約束
翌朝、目が覚めたのはいつもよりずっと早かった。
昨日の父さんと雷牙の会話が、頭から離れなかったからだと思う。
寝返りを打っても、あの弱々しい声が耳の奥で繰り返された。結局ほとんど眠れないまま、僕は布団を出た。
外はまだ薄暗かった。朝の空気は澄んでいて、息を吸うと肺の奥が冷たくなる。
どこへ行くとも決めていなかったけれど、足は自然と坂道を上っていた。
着いたのは、小高い丘の上だった。ベンチがひとつ、ぽつんと置いてある。父さんが考え事をしたいときにたまに来るって言ってた場所だ。僕はそこに座って、ぼんやりと町を見下ろしていた。
丘の上からはこの町が一望できる。たくさんの家、まだまばらに歩いている人、ところどころに残る木々の緑。こんなに広い町で、父さんは一人で戦っていたんだ。辛いことも、たくさんあったはずだ。父さんはここに座って、何を考えていたのだろう。
「……今日はずいぶんと早起きですね」
声がして振り返ると、コートを着た父さんが立っていた。いつの間に来たのか、息は上がっていなかった。僕は少しだけ慌てて、ベンチの端を空けた。父さんは何も言わずに、僕の隣に腰かけた。
朝日が、父さんの横顔を照らしていた。銀色の髪が光を受けて、きらきらと細く揺れている。琥珀色の瞳は、朝の光の中で蜂蜜のように透き通っていた。
きれいだな、と思った。ずっときれいな人だと思っていたけれど、こうして朝日に照らされているのを見ると、まるで絵画みたいだった。
昔、父さんとここに並んで座ったことがある。前は見上げていた父さんの姿が、気づけば僕と同じくらいになっていた。そんなことに今さら気づいて、少しだけ不思議な気持ちになった。
「父さんも、考え事をしてるの?」
「はい」
父さんは短く答えた。それから、少し迷うように間を置いて付け加えた。
「ここに来たということは、コウタもそうなのでしょう」
僕は父さんを見た。父さんも僕を見ていた。その目は、いつもの穏やかな笑みを浮かべてはいなかった。静かで、まっすぐで何かを決めかねているような目だった。
「六年前に父さんが僕を助けた時さ」
僕は、視線を町に戻して言った。
「足、治してくれたよね」
「……はい」
父さんは、少しだけ目を細めた。
「あの時のあなたは、失血で一刻を争う状況でした。すぐに治さなかったら死んでしまう。だから治した。それだけです」
「それだけ、じゃないでしょ」
僕は笑った。
「父さんはすぐ無茶をする。倒れちゃうかもしれないのに」
あの時だってそうだ。父さんが起きなかった時、僕は不安で押しつぶされそうだった。眠っている父さんのそばで、何度も何度も呼びかけた。返事が返ってこないのが怖かった。もう二度と、目を覚まさないんじゃないかって。
でも、それは僕も同じだ。僕が魏骸に近づけば、父さんは不安になる。強くなれば、父さんは苦しむ。良かれと思ってしていることが、父さんを傷つけている。
「……僕は、父さんを助けたい」
気づくと、そう言っていた。
「僕はあなたを守りたいです」
父さんが、静かに言った。目が合った。二人とも、少し困ったように笑ってしまった。同じことを言っているのに、向いている方向が逆で噛み合わない。でも、同じくらい本気なんだということは、伝わった。
一人で戦う父さんの姿を見ていたから、今の僕がある。
僕たちは血はつながっていないけど、似ている。こういうところがきっと親子なんだと思った。
父さんは、しばらく黙って町を見ていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、あなたをもう止めません」
父さんの方を見た。
「僕が何と思おうと、あなたは前へ行くでしょう」
「自分一人だったら、縋ってでも止めていました。あなたが何と言っても、抱え込んででも戦わせなかったはずです」
父さんの声は静かだった。でも、その静けさの奥にぎゅっと締め付けるような強さがあった。
「でも、今は彼がいます」
「…雷牙」
「はい。あの人なら、きっとコウタを守ってくれる。コウタを、正しい場所に導いてくれる。そう思っています」
父さんは、そこで一度言葉を切った。それから、僕の方へ向き直った。
「だから、雷牙の言うことを聞きなさい。あの人を信じなさい」
「……うん」
「でも、勘違いしないでください」
風が吹いて、髪が揺れた。
「あなたを雷牙に任せる、という意味ではありません。僕があなたを守るのを、やめるわけではないんです」
僕は、顔を上げた。琥珀色の瞳が、まっすぐに僕を見ていた。
「僕は、これからもあなたを守ります。守り方が変わるだけです。表に出てあなたの前に立つのではなく、後ろからあなたを見ている。あなたが転びそうになったら手を伸ばす。あなたが間違った方向へ行きそうになったら、声をかける。それだけのことです」
「父さん……」
「雷牙に任せるのは、あなたを戦わせることだけです。あなたのことを、僕は諦めません」
父さんは、少しだけ笑った。今度はいつもの穏やかな笑い方だった。でも、その中に前よりもずっと強い意志が混ざっていることに、僕は気づいた。
「だから、約束してください。危なくなったら、必ず呼ぶこと。一人で抱え込まないこと。僕を、置いていかないこと」
「……うん」
僕は、頷いた。胸の奥が、じわりと温かくなった。昨日の夜、あの廊下で感じた冷たい渦はもうなかった。
父さんはそっと僕の頭を撫でた。大事なものに触れるみたいに。それから、ベンチから腰を上げる。
「朝ごはん、食べましょうか」
「うん」
僕も立ち上がった。丘の上から見た町は、さっきよりも少しだけ明るく見えた。




