【番外編】守り方
明日から業務に戻る。安城さんはもう少し休んだ方がと言っていたが、そんな時間はない。休んでいる間にも、魏骸は出る。
化生対策室はビルの二階から上にある。
主に使われているのはサポート班がいる五階で、それ以外の階にはあまり人はいない。資料を置いたり、救護室があったりする程度だ。
気づけば、窓の外はもう暗かった。夜も更けた時刻だ。
僕は必要な資料を取りに三階にいた。人気のない廊下に、灯りの付いている部屋がある。白い蛍光灯の光が、廊下に細長く漏れていた。
前を通りかかった時、声が聞こえた。
「保存……保存……」
低い、苛立ったような声。足を止めた。
扉が少し開いている。覗くと、雷牙がパソコンの前に座っていた。画面を睨みつけて、眉間に皺を寄せている。
扉を開けて中に入った。
雷牙が顔を上げた。一瞬だけ驚いた顔をして、それからいつもの目に戻る。
「もう体はいいのか、狐」
「ええ、だいぶ。……あなたこそ何をしているんです」
「報告書を作ってんだよ。手書きじゃ駄目だって言うから、仕方なくこれでやってる」
そう言って、また画面に向き直った。マウスを握ったまま、カーソルを画面上で迷わせている。どうやら機械は苦手らしい。
「保存はどれだ」
呟いて、カーソルをとあるボタンの上で止めた。彼の背後から画面を覗き込んだ。
「そこは削除ですよ」
雷牙の手が止まった。画面を見たまま、一瞬だけ瞬きをした。
「……削除?」
「押したら、今書いた報告書が消えます」
雷牙の眉のあたりが、わずかに動いた。それだけだった。
「保存のボタンは、上のほうです」
「上?……どれだ。俺には全部同じに見えるんだが」
声が低くなった。空気がぴりつく。
雷牙の肩のあたりで小さな電気が散った。本人は気づいていない。
「雷牙、放電が」
「あ?」
自分の手を見て、初めて気づいた顔をした。
「……おぉ。わりぃ」
まずい、と思った。彼の手からマウスを奪い、代わりに保存のボタンをクリックした。
「保存しました」という文字が表示され、画面が切り替わる。僕は小さく息を吐いた。
その時、部屋の隅に目が行った。簡易ベッドがある。毛布が一枚、雑に畳んである。
「ここで寝泊まりしているんですか」
「ああ。安城に空いてるから好きに使えって言われてな。妖怪は寝ないし別に必要ないんだが……まああった方が落ち着く」
そう言ってベッドに目をやった。
「誰かさんは爆睡してたみてぇだけどな」
雷牙が、僕を見て言った。口の端が少しだけ上がっている。
僕は無言で雷牙を見た。
「冗談だ。……わかってるよ」
そう言って、彼はふっと笑った。その手がパソコンを閉じた。
「なあ、狐」
雷牙が口を開いた。
「何ですか」
「なんであいつを引き取った」
少しの間、答えられなかった。考えて、ようやく言葉を発した。
「最初は、責任感からでした」
「責任感」
「はい。六年前、コウタが家族を失ったのは僕のせいでもありました」
「鎌鼬の件か」
黙って頷いた。六年前のことは、安城さんから聞いているのだろう。
「僕の仲間だった鎌鼬が、魏骸になってしまった。突然のことでした。僕は咄嗟に彼を斬ることができず、一度逃がしてしまった。その魏骸が、コウタとその家族を襲ったのです」
自分の手を見下ろした。指がわずかに震えているのが自分でもわかった。
「コウタが入院している間、安城さんが調べてくれました。母親の交際相手から日常的に暴力を受けていたそうです。母親は、それを見て見ぬふりをしていた」
雷牙の目が、わずかに細くなった。
「……それも、虐待でした」
僕は少し息を継いだ。
「家族を失ったその子を、親戚に引き取ってくれないかと掛け合ってくれたそうです。でも、誰も引き取らなかった。皆面倒くさそうに、施設に預けてくれと言うだけでした」
「それで、お前が引き取った」
「はい。安城さんがその話をした時、僕は思ったのです。この子を一人にしてはいけない。親に虐待され、誰にも必要とされず、挙げ句に魏骸のかけらまで抱えている」
少し視線を落とした。
「不憫だ、と。そう思いました」
「不憫か」
「ええ。でも、それだけではない。一緒に暮らすうちに情が沸きました。自分でも不思議でした。妖怪の僕が、人間の子に。でもそういうものなのでしょうね。気づいた時には、あの子が僕の日常になっていました」
少しだけ息を吐いた。
「コウタには、普通の人生を歩んでほしかった。魏骸の見えない、ただの子供として。六年前に引き取った時、そう決めた。彼が望んだわけじゃない。僕が勝手に決めた。それが一番いいと、信じていた」
「なのに、あいつはお前を助ける道を選んだ」
「…はい。彼は僕のために仲間を集めると言った。どうやってか妖怪を連れてきた。そして僕が眠っている間にあなたが修行をつけた。かけらの力を使い、魏骸と戦えるようになった。彼は、僕が望んだ普通の子供からどんどん遠ざかっていく。僕の知らないところで、僕の手を離れていく」
目を閉じた。
コウタが初めて化生対策室に来た日のことを思い出した。
一階の受付で待つ彼を迎えに、僕はエレベーターで降りた。
ドアが開いて、受付に座るその姿を見た時、僕は思った。もう引き返せない、と。
「あの子が仲間を連れてきても、僕は戦わせませんでした」
雷牙は、黙って聞いていた。
「彼が必死に集めた仲間が、魏骸との戦いで死んでしまうかもしれない。あるいは魏骸になって、僕が斬らなければならなくなるかもしれない。それがただ、怖かった」
雷牙は、天井を見上げた。それから小さくつぶやいた。
「お前は、あいつを守り続けた。俺は戦わせた。……まるで正反対だな」
「ええ。……だから、あなたには感謝しているのです」
雷牙は僕を見た。
「僕が眠っている間に、コウタは戦えるようになった。僕ができなかったことを、あなたがしてくれた。それが悔しくもあり、ありがたくもある。……複雑なものです」
「複雑、か」
「ええ。複雑です」
雷牙は、少しだけ笑った。口の端が片方だけ上がる、あの笑い方だった。
「……コウタを戦いに参加させたこと、嫌味の一つでも言おうと思っていたのですが」
「言えばいいだろ」
「言えませんよ。あなたは僕の眠っている間にあの子達を守ってくれた。それは事実ですから」
雷牙は何も言わなかった。ただ僕を見ていた。
「ありがとうございます」
頭を下げた。その言葉は、思ったより自然に出た。雷牙は少しだけ目を細めた。
「礼を言われるようなことじゃねぇ」
「いいえ。……礼を言わなければならないことです」
「眠ってたことまだ気にしてんのか」
雷牙が、少し呆れたような顔をした。
「お前、自分の妖力が無限だと思ってんのか? だとしたら、あの雪女よりも厄介だな」
「そんなことは」
「だろ。なら、済んだことをいつまでも抱えてんな。お前が一人で抱えなくていいように、俺がここにいる。……それじゃ、足りねぇか?」
思いがけない言葉だった。雷牙が、そんなことを言う人だとは思っていなかった。
「……充分ですよ」
僕は小さく笑った。胸の奥が、少しだけ軽くなるのがわかった。
「明日からは、報告書のことは僕がやります。……僕がいますので、大丈夫ですから」
「おう。それは助かる。俺は身体を動かしてた方が性に合ってる」
「それは何よりです」
僕は雷牙を見て言った。
「コウタのこと、頼みます」
雷牙が、呆れたようにこちらを見た。眉を上げて、口の端を少しだけ歪めている。おいおい、という顔だった。
「お前が言うな。お前が一番、あいつのそばにいるんだからよ」
「…それもそうですね」
静かに頷いた。さっきより、楽になっていた。
僕は扉の方へ歩き、取っ手に手をかけて振り返った。
「報告書、お疲れさまでした。慣れない作業だったでしょう」
「おー。明日から頼むわ」
雷牙は短く返した。けれど、その素っ気なさが妙に心地よくて、僕は思わず口の端が緩むのを感じた。
扉を開けて、廊下に出る。夜の空気が冷たかった。
強くならなくては、と思った。
ただ守るだけでは、足りない気がした。




