プロローグ(後編)
気が付くと、そこは白い部屋のベッドだった。
「あれ……夢…?」
熱があるのか、ぼんやりとする頭で横になったまま辺りを見回す。
口元に違和感を覚えて触れると、酸素マスクが取り付けられていた。
身体中が痛い。呼吸をする度、肋骨のあたりに鈍い痛みが走る。
ふと視線を上に移すと、腕から伸びたチューブの先に点滴の袋が繋がれていた。
枕元の機械は一定の間隔でピッピッと電子音を鳴らしている。
コウタは自分が病院に運ばれたことを理解した
「コウタ君……?目が覚めたの?」
巡回で部屋に入ってきた看護師の女性が、コウタを見て驚いたように目を丸くした。
「良かった……今先生を呼んで来るから!」
看護師はそう言って医者を呼びに部屋を出た。
興奮しているのか、大きな声が病室まで聞こえてくる。
ほどなくして、白衣を着た小太りの中年男性が病室に入ってきた。
先ほどの看護師も、医療器具の入ったカートをガラガラと押しながら後に続いた。
「よかった、コウタ君。目を覚ましたんだね」
カチャカチャと道具を用意しながら、医師が安堵の表情を浮かべて話しかける。
「君は昨日の夜、ここに運び込まれたんだよ」
「災難だったね……。何ヶ所か骨が折れているところもあるから、元気になるまでは少なくとも一か月はかかるだろう。頑張って治していこうね」
そう言って、医師はそのまま診察を始めた。
「あの……一体何が……」
話すこともままならないコウタは、横になったまま絞り出すような声で問いかけた。
医師は一瞬困惑したような表情をした後、看護師と顔を見合わせた。
「コウタ君……申し訳ないけれど、私たちは何があったのか知らされていないんだ」
「元気になったら警察の方からちゃんと説明があると思うから、まずは身体を治すことを第一に考えなさい」
医師はそう言うと手際よく一通りの診察を終え、病室から出て行った。
残されたコウタは白い天井を見上げ、高熱でうまく働かない頭で考えた。
状況がまったく理解できない。
母さん達のこと。化け物のこと。そして、自分を助けたあの人のこと。
昨夜のことは全部夢だったのだろうか。
「そういえばあの時……」
コウタは足を怪我していたことを思い出し、手でそっと傷口に触れた。
「……あれ?」
確かにあの時、突然現れた化け物によってコウタの右足はぱっくりと切られたはずだった。 しかし傷はどこにもなく、手術などをした形跡も見られなかった。
「なんだ……やっぱり夢だったんだ……」
けれど、そう言い聞かせれば言い聞かせるほど昨夜の光景が鮮明に蘇る。
化け物の目。母の悲鳴。切り裂かれた自分の足。
考えるのを、やめたかった。夢だと思うことにした。
そうしないと、とても眠れそうになかったから。
コウタは布団を被り、無理やり意識を手放した。
全身を襲う鈍い痛みだけが、現実を静かに主張していた。
コウタが病室で目覚めてから、一か月が過ぎた。
あの夜のことは、まだ誰も教えてくれない。
けれど、ここにいれば暴力に怯えなくて済む。温かいご飯も毎日食べられる。
医師たちの治療のおかげで、コウタの体はかなり回復していた。
リハビリも兼ねて、院内を散歩できるようになっていた。
本来なら遊び盛りの年齢だ。今までほとんど外に出られなかった彼にとって、こうして建物の中を歩くだけでも冒険のようだった。
点滴スタンドをガラガラと押しながら、最上階にある休憩室へ向かう。
大きな窓から外が見えるテーブルに座り、ぼんやりと景色を眺めるのが最近のお気に入りだ。
エレベーターのドアが静かに開き、広々とした空間に出た。
休憩室には椅子とテーブルが並べられており、誰もいない。
空は雲一つない快晴で、澄んだ空気と冬のにおいが伝わってくるようだった。
コウタは休憩室に置かれている椅子に腰かけた。
ぽかぽかとした日差しに心地よく目を細めていると、ふいに後ろから誰かに話しかけられた。
「山中コウタ君だね?」
驚いて声の方を向くと、よれた黒いスーツを着た男性が立っていた。
年は五十前後。笑ってはいるが、その目は鋭くコウタをじっと見つめている。
「え……っと……あの……」
戸惑うコウタに、男性は胸ポケットから警察手帳を取り出して見せた。
「おじさんは怪しいものじゃないよ。この事件を担当している、高木という刑事だ」
『事件』という言葉に、コウタの胸がざわつく。
あの夜のこと。誰も教えてくれなかったこと。
それが今、目の前の男の口から語られようとしている。
高木と名乗る男性は、向かいの椅子にどっかりと腰を下ろした。
「もう歩けるようになったのかい?」
「は、はい……おかげさまで」
「そうか。それはよかった」
高木はそう言って、どこか焦れたように指で机を軽く叩いた。
「今日は少し、コウタ君から話を聞かせてくれないかなと思って来たんだ」
口調は優しい。だが、有無を言わせぬ迫力にコウタは首を縦に振るしかなかった。
「君、お母さんの交際相手から虐待を受けてたんだって?」
高木は手帳を開きもせず、まるで天気の話でもするように言った。
コウタは答えられなかった。喉の奥が詰まって、うまく息が吸えない。
「二人ともあんなことになっちゃって、残念だったね」
「……あんなこと、って」
「え? 君、見てたんでしょ? 殺されるところ」
その瞬間目の前の景色が、ぐにゃりと歪んだ。
——違う。ここは病院だ。あの部屋じゃない。
それなのに、鼻の奥にあの夜のにおいが蘇る。
鉄のにおい。床に広がる赤い染み。母の悲鳴。
化け物の、言葉が聞こえる。
「こ ろ し て」
コウタの指先が冷たくなり、呼吸が浅く、速くなる。震えと汗が止まらない。心臓が肋骨を内側から叩いている。
「おい、聞いてるのか」
高木の声が遠くで聞こえる。まるで水の中にいるみたいだった。
「なあ、コウタ君」
高木は身を乗り出した。その目には、もう優しさの欠片もない。
「犯人の目星がつかないんだよ。二人も死んでるのに、現場には何の痕跡も残ってない。おかしいだろ? だから聞いてるんだ」
——君は何を見た。
「コウタ君、君は犯人を見たんだろ? 教えてくれよ」
「……っ」
「誰がやった。名前は。顔は。どこへ逃げた」
「……わ、かりません」
「は?」
「わからない、んです。あれはひとじゃ」
「なんだって?」
「……ば、化け物が……」
沈黙が落ちた。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
高木はゆっくりと息を吐き、鋭い視線でコウタを睨んだ
「——大人を馬鹿にするんじゃない」
声が、低かった。
「ふざけるなよ。二人も死んでるんだぞ。君が助かったのは、たまたまだ。なのに化け物?そんな嘘で逃げられると思うなよ」
「ほ、ほんとに……ほんとに、化け物が……」
「いい加減にしろ!」
高木の掌が、乱暴にバンと机を叩く。
コウタの肩がびくりと跳ねた。
あの家で、何度も聞いた音。
息ができない。視界の端が白く滲む。心臓が痛い。
逃げなきゃ。隠れなきゃ。
でも、動けない。
「誰かが君を匿ってるんじゃないのか? 誰だ。言え」
「……っ、ぁ……」
「言えよ!」
——その時だった。
「そこまでにしていただけますか?」
凛と澄んだ声が、静かに響いた。
高木が振り返る。コウタも、涙で滲んだ視界でその声の方を向いた。
入口に、少年が立っていた。
紺色のダッフルコート。見覚えのある、銀色の髪。
——あの夜の、人。
心臓が、どくんと跳ねる。
いつの間に現れたのか、気配すらなかった。
「……誰だ、あんた。関係者以外は——」
思わず高木が立ち上がる。
「あなたこそ、ここで何をしているんですか?」
少年は静かに歩み寄る。口調は丁寧だが、その声には怒りを滲ませていた。
「私は警察だ」
「だから何か?この子への聴取は医師の許可が下りてからのはずですが」
少年は高木の前に立ち、まっすぐにその目を見た。
「無断で聴取を行おうとしたのなら、それこそ大問題ですよ。必要なら本当に許可が下りているか、今から確認してきましょうか」
少年が放つ重圧に、その場の空気がびりびりと張り詰める。
背は高木より頭一つ低い。なのに、見下ろされているような感覚があった。
「……な、んだ、お前は」
刑事の額に、汗がにじんだ。
「お引き取りください」
声は、優しいまま。けれど逆らうことを許さない響きがあった。
「く……」
高木は何か言いかけて、やめた。
これ以上、少年の目を見ていられなかったのだ。そういう目だった。
高木は、逃げるように部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
少年はしばらくその扉を見つめていた。やがて、ゆっくりと振り返る。
その顔には、もう威圧感はない。
「よく、頑張りましたね」
少年の優しい笑顔を見た途端、コウタは堰を切ったように泣いた。
声を上げて、泣いた。
あの夜からずっと我慢していた分を、全部。
少年は、震えるコウタの背にそっと手を置き、撫でた。
「もう大丈夫だよ」
その手は、温かかった。
聞きたいことはたくさんある。でも今は――――。
コウタはただ、もう少しだけこの温もりを感じていたかった。
ふと気づくと、窓の外にはオレンジ色の夕焼けが広がっていた。
いつの間に眠っていたんだろう。休憩室にあの人の姿はもうなかった。
コウタの肩には、紺色のダッフルコートがかけられていた。
――――まだ、温かい。
さっきまで、誰かが着ていたみたいに。
退院の日が、近づいていた。
医師たちは、相変わらず何も語らなかった。
「もう少し検査が必要で」
「経過は良好です」
——そんな言葉ばかりが、積み重なっていく。
けれど、コウタは知ってしまった。
高木という刑事の口から、聞きたくなかった真実を。
母と、その交際相手の男。
二人とも、死んだ。
コウタはその言葉を、胸の奥に飲み込んだ。
飲み込んだまま、今日まで来てしまった。
ベッドの上で、天井を見る。白いシミが、ぽつんと浮かんでいる。
カーテンの隙間から、冬の光が細く差し込む。
——帰るところが、ない。
コウタは、紺色のコートをぎゅっと握りしめた。
「これから、どうしよう」
怖くて、誰にも聞けない。
答えは、どこにもない。
ある日の午後。
ノックの音がして、病室の扉が開いた。
入ってきたのは、スーツを着た高齢の男性だった。
高木ではない。白髪混じりの、落ち着いた物腰。少しふくよかで、血色が良い。
「失礼します」
男性は、深く一礼した。
それから、コウタの顔を見て穏やかに微笑んだ。
「ああ、安心してください。今日は、ちゃんとお医者さんの許可を取っていますよ」
「……あ」
その言葉に、コウタは少しだけ肩の力を抜いた。
男性は、ベッドの横の椅子に静かに腰を下ろした。
椅子がきしむ音が、病室に響く。
「私は、安城といいます。警察の者です」
「……高木さんの」
「そう、上司です。だいぶ上の。」
安城は、少しだけ苦笑した。
安城はまず、コウタに謝罪をした。
「高木が、許可を得ずに君から話を聞いたこと。本当に、申し訳ありませんでした」
「彼は、捜査が進まないことに苛立ち焦っていた」
「君の話を、早く聞きたかった」
「結果、君に怖い思いをさせてしまった。私からも、深くお詫びします。」
大人が自分に謝る姿に、コウタは思わず焦った。
「だ…大丈夫ですよ」
安城は、続けた。
「それから——君のお母さんと、その……交際相手の方のことも」
コウタは、うつむいた。安城は、はっきりと言った。
「二人とも、亡くなりました。これは事実です」
「……はい」
コウタは、小さく頷いた。
分かっていた。分かっていたけれど言葉にされると、違った。
涙は、出なかった。
ただ、胸の奥が、からっぽになった。
安城は、少し間を置いて切り出した。
「高木が、少し気になることを言っていました」
「君が、『化け物』という言葉を使ったと」
コウタは、顔を上げた。
安城は、まっすぐにコウタを見ていた。その目は、疑いではなく問いだった。
「……もしかして、君には見えているのですか?」
コウタは、息を呑んだ。
誰にも、言っていなかった。
言っても、信じてもらえないと思っていた。
でも——
「僕は、見ました」
コウタは、あの日のことをそのまま話した。
母の悲鳴。飛び散る赤。化け物の姿。
そして―――。
コウタは、銀髪の少年のことを話すか迷った。
しかし、助けられたことだけは言わなかった。
話せば、彼の不利益になるかもしれない。何となくそう思ったからだ。
安城は、途中で口を挟まなかった。ただ、静かに、聞いていた。
「…それで、気づいたらこの病院にいました」
コウタが話し終えると、安城は、ふむと小さく唸った。
それから、誰かに向かって言った。
「…だそうだ。どうだ?」
返事は、どこからともなく聞こえた。
「——彼が見えているのは、本当です」
コウタは、息を止めた。
いつの間に、そこにいたのか。見覚えのある、銀色の髪。
あの夜の、人。
少年は、静かに部屋を歩き、コウタの枕元にそっと腰を下ろした。
そしてゆっくりと、口を開く。
「君のこれからについて、三つ提案があります」
コウタは、息を呑んだ。
「一つ。孤児院に行く」
「同じ境遇の子たちと、一緒に暮らす。寂しくはないと思います」
「……うん」
「二つ。里親に預けられる」
「君をちゃんと育ててくれる人を、僕が探します。きっと不自由はさせない」
「……うん」
コウタは、頷いた。
どちらも、悪くないと思った。
どちらも、自分には遠いとも思った。
少年は、少しだけ間を置いた。
それから、言った。
「そして、三つ目」
コウタは、顔を上げた。
琥珀色の瞳がまっすぐに、コウタを見ていた。
「——僕が、君を育てます」
---
コウタは、言葉を失った。
部屋が、静かになった。
冬の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。




