届かない
少し前まで、僕たちは人気のない河原で訓練していた。石ころだらけの地面と、川の水音。雨が降ったらずぶ濡れで、風が強い日は目も開けられない。たまにだけど人も通る。
それを知った安城さんが、とある場所を貸してくれた。
街の外れ、使われていない倉庫街の一角。シャッターの錆びた建物が並ぶ中、安城さんが案内してくれたのは、天井の高い広い空間だった。何かの工場だったらしい。
がらんとした床に、太い柱。壁は分厚く窓は少ない。何かを投げても、叩きつけても誰も文句を言わない。ここなら、思い切りやれる。
「街にこんな施設があったなんて」
僕が言うと、安城さんは「昔の遺物ですよ」と笑った。
「必要ならいつでも使ってください。ここなら誰も来ませんから」
それから僕たちは、ここで訓練するようになった。
今日は父さんも来ていた。
僕たちの修行の成果を見せたかった。強くなった姿を見れば、父さんの迷いも消えるだろうと思った。僕はもう守られるだけの子供じゃない。そう思ってほしかった。
父さんは端に積まれた資材に腰かけて、こちらを見ていた。その顔は穏やかで、いつもの父さんだった。だから僕は、きっと大丈夫だと思っていた。
卯咲が氷の刃を放っている。掌から次々と生まれてはまっすぐに飛んで的に当たる。五本、六本、七本。以前は三本も出せば息を切らしていたのに、今は連射しても妖力が尽きない。
形も自由になった。鋭い刃、丸い塊、細かい粒。卯咲は自分の指先を見るように、黙々と氷の形を変えてみせる。無表情のまま、何度も何度も。
「すごいね卯咲」
僕が声をかけると、卯咲は一瞬だけこちらを見て小さく頷いた。
言葉はなかったけど、その横顔は前よりずっと落ち着いて見えた。
雷牙は唐傘の相手をしている。唐傘は傘を構えて打撃を受け流し、隙を見ては柄を振り返す。
「ちょちょちょ、待って待って! 今のなし! 今のはなしでしょ雷牙さん!」
ギャーギャー言いながら飛び上がって傘を振る。雷牙は身をかがめ、低い位置から反撃する。
「いった! ちょっと、本気でやらないでくださいよ! 僕、繊細なんですからね!?」
「繊細な奴が戦えるかよ。これ以上喚くようなら不燃ごみに出すぞ」
雷牙は楽しそうに、そして意地悪そうに笑っている。からかって遊んでいる顔だ。
「ひ、ひどい! パワハラっすよ!トラウマっすよ!僕だってちゃんと計算して……わっ!」
放たれた拳を唐傘が紙一重でかわす。だが避けた先に蹴りが待っていた。傘を盾のように構えて受け止めるが、衝撃で二歩下がった。
「重っ! ちょっと!手加減してくださいよ!」
「手加減? ナマ言ってんじゃねぇ。自分で避けろ」
攻撃は速い。容赦がない。でも、唐傘もただ打たれているだけではなかった。
一度受けた攻撃を次は違う避け方でかわす。払われた足を次は引っ込める。拳が来る前に半歩だけ先に動く。少しずつ少しずつ、雷牙のリズムを読もうとしている。
「お?」
雷牙が小さく声を上げた。今度は避けるだけでなく、顔面を狙って傘を振る。腕で払われるが、流れで柄を回し二撃目を繰り出す。身を引く。詰める。打たれながらも確実に前へ出ていた。
そして。
雷牙が踏み込んだその瞬間、唐傘はあえて前に出た。拳の内側に入り込む。
雷牙の目がわずかに見開かれる。傘の先が脇腹をかすめた。
「やるじゃねえか」
口の端を上げる。唐傘は息を切らしながらも、どこか得意げに傘を握り直した。
「でしょ? 僕、やればできる子なんです」
「口だけは一人前だな」
「口も武器ですから」
相変わらず騒がしい。でもその手つきには前のような迷いがない。打たれるばかりだった頃とは違う。今は打たれながら次を考えている。
……そして、僕の番だ。
僕は掌を開く。左右の掌から白い布が一本ずつするりと出てくる。以前は短くしか出せなかったそれが、今はどこまでも長く伸びる。指先を動かせば布の先も動く。腕の延長のような感覚。二本同時に動かしても、ぎこちなさはあるけど操れているという手応えがある。
雷牙が、こちらを見た。
「左右一本ずつなら、まぁまぁ扱えるようになってきたな」
「うん」
「じゃ、本数増やすか」
あっさりした提案だった。雷牙はいつもそうだ。できそうならやらせる。できなければ止める。それだけ。
「左右一本ずつで二本だろ。なら、左右二本ずつにしてみろ」
「全部で四本ってこと?」
「そうだ。二本出すのと、理屈は同じだ。まずは片方ずつ意識する。ほら、右からやってみろ」
理屈は同じ。言うのは簡単だ。でも、二本を四本に増やすということは、意識する方向が二つから四つに増えるということだ。そんなことが、簡単にできるんだろうか。
僕は息を吸った。右手を開く。まず一本。これはいつも通りだ。白い布が掌から伸びる。よし、ここまではいい。そのままもう一本。
しかし、二本目を出そうと意識した瞬間、先に出ていた一本がふらりと揺れた。
「っ」
集中が乱れる。出しかけた二本目が、形になる前にほどける。やっぱり無理なのかもしれない。でも、ここでやめられない。
もう一度、息を吸う。一本をしっかり保ったまま、その内側からもう一本。今度は先に出した一本を動かさないように意識を残しつつ、新しい布に意識を割く。頭の中で、二つの布を同時に保つ。片方に引っ張られそうになるのを、ぐっと堪える。
指先が震えた。布が、ぼんやりと輪郭を結ぶ。安定してきた。
今度は左手を出す。まずは一本。同じ要領でもう一本。
出た。白い布が四本、宙に伸びている。ふらふらと揺れているけど、確かに四本出せた。
「よし、出たな」
雷牙の声は、淡々としていた。
でも、そこからが全然駄目だった。
四本になると、操るのに神経を使う。まず片方の二本を保ったまま、もう片方の二本を意識する。四つの方向を同時に保つだけで、頭のどこかがぎゅっと締まる。左右一本ずつなら何でもなかったことが、二倍になるだけでこんなに重い。
片方を前に出せば別の片方が遅れる。遅れた方を意識すると、今度は前に出した方がよれる。片方を巻きつけようとすれば、別の片方がほどける。どれか一つを直すと、別の一つが崩れる。四本の布が、それぞれ別の意志を持っているみたいだった。
「……っ」
集中力が途切れてくる。布の動きが思い通りにならない。頭が痛くて、目の奥がちかちかし始めた。視界の端が白く滲む。息が浅くなる。吸っても吸っても足りない気がして、胸が苦しい。四本の布がぼやけて見える。
布の色が、変わった。
白だったはずの端がわずかに濁る。灰色がかって、揺らぐ。
「ストップだ、コウタ」
雷牙の声が、はっきりと響いた。
だけど僕は手を止めきれなかった。
四本出すまではできたんだ。もう少し。もう少しだけ。
「駄目だ」
近づいてくるその手が僕の手首を掴んだ。布が、しゅるりと萎むように消えた。
「何かあったら、俺が狐に殺される」
耳元でこそっと言うと、訓練場の端に目をやった。その先に、父さんがいた。立ち上がってこちらを見ている。その目は不安にあふれていた。僕の布が濁った瞬間から、ずっと。
雷牙の手が、まだ僕の手首を掴んでいる。強くはない。離すつもりはない、というだけの力。
「すみません」
僕は小さく言った。雷牙は何も言わずに、手を離した。
「…まぁ、四本出せたじゃねぇか」
少しして、雷牙がそう言った。慰めのつもりなのか、そうでないのかいつもの口調だった。
「でも、操れなかった」
「当たり前だ。初めから操れるわけねぇだろ。左右一本ずつの時だって、最初はふらふらだったんだぞお前」
そうだった。最初は布をまっすぐ伸ばすことすらできなかった。それを思えば、四本を同時に出すところまでは来ている。でも、それでは足りない。魏骸と戦うには、操れなければ意味がない。正確に素早く思い通りに動かせなければ。
「もう一回、やらせてください」
僕が言うと、雷牙は少しだけ眉を上げた。
「今日はやめとけ」
「でも」
「明日もある。焦るな」
雷牙はそう言って僕の頭を軽く叩いた。それから、卯咲と唐傘の方へ歩いていった。
僕はその場に立ち尽くして自分の掌を見た。何も出ていない。ただの手だ。布の感触がまだ指の先に残っている。四本、確かに出せた。その手応えと操れなかった悔しさが胸の中で混ざっている。
「コウタ」
声がした。顔を上げると、父さんが近くまで来ていた。
「お疲れさまでした」
父さんは何も言わずに少しだけ笑った。でもその笑い方が、無理をしていることに僕は気づいていた。
見せたかったのは、強くなった僕だった。
見せてしまったのは、まだ制御できない僕だった。
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雷牙に聞きたいことがあって、化生対策室を訪ねた。布の操り方のことだ。四本同時に出すところまではできたけれど、そこから先がどうにもうまくいかない。雷牙なら何か知っているだろうと思った。
安城さんに聞くと、三階で寝泊まりしているらしい。
三階に上がるのは初めてだった。前に来た五階は、人がいっぱいで机が並んで、電話が鳴ってどこにでもある普通の会社みたいだった。でも三階は、それとは全く違っていた。
廊下に出ると、まず静かさに驚いた。人の気配がない。扉は並んでいるのに、どれも閉まっていて物音ひとつしない。資料室、倉庫、医療室と札がかかっている。
医療室の前を通った時、ふと足が止まった。僕の輸血は、ここでしてもらったのかな。そんなことを考えながら、廊下の奥へ歩いていく。
その時、話し声が聞こえてきた。
雷牙の声と、それから父さんの声。
僕は立ち止まって、耳を澄ませた。聞くつもりなんてなかった。でも、父さんの様子が気になった。さっきの訓練場での、あの笑い方が頭から離れなかった。
「お前が謝ることじゃねぇ。俺が戦わせたんだ」
雷牙の声だった。低くてぶっきらぼうで、いつもと変わらない。
「……もう一度、封じようとしました」
父さんの声がした。いつもの穏やかな声じゃなかった。
「でも、できなかった。一度活性化したかけらは、僕には止められなかった」
「あいつの意思だ」
雷牙が言った。
「コウタが自分で決めたことだ。俺たちは見てるしかねぇ」
「わかっています。わかっているんです。でも」
父さんの声が途切れた。何か言おうとして、飲み込んだような間があった。
「コウタが、どんどん魏骸に近づいていく」
僕は、息を止めた。
「コウタの気持ちを理解しようとしても、心が追い付かない。頭ではわかっている。あの子は僕を助けたいだけだって。でも、強くなればなるほど人間から離れていく。コウタの中の魏骸が、コウタを呼んでいる。そう思うと、怖いんです」
父さんの声は、弱々しかった。いつも僕の前で笑っている父さんの、聞いたことのない声だった。
「……なんで」
気づくと、僕は小さく呟いていた。声に出したつもりはなかった。でも、口から零れていた。
僕は父さんを助けたい。死なせたくない。だからかけらの力を使って戦う。強くなりたいと思う。それなのに、僕が強くなるほど父さんは苦しむ。不安になる。
僕が良かれと思ってしていることが、父さんを傷つけている。
なんでだろう。なんで、うまくいかないんだろう。
胸の奥が、ぎゅっと冷たくなった。布が濁った時の、あの感覚に似ていた。力が行き場をなくして、内側で渦を巻いているような。
これ以上聞いていたら扉を開けてしまいそうだった。飛び込んで、ごめんなさいと謝って、でも僕はやめられないんだと言ってしまいそうだった。でもそれは、たぶんいちばんしてはいけないことだ。父さんは、あんな声を僕に聞かせたくなかったはずだ。
僕は、音を立てないように後ずさった。廊下を、来た道を戻る。医療室の前を通る時も、足を止めなかった。資料室も倉庫も、もう見えなかった。
三階の廊下は、どこまでも静かだった。




