いつか、僕も
ここ数日、仕事続きでほとんど家にいなかった父さんが、帰っていた。
父さんはまだ少し事務作業があると言って部屋にこもっていた。
学校から帰った僕はリビングで宿題をしていたけれど、一行も進まなかった。
「父さん、最近ずっと忙しそう」
時計を見ながら、僕はぽつりとつぶやいた。
父さんは、呼び出しがあればいつでも駆けつける。
それは当たり前。人の命がかかっている。
かかっているのはわかる。わかるけど、あまりにも働きすぎて心配だ。
父さんが、いつか壊れてしまわないか。
僕は、父さんの仕事を深く知らない。
漢字が読めるようになって、家に届いた郵便物に「化生対策室」と書いてあるのを見つけた。
父さんに聞いたら、「悪い人を捕まえる警察のようなものです」と言った。
父さんは、きっとものすごく大変なはずなのに何も言わない。言ってくれない。
僕たちは家族だ。少なくとも、僕はそう思っている。
なのに、父さんは全部一人で抱え込む。
僕は鉛筆を置いて立ち上がった。廊下を歩いて父さんの部屋の前で止まる。
深呼吸をひとつ。それからノックをした。
「父さん、少し話があるんだけど」
返事はすぐには来なかった。
「……どうぞ」
ドアを開けると、父さんは椅子に座っていた。
机には閉じられたパソコンが置かれている。
きれいに整頓された部屋には、ベッドと机しかない。
シンプルで物が少ない、父さんの部屋だ。
「どうしましたか?」
僕はドアを閉めて、父さんの前に立った。
目を合わせるのが少し怖かったけれど、逸らしたら負ける気がした。
「父さん、最近仕事でほとんど家にいないから」
「……すみません。寂しい思いをさせてしまっていますよね」
父さんが申し訳なさそうに僕を見る。
「ううん、違う」
僕は首を横に振った。
「僕のことじゃなくて……父さんがっ……」
声が詰まる。色々な思いが喉元に上がってきて、うまく話せない。
「僕、父さんの役に立ちたい」
やっと発した言葉は、絞り出すようなものだった。それでも、はっきりと言った。
一瞬の沈黙。父さんは少し驚いた後、目を細めて微笑んだ。
「大きくなりましたね、コウタ」
それだけ。
でもその一言に、僕は少しだけ胸が痛くなった。
父さんは年を取らない。僕だけが、大きくなる。
その痛みを、飲み込んだ。
「父さんは……化生対策室、っていうところで」
声が、うまく出なかった。
「化け物と、戦ってるんだよね。僕、知ってる。昔…助けてもらったから」
父さんは短くうなずいた。
それきりだった。
僕は唇を噛んだ。
父さんはいつもそうだ。何も言わないし、話してくれない。僕を、仲間に入れてくれない。
でも、僕だって。
「僕、父さんのサポートくらいならできると思う。人間もいるんでしょ? その人たちの手伝いとか…」
僕が言うと、父さんは深く考えるようにしばらく黙っていた。
そして何かを決心したように、ゆっくりと口を開いた。
「コウタ。あなたにもきちんと話さなければいけませんね」
声がいつもより低かった。
「化生対策室ができたのは、ずいぶん前のことです。僕の他に四人の仲間がいました」
「四人?」
「ええ。みんな、妖怪でした」
僕は息を呑んだ。
「でももう、誰もいません」
父さんは、そう言って目を伏せた。
「六年前、あなたを襲った化け物。僕たちはそれを「魏骸」と呼んでいます」
「妖怪は普通死にません。でも、魏骸からの傷は別です。あれは致命傷になる」
父さんは顔を曇らせた。
「四人のうち、三人は魏骸との戦いで命を落としました。そして…」
父さんは、そのあとの言葉をすぐには口にしなかった。
窓の外で風が鳴っていた。
嫌な予感がした。聞いてはいけない気がした。でも、聞かずにはいられなかった。
「…残りの一人は?」
父さんは、膝の上で手を握りしめていた。
「魏骸になりました。前触れもなく。僕の目の前で」
「それって」
言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
化け物の正体は、妖怪。父さんと同じ。
頭の中で繰り返す。繰り返すたびに、じわじわと意味が染みてくる。
つまり、父さんも、いつか——
「はい」
父さんは、静かにうなずいた。
「いつか、僕も」
部屋が静かになった。
「僕は咄嗟に刀を振れなかった。同じ志を持ったかつての仲間を。化け物になったとはいえ、斬れなかった。だから逃げられました。魏骸は、街へ向かいました」
そこまで言って、父さんは一度目を閉じた。
「そして、あなたの家族を襲った」
僕の呼吸が止まった。
「あの時、僕が逃がさなければ、あなたは一人にならなかった」
言葉が出なかった。
父さんは、斬れなかったと言った。
でも僕を助けたその刀で、その仲間を斬った。
かつての仲間を。僕のために。
一体どんな気持ちで。どうして、僕は何も気づかなかったんだろう。
六年間も。
何も。
僕は、父さんの顔を見た。きっとすごく情けない顔だったに違いない。
そんな僕の顔を見て、父さんは悲しく微笑んで話を続けた。
「……コウタ、もう一つだけあなたに知っていて欲しいことがあります」
父さんは、何かを決めるように、深く息を吸って。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、自分に術をかけました」
「術?」
「はい。自分では解除できない、とても強力な術です」
父さんの声は静かだった。
「僕が魏骸に変わった時に発動し、発動すると僕は死にます。変化と同時に。そうすれば少なくとも、僕は人間を襲わない。あなたのことも」
僕は何も言えなかった。
父さんが死ぬ。魏骸になったら、死ぬ。父さんはそれを自分で決めていた。
怖いと思った。魏骸が怖いんじゃない。父さんを失うことが怖かった。でも、それ以上に。
「……どうしてそんなこと」
やっとそれだけが出た。
「変化のきっかけがわからない以上、僕もいつ魏骸になるかわかりません。コウタを預かってから、それが怖くなった。あなたを殺してしまうかもしれない。だから、そうしました」
父さんは少しだけ笑った。困ったような笑い方だった。
「僕のために?」
「いいえ。自分のためにです。あなたを傷つけるのが、一番怖かったから」
僕は、拳を握った。
「…父さんは、一人で戦ってるの?」
父さんは少しだけ間を置いてうなずいた。
「どうして」
「魏骸と戦えるのは、妖怪だけです。人間には傷一つつけられない」
「でも、化生対策室には人間もいるんでしょ」
「はい。でも彼らは僕のサポートです。直接戦うことはできません」
父さんは、遠い目をした。
「あの後、僕は仲間を探しました。でも見つかりませんでした」
琥珀色の瞳が、寂しそうに伏せられた。
「妖怪は、人間に興味がありません。救うほどの価値も感じていない。だから、危険を冒してまで守ろうとは思わない。それだけのことです」
父さんの言葉が、胸に刺さった。
父さんは一人なんだ。
僕は顔を上げた。
「…僕、仲間を集める」
父さんの目が、ほんの少しだけ大きくなった。
「仲間を集めて、父さんのところに連れてくる。それなら父さん、一人じゃなくなるでしょ」
「コウタ」
「それができたら、僕にも父さんの仕事を手伝わせてほしい」
僕はまっすぐに父さんの顔を見た。
父さんはすぐには答えなかった。しばらく僕の顔を見ていた。
それから、ふっと息を吐いて。
「では、仲間を集めてください」
声は、静かだった。けれどどこか諦めたような響きがあった。
「それができたら、考えます」
「…わかった」
僕はうなずいた。
足の裏が、床に張り付いているみたいだった。
ドアを開けて、廊下に出ようとすると父さんに呼び止められた。
「コウタ」
父さんはまだ椅子に座ったまま、僕を見ていた。
「なに?」
「……無理は、しないでください」
いつもの父さんの声だった。
僕は、うなずいた。でもその声が少しだけ震えていたことに、僕は気づかないふりをした。
ドアを閉めた。
廊下は少し暗かった。リビングから風が入ってくる。僕は拳を開いて、自分の掌を見た。爪の跡が赤く残っていた。
人間が妖怪を仲間にする。
できるはずがない。父さんはきっとそう思ってる。
僕だって、できるかわからない。
でも、やらなきゃいけない。父さんが一人で戦って、一人で死ぬなんて。
「そんなの嫌だから」
僕は、掌をぎゅっと握った。爪の跡が、さらに深くなる。
痛みは、怖さじゃない。これが僕の覚悟だ。
僕は、決めた。
父さんを、一人ぼっちにしない。




