘れて、いったみたい。きっと必死に、探してる。だから返して」
僕は、黙った。
ここは、ゴミ捨て場だ。忘れていったんじゃない。捨てられたんだ。状況が、そう言っている。
でも、そんなこと言えるわけがなかった。捨てられたことも知らずに、この傘は、まだ持ち主を信じている。
「…探そっか。君の持ち主」
僕は傘の持ち手を握った。
「ありがとう」
声が、少しだけ明るくなった。
持ち主を探すのは、意外にも簡単だった。
傘が全部、覚えていた。男の子だということ。小学校の、何年生くらいだということ。この時間なら、近くの河原を登校中だということ。
歩いて十分もしないうちに、僕は友達と歩いているその子を見つけた。
年は僕と同じくらいの男の子。ランドセルを背負って、手には傘が握られている。青くて真新しい、ぴかぴかの傘だ。
「…あの」
僕は声をかけた。
「この傘、君のだよね」
男の子は立ち止まった。僕の手にあるボロボロの傘を見て、顔をしかめた。
「それ、古いから捨てたんだよ。ゴミだからちゃんと戻してきてよ」
あまりの言い様に、心が痛くなった。
「で、でも、大事に使ってきたんでしょう?」
僕は言った。自然と語尾が強くなる。
持ち手の黒ずみを見ながら。この子の手の形が、そこに残っている。
「そんな汚い傘、もういらないよ。壊れてるし、新しいのだって買ってもらったから」
男の子はイライラしながらそう言って、僕の手から傘を奪い取った。
「ぽーいっと」
軽い声で、傘を放り投げた。傘はくるくると弧を描いて近くの川へ落ちていく。ぽちゃん、という小さな音がした。
僕は思わず、走り出していた。
川は、想像していたより流れが速かった。
傘はもう、岸からだいぶ離されていた。小さい、ボロボロの傘が水に揉まれて、どんどん見えなくなっていく。
僕はランドセルを放り出し、靴も脱がずに飛び込んだ。
冷たかった。息が詰まる。足が、底に届かない。思ったより深い。流れが体をぐいぐい引っ張っていく。
傘に手を伸ばす。あと少し。あと、ちょっと。
指先が、柄に触れた。
僕はそれを強く握った。離すものか、と思った。
その瞬間、足に何かが絡まった。水草だ。ぐっと引っ張られる。体が、沈む。
柄を握る手に、さらに力がこもる。
傘は何も言わない。ただ、震えていた。
息が、できない。
水が、喉に、入る。
もがく。もがけどもがけど、体は、沈んでいく。視界が白く、にじむ。音が、遠くなる。
それでも、手は離さなかった。
離したらこの子は、また、独りになる。
――駄目だ。
ふいに、ぱあんという音とともに僕の目の前で、傘が開いた。
破れた布が、光をまとって一瞬で大きくなる。僕の体を下から押し上げるように、傘が水面を割った。
水しぶきをまき散らしながら、僕は空へ放り出された。
視界いっぱいに青が広がり、すぐにまたざぶんと水へ落ちた。
でも、落ちた場所は、流れの外だった。
僕は傘に必死にしがみついた。
水をかき分けて、ゆっくりと、体が岸へ押し流されていく。
僕は、ゴホゴホと必死に水を吐き出した。地面に手をつく。冷たい、土の感触。
「生きてる…」
顔を上げると、そこに、唐傘おばけが立っていた。
大きな目が一つ、足も一本。買った図鑑の絵、そのままだ。
ぴょん、と一跳びして、僕を見下ろした。さっきまでの、ボロボロの傘とはまるで違う。
「……助けて、くれたの?」
僕は、聞いた。唐傘はこくりとうなずいた。
その時、岸の上でおーい、と声がした。
見上げると、さっきの男の子たちが立っていた。僕が流されていったのを、必死で追いかけてきたんだろう。
肩で息をしながら、青い顔でランドセルをぎゅっと握っている。
ずぶ濡れで、きょとんとしている僕を確認すると、安堵の表情を浮かべた。
「お…お前が勝手に飛び込んだんだからな。俺は悪くない」
少年たちは、それだけ言って走り去った。振り返りもしなかった。
視線を戻すと、唐傘はボロボロの傘に戻っていた。
声が聞こえる。
さっきまでの、たどたどしい片言じゃない。しっかりした自分の言葉。
「君が、僕を助けようとしてくれたから、僕も助けたんす」
「でもでも、なんでっすか?僕は捨てられた…ゴミだって言われたのに…。なんで危険な目にあってまで…」
「助ける価値なんて、なかったのに…」
声が、震えている。
僕は、傘を持って立ち上がった。膝が少し笑っていた。
「価値とか、関係ないよ」
僕は、言った。
「君を、一人にしたくなかっただけ」
唐傘は、黙った。それから少しだけ、布の端を震わせた。
「……君、変わってるっすね」
「よく言われる」
僕は、ふふっと笑った。それから、思いついて言ってみた。
「あのさ、」
「僕、仲間を探してるんだ。魏骸って化け物と、戦わないといけなくて。」
唐傘は、黙っていた。
「もしかしたら、君を危険な目に合わせるかもしれない。だから無理にとは言わないんだけど…」
「いいっすよ」
声は、あっけらかんとしていた。
「いいの!?」
「君は、僕を放っておけなかった。僕も君を放っておけないっす。それに――」
唐傘は、笑った。
「君みたいな、変な人間、他にいないっすからね。ついていってみたいんすよ」
「…ありがとう」
僕は、うなずいた。
ぽた、ぽた。
音がする。
見下ろすと、僕の服から水が滴っていた。
傘からも、髪からも。
そういえば僕は、川に飛び込んだんだった。
足元にはいつのまにか、水たまりができている。
「あ、学校…」
「遅刻っすね」
結局、ずぶ濡れの僕は学校を休んだ。
――
家に着いたのは、昼過ぎだった。
玄関を開けると、父さんがいた。靴を履いたまま、こちらを見ている。
「お帰りなさい、コウタ」
「……うん」
父さんの目は、怒っている。でもその奥に、心配と安堵があるのがわかる。
「学校は、どうしました?それにその姿…」
父さんは、ずぶ濡れの僕をしげしげと見つめる。
「何が、あったのですか。怪我は…」
一歩、前に出る。その視線が僕の手元で止まった。
「……その、傘」
僕は、手に持った傘を、少し、持ち上げてみせた。
父さんは、しばらくその傘を見ていた。それから深い、ため息をついた。
「まいったな……本当に連れてくるなんて」
「約束でしょ」
僕は、言った。
「確かに約束はしました。しましたが……」
父さんは、もう一度傘を見る。やがて、観念したように僕に言った。
「風邪を引きますので、まずは風呂場へ。話を聞くのはそれからです」
僕は、うなずいて、玄関を上がった。
傘を握る手に少し力が入った。




