プロローグ(前編)
そのうつろな瞳には、常に絶望と諦めが映っていた。
薄暗く狭いアパートの一室。
その片隅で痩せこけた小さな体を丸め、少年はじっと息を潛めていた。
もう冬だというのに、薄いぼろ切れのような服。全身は痣だらけだ。
空腹はとうに限界を通り越し、身体が鉛のように重い。
彼はゴミで溢れたこの部屋の中で、食べられそうなものを探しては今日まで命を繋いできた。
その細い指は床に落ちている得体の知れない乾いたパンくずのようなものを拾い上げ、ためらいもなく口に運んだ。
ガチャリ、と無機質な音が静寂を破った。
玄関のドアが乱暴に開け放たれ、むっとするような酒の臭いが室内へと漂ってくる。
「おいコウタ! ちゃんと掃除しとけって言ったよなぁ!?」
部屋に入るなり男の怒鳴り声が少年の小さな体を貫く。
母親と、その交際相手が帰ってきたのだ。
男の機嫌はいつにも増して悪い。ギャンブルで作った借金のせいか、あるいはただ酒の勢いか。
濁った目が部屋の隅を睨みつける。
コウタと呼ばれた少年は無言で部屋を片づけ始めた。もう返事をする気力すらないのだ。
力なくふらつきながら中央の机周りをきれいにし、何とか男が座れるスペースを作り出す。
そんな様子を、彼の母親は光のない目で見つめていた。
「けっ……薄気味悪ぃガキがよ」
男はそう吐き捨てると、その場にドカッと座り込んだ。
煙草をくわえ、ライターを擦る。
ジッという音と共に紫煙が揺らめいた。
その瞬間、男の視線が机の上を這った。
灰皿がない。
それだけで、男の中の何かが簡単に切れた。
「灰皿はどうした、あァ!? テメェふざけんなよ!」
言葉よりも先に拳が飛んできた。
続いて、鈍い蹴りがコウタの腹に容赦なく叩き込まれる。
コウタはその場にうずくまった。
痛い。苦しい。息が詰まる。
しかし、彼は決して声を上げなかった。
泣き叫べばこの男はますます愉悦に浸り、暴力をエスカレートさせる。
ただ、耐えること。耐えて嵐が過ぎ去るのを待つこと。
それが彼が生き延びるために見つけた、唯一の方法だった。
コウタはほんの一瞬だけ母親の方へ視線を走らせた。
彼女は所在なさげにそこに立っているだけだ。
その顔には、まるでテレビの雑音でも聞いているかのように、何の表情もなかった。
コウタはもう母に助けを求めなくなっていた。
最初の頃は泣き叫び、何度も名前を呼んだ。それでも何も変わらなかった。
助けてくれるわけがない。そんなことはとっくに知っていた。
口を出せば今度は自分が標的になる。それだけの話だ。
コウタはただ祈ることにした。早くこの地獄が終わることを。
終われ、終われ、終われ——。
小さな体をさらに固く丸め、襲い来る蹴りと拳から必死に頭と腹を守る。
痛みは、いつしか遠くの出来事のように感じられ始めた。
薄暗く濁っていく視界の隅で、床に落ちた煙草の火が憎悪のように赤く光っていた。
ヒュン、と空気が裂ける音がした。
それはこれまで聞いたどんな音とも違う、鋭く、冷たく美しいほどの一閃だった。
男の拳が途中で止まる。
いや、止まったのではない。男の身体から首がごとり、と落ちたのだ。
床の上を転がる首が、コウタの顔のすぐ横で止まる。
切り口から噴き出した血が、コウタの頬に温かい飛沫を散らした。
あまりに突然の出来事に、悲鳴も叫びも出なかった。
「ひ……ぎゃぁぁああ!」
はっと正気に返った母が、玄関に向かって一目散に走り出した。
振り返りもせず、我が子をその場に残して盾にするように。
しかし彼女がドアに手をかけた瞬間、鋭い一撃が容赦なく肉を切り裂いた。
縦に、一文字。
あまりにも速く滑らかに、母の身体は左右に分かれた。
真っ赤な血しぶきが壁に飛び散り、花のように咲いた。
崩れ落ちた身体からは袋が破けたように臓物が零れ、床を汚していた。
生き物だったものがただの肉に変わる——その様子を、コウタは呆然と見ていた。
悲しみが、恐怖が、遅れてやってきた。
その刹那右足に焼けるような鋭い痛みが走った。
「あ……ああ!?」
自分の足を見下ろすとふくらはぎがぱっくりと裂け、中から赤い肉が覗いている。
ようやく思考が追いつく。自分も切られたのだ。
煮えたぎる湯をかけられたような痛みが、遅れてどっと押し寄せてきた。
コウタは悲鳴を上げながら傷口を両手で押さえた。
脈に合わせて血がどくどくと溢れ出す。生ぬるい感触が指の間をすり抜けていく。
嫌な感覚だった。
痛みと、温かさと濡れた感触が混ざり合って、気が狂いそうだった。
「ぐうぅ……っ!」
歯を食いしばると、両目に涙がにじんだ。
脂汗が噴き出し、視界が歪む。
何が起きているのかわからなかった。わからないまま、コウタは周りを見回した。
ぼやけた視界の端に、こちらを見下ろす大きな獣のようなものが映った。
四つ足のそれが、自分の前で佇んでいる。
全身は湿った黒い毛皮で覆われ、トカゲのように低くぬったりとしている。
しかしその前足は鋭く湾曲し、刃のごとく光る鎌のようであった。
切っ先からはまだ乾かぬ鮮血が垂れ落ちている。
コウタはそれを見た瞬間、自分の足の傷が何によるものかを悟った。
鎌。
あの鎌だ。
皮膚が裂け、肉が断たれたあの痛みの正体。
理解とともに、傷がまたズキズキと熱を持つ。
化け物が「うぅ……うぅ……」と低くうめきながら、身体を大きく左右に捩る。
まるで自分自身の存在を否定するようで、その姿はどこか苦しそうにも見えた。
ズルズルと腹を引きずらせながら、気配がゆっくりとコウタのそばに近づいてくる。
部屋に充満した鉄の匂い。
足からどくどくと流れる血の影響か、頭がぼんやりとして痛みも怖さも薄らいでいく。
逃げなければ。脳が必死でそう叫んでいるのに、身体は指一本動かない。
呼吸も浅くぐったりと仰向けになったコウタの瞳を、化け物が覗き込む。
定まらない焦点を必死に合わせながら、コウタもまた化け物を見る。
化け物の両目には、無数の針金が打ち込まれていた。
ホチキスの針のように、幾重にもまぶたを閉じたまま固定してある。
その隙間からは真っ赤な血がとめどなく溢れ、泣いているようにも見えた。
その血をポタポタと顔に浴びながら、コウタはゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に赤が滲む。温かくて生臭い。
痛みと音は遠くなり体の輪郭がぼやけていく。
「死」という概念は理解している。これがそうか。案外、静かなものだ。
その時、今までうめき声しか発しなかった化け物の口から、はっきりとした言葉が聞こえた。
「こ ろ し て」
コウタの目が反射的に再び開く。
刹那、ヒュンと風を切る音がした。
だが、それは鎌がコウタを切り裂いた音ではなかった。
一瞬の後、化け物の腕が二本とも宙を舞いガシャンと大きな音を立てて床に落ちる。
思わずひるみ、その場から後ずさる化け物。
何が起きたのか、わからなかった。
「ごめんね、怖かったね」
柔らかく優しい声が、上から降ってきた。
コウタは声の主を目で追った。
年は十五、六だろうか。まだ幼さが残る顔立ちの少年だった。
青みがかった銀色の髪から、獣のような耳がぴょこんと飛び出している。
吸い込まれそうな琥珀色の瞳が、心配そうにコウタを見つめていた。
少年は、動けないコウタを守るように化け物との間に立ち塞がると、すっと刀を構えた。そしてタンと地面を蹴ったかと思うと、次の瞬間には化け物の胴体が真っ二つに切り裂かれていた。
切り口から溢れる血が、少年の白い装束に飛び散って赤い模様になっていく。
化け物の体が床に崩れ落ちた。そして、さっきまでが嘘だったかのような静寂が突然訪れた。
血だまりの中で、少年は刀を収める。その後ろ姿で、大きな尻尾がふわりと揺れた。
少年は振り返り、コウタを見下ろした。その表情はどこか儚げで、悲しそうだった。
「もう大丈夫だよ」
少年がそう言った気がした。
コウタはその声を聞きながら意識を手放した。
赤い血と銀色の髪が、水に溶ける絵の具のようにじわりと滲んで消えていった。




