あの日から
あの日から、今年で六年目。
あの夜のことは、まだ夢に出る。
冷たい風が僕の頬を撫でた。十二月の空は、暗くなりかけている。
市街地から少し離れたところにある雑居ビル。ここが僕の家だ。
——いや、正確には「僕たち」の家。
でもちょっとだけ変な造りになっている。
このビルの二階から上は、父さんの仕事場だ。
表向きは「特殊災害対策室」。本当はもっと、秘密の場所。
正面には大きな入口がある。だけど僕はそこを通り過ぎて、裏側へまわった。
ポケットから鍵を取り出し、目立たない小さなドアを開けた。
中に入ると玄関。いたって普通の、ただの家。ここが、僕たちの生活空間。
僕は靴を脱ぎ、リビングのドアを開ける。
天井から、誰かの足音が聞こえる。二階には今日も誰かがいる。父さんの仕事仲間だ。
「おかえりなさい」
奥から、優しい声。
顔を上げると、銀色の髪の人が僕に微笑んでいた。
あの夜、僕を助けてくれた人。今は父さんって呼んでる。
「ただいま、父さん」
「おかえりなさい、コウタ」
父さんは、もう一度そう言った。
六年の間に、僕は大きくなった。背もだいぶ伸びた。
だけど父さんの姿は、あの時のまま変わらない。
僕は、こんなに変わったのに。
これは秘密。絶対に秘密。
実は、父さんは狐の妖怪。だから年をとらない。
父さんの仕事場には、本当の名前がある。
「|化生対策室」
化生。つまり、化け物のこと。
姿が見えない。だから、人間には戦えない。
父さんの仕事は、人を襲う化け物を倒すこと。
だけど、みんなはそれを知らない。
知っているのはこのビルで働いている、ほんの一部の人たちだけ。
父さんはいつも忙しそうにしている。帰ってこない夜もある。
そんな日は決まって、次の朝、少しだけ疲れた顔で「おはよう」と微笑む。
僕は何も聞かない。聞いても、父さんは「仕事ですので」としか言わないから。
僕がまだ小さかった頃、父さんはお手伝いさんを呼んでいた。僕が一人で留守番をするのを心配してのことだった。
でも、僕が大きくなるにつれてその人は来なくなった。洗濯も、掃除も自分で一通りできるようになったから。火を使った料理だって覚えた。
全部、父さんが教えてくれた。僕が一人でも生きられるように。
それでも父さんはできるだけ僕と一緒の時間を過ごそうとする。僕が寂しくないように。忙しい合間を縫って、夕飯を一緒に食べたりたわいのない話をしたり。
その時間は、僕にとって一日のうちで一番温かい。
今夜も、父さんは八時過ぎに帰ってきた。
「ごめんなさい、出先で連絡ができなくて」
「これからまた仕事に戻りますので、先に寝ていてください」
宿題をしている僕に、申し訳なさそうに言う。
「うん」
僕はうなずく。父さんはそれだけ伝えると、また出て行こうとした。
その足がふと止まる。
消し忘れていたテレビからニュースが流れていた。アナウンサーの落ち着いた声。
「続いてのニュースです。昨日夕方、県内の山中で大規模な土砂崩れが発生し付近の林道が一部通行止めとなっています。けが人は確認されておらず、復旧作業が進められています」
父さんの顔が一瞬、曇った。眉がほんの少しだけ寄って、唇が薄く結ばれる。
ほんのわずかな間だった。僕は息を呑んだ。
「…父さん?」
声をかけると、父さんははっとしたように僕を見た。その顔は、もういつもの父さんの顔に戻っていた。
「失礼しました。ぼうっとしてしまって」
父さんは静かに笑ってテレビを消した。でもその笑みは、どこか無理をしているようにも見えた。リモコンを置く手が、少しだけ震えているように見えたのはきっと僕の気のせいだ。
「コウタ、僕はまた戻ります。何かあったら連絡をください」
「うん。いってらっしゃい」
「いってきます」
父さんはコートを着て玄関へ向かう。その背中を見送りながら僕は思う。
父さんはあのニュースのことを何か知っている。いや、知っているだけじゃない。もしかしたらこれからあの場所へ行くのかもしれない。
ドアが閉まる音がした。僕は一人リビングに残された。
仕事で父さんがいなくなった家は、しんと静かだ。
電気をつけてもつけなくても、同じくらい暗い気がする。
僕はリビングのソファに座って、ぼんやりとしていた。
こんな夜は、昔のことを思い出す。
あの頃は、まだお手伝いさんがいた。でも人がいても、父さんがいない夜は怖かった。僕にとっての家は、このビルでもこの部屋でもなくて、父さんだったから。
今はもう、一人で夜を過ごすのは慣れている。火も使える。戸締まりもできる。何も怖くない。
怖くないはずなのに、時計の針が進む音だけがやけに大きく聞こえる。
父さんの仕事がどんなに危ないか、僕は知っている。
僕が化け物に襲われた、あの日から。
それ以来、二度と出会ってはいない。
だけどその恐ろしさは、忘れたことがない。
人を襲う。人を壊す。父さんは、そういうものを相手にしている。
僕が学校に行っている間も、寝ている時でさえも。
父さんは強い。狐の妖怪だ。人間なんかより、ずっと強い。
でも、強いから、死なないわけじゃない。
もし、帰ってこなかったら。
もし、僕が、一人になったら。
…嫌だ、考えたくない。
僕は首を振った。父さんはたった一人の家族だ。それがいなくなるというのは、僕の世界が消えるということだ。そんな自分を情けないと思う。
時計が、十二時を回った。
ドアの向こうから足音が聞こえた。ゆっくりで、重い足音。僕は顔を上げた。
鍵が回る音。ドアが開く。
僕は立ち上がって、玄関へ走った。
父さんが立っていた。コートの肩が濡れていた。どこかで雨に降られたんだろう。
顔は少し青白くて、でも、僕を見ていつもの笑みを浮かべた。
「コウタ、まだ起きていたのですか」
「うん」
「眠れませんでしたか」
「……うん」
父さんは、そっと僕の頭に手を置いた。いつもより、ずっと冷たい手だった。
「すみませんでした。遅くなって」
僕は、何も言えなかった。ただ、父さんの手の冷たさをそのまま受け止めていた。
胸の奥で、さっきまでざわざわしていたものが少しずつ静かになっていくのがわかった。
父さんは、生きて、帰ってきた。
それだけで、今夜は、いい。




