初陣
また、朝が来た。
雷牙の特訓は続いた。
二日目。卯咲が手を振り下ろすと、その軌道に沿って小さな氷の粒が飛んだ。
三日目。粒が少し大きくなり、缶にこつんと当たった。
「当たった」
卯咲が、小さく呟いた。
「そうだ。そこからだ」
雷牙は、それだけ言った。
四日目。唐傘が初めて手の中に傘を出した。すぐに消えた。でも出た。
「出たっす!」
「よし。もっと長く留めろ」
「はいっす!」
五日目。卯咲の一閃が缶を走った。細い傷だった。でも、確かに切れていた。
「やった……」
卯咲の声が、初めて震えた。
雷牙は、うなずいた。
「その調子だ。力を使いすぎるな。あと何発打てるか、常に数えろ」
「はい」
掌の傷は、塞がりかけると雷牙がまた切った。
「まだ出せないなら、塞がせるな」
両手のひらに、鋭い痛み。血が線になって滲む。赤い。掌の上で玉になって盛り上がる。
その傷口から布が出てくるイメージをしろ、と雷牙は言う。僕は目を閉じる。掌の痛みだけがはっきりとある。その痛みの奥に何かがいる気がした。
でも何も出ない。
その日が終わっても、僕だけまだ何もできていなかった。
家に帰ってベッドに寝転がる。両手を見る。新しい傷が、古い傷の上に重なっている。塞がりかけたところを、また切られた。赤い線が何本も交差している。
その下に何かがいる。いるのに、出てこない。
卯咲はあんなに小さな刃を出せるようになった。
唐傘は傘を留められるようになった。
僕は。
掌を握る。握っても、何も出ない。指の隙間から白いものが覗くわけでもない。
焦りはじわじわと体の内側を這い回る。急かすなと自分に言い聞かせてもそれは消えなかった。
体を起こして廊下に出る。父さんの部屋の前を通る。ドアの隙間から中を覗く。父さんはまだ同じ姿勢で眠っていた。
部屋に入って、ベッドの横に座る。
「父さん」
声をかける。返事はない。
「僕だけ、まだ何もできてないんだ」
眠っている顔を見る。
こんな時、父さんなら何て言うだろう。きっと僕のことを心配して、戦わなくてもいいと言うだろう。僕が守るから、と一人で何とかしようとするだろう。
ずっと一人で戦ってきた。一人で背負ってきた。
魏骸のことを僕に隠して。仲間を斬ったことも一人で抱えて。
これは、僕が父さんを助けるチャンスなんだ。
ベッドから手を離して、立ち上がる。部屋を出る。ドアを静かに閉める。
六日目。卯咲の刃は置いてある缶を勢いよく切り裂いた。唐傘は、長い時間傘を出していられるようになった。
僕は少しだけ手ごたえを感じていた。掌の奥。痛みの記憶の底。何かが、確実にいる。
一反木綿。布の妖怪。白くて細長くて、空を飛ぶ。父さんが押さえてくれていたもの。六年間。
掌の中で、何かが動いた感覚がした。
七日目。河原に着くと、雷牙がいつもと違う顔をしていた。
「今日は最後だ」
「最後?」
「一週間やった。ここで何も掴めなかったら、やり方を変える」
雷牙が空き缶を持ち、それを宙に投げる。
卯咲が手を振る。氷の刃が飛び、缶を半分に切った。
「よし」
唐傘は目を閉じ手を握った。手の中に、閉じた黒い傘が現れる。
「開いてみろ」
唐傘がそれを開く。ぱっと広がった。雷牙がそこに拳を叩き込む。
どん、という音がした。唐傘が二歩後ろに下がる。でも傘は壊れなかった。
「盾にもなる。閉じれば棍棒。回せば撹乱。お前は守りに向いてる」
「……僕、これ、使えるんすか」
「使える。お前の武器だ」
唐傘の目が潤んだ。
雷牙が、僕の前に立つ。
「コウタ」
「……うん」
「できそうか」
僕は両手を見た。赤い線が何本も重なっている。今日の傷はまだ新しい。血が乾ききっていない。
でもその下に何かがいる。
目を閉じる。布。白い布。包帯みたいに細くて長い。
ゆっくりと引き出すように、意識を集中する。掌の奥。痛みの底。六年間、父さんが抑えていた場所。
両手の中で、何かが動いた。今度ははっきりと。
目を開ける。両手のひらから、白いものがにゅっと出てきた。
布だった。細長い、白い布。左右の掌からゆらりと伸びる。風もないのに、揺れている。
「……やったな」
雷牙の声が、少しだけ嬉しそうだった。
僕は、自分の掌から伸びる白い布を見つめていた。自分の体の一部みたいに、動かせる。指を動かすみたいに、布の先を曲げられる。
「これが、僕の中の……」
「一反木綿。お前の力だ」
布は、左右ともに五十センチくらい。まだ短い。でも、確かに僕のものだった。
掌をそっと握る。布がすっと引っ込んでいく。
でも、掌の奥で、何かがまだうごめいている気がした。
修行最終日の夜。
家に帰ると、玄関に知らない靴があった。革靴。誰のだろう。
リビングの扉を開けると、そこには安城さんがいた。
「あっ。すみませんねコウタ君。勝手に上がり込んでしまって。コンから連絡が来たので、様子を見に来たんです」
ソファーに父さんが座っていた。人間の姿をしている。
父さんだ。
目を覚ましたんだ。
胸の奥が一気に熱くなる。駆け寄りたい気持ちを、足が勝手に止めた。
「父さん」
父さんが顔を上げる。青みがかった銀髪。琥珀色の瞳。いつもの姿。いつもの顔。でも、顔色が悪い。起き上がっているだけでも辛そうで、ソファの背もたれに体を預けている。
「コウタ」
声が掠れていた。
「無事で、何よりです」
それだけ言って、父さんは少し笑った。肩がわずかに落ちる。安城さんがすかさず支える。
「まだ喋らない方が」
「大丈夫です。これくらい」
父さんの目が、ふと僕の手に向いた。
掌。赤い線が何本も交差している。血は乾いている。でも、生々しい。
「その手は」
「修行」
「…修行?」
聞き返す声が、低くなる。
「誰と」
「卯咲と唐傘と、雷牙」
「雷牙…」
父さんの手が、膝の上で固く握られた。指が白くなる。安城さんがその手にそっと触れる。
「コン。後で」
「いえ。今聞きます」
父さんは僕を見る。琥珀色の目に、静かに怒りが滲んでいる。
「コウタ。あなたは何をしているのですか」
責める声ではなかった。悲しむ声だった。それが、一番、痛かった。
「強くなりたかった」
「何のために」
「父さんを助けるため」
父さんは、目を閉じた。長い、長い、ため息のような呼吸。
「僕は、あなたに普通の子供でいてほしかった」
「でも父さんは一人で戦ってる」
「それが僕の役目です」
「僕の役目じゃないの?」
言葉が、口から出ていた。止まらなかった。
「僕は妖怪の仲間を集めてた。だって僕は戦えなかったから。人間だから。それしかできないから」
僕は拳を胸に当てた。手が震えている。
「だけど僕には魏骸のかけらがある。それを使って僕が戦えるなら、僕も戦う。それは当然のことじゃないの?」
父さんは、答えなかった。
ふいに安城さんのスマホが鳴った。画面を見て、表情が変わる。
「魏骸が出た。商店街の裏。一体だ」
父さんが立ち上がろうとした。ふらついて、また座り込む。安城さんが止める。
「コン、無理だ」
「行きます」
「行けないでしょう。まだ立つのもやっとだ」
「でも」
「父さん」
僕は父さんの前に立った。
「僕が行く」
父さんが、首を振った。
「行かせません」
「行く」
その時、リビングの扉が開いた。
唐傘と卯咲が立っていた。
「僕たちも行くっす」
唐傘が言った。卯咲は無言でうなずいた。
父さんの顔が、さらに険しくなる。
「おい、迎えに来た。行くぞ」
雷牙が来た。父さんに気づくなり、にやっと笑う。
「やっと起きたか、狐」
「…雷牙」
父さんが雷牙を睨む。
「行くぞコウタ」
「待ちなさい」
制止する父さんを、雷牙が見る。
「あんたが寝てる間、こいつは毎日修行した。手のひら切って、血出してそれでもやめなかった。あんたのために強くなりたいんだと」
「親なら信じろよ。子供の成長を」
父さんが言葉に詰まった。雷牙は背を向けた。
「俺が見てる。あんたは安心して休んでろ」
手をひらひらさせながら部屋を出ていく。
僕は父さんを見た。琥珀色の目が、揺れている。
「必ず、帰ってきます」
頭を下げた。それから、雷牙の後を追った。
外は、もう夜だった。街灯の光が濡れた路面に滲んでいる。
人気のない商店街の裏手。細い路地。ゴミ箱が並んで、壁には落書き。そこにいた。
一体。巨大な猪のような、黒い塊。背中には無数の針のような毛があり、牙が二本下から突き出ている。瞼は固く縫い閉じられ、目元から血が滲んでいる。見えていないはずなのに、こちらを睨んでいるのがわかる。
「猪か。山を思い出すな」
雷牙が低く言った。
「突進が速い。真っ直ぐ来る。避けるか受け止めるかしかない」
「卯咲、唐傘」
雷牙が名前を呼んだ。
「お前ら三人でやれ。俺は見てる」
「見てるだけっすか」
「そうだ。できなきゃ、ここで終わりだ」
魏骸が前足で地面を掻く。低い唸り。そして、突進。
速い。狙いは僕だ。まっすぐ向かってくる。
卯咲が手を振り下ろした。氷の刃が飛ぶ。肩に当たるが、頑丈な毛皮に弾かれる。止まらない。
唐傘が傘を開いて前に出る。どん、と音がして後ろに押される。足が地面を滑る。
「ぐっ…重いっす!」
雷牙が、腕を組んで笑っていた。
「いいぞ。その調子で耐えろ!」
「なんであの人あんなに楽しそうなんすか!?」
唐傘が叫ぶ。
卯咲は無言で手を振り下ろした。さっきより大きい氷の刃が、魏骸の背に突き刺さる。
「コウタ!」
卯咲の合図で僕は両手を前に出した。
掌から、白い布が出る。左右からしゅるしゅるっと伸びる。
訓練の時は出すだけで精一杯だった。五十センチ。それが限界だった。
でも今は違う。布が自分の腕みたいに動く。指を曲げるみたいに、布の先を操れる。訓練で何度も何度も繰り返した動きが、体に染みついている。
魏骸が跳ぶ。牙が僕の体に届きそうになる。
僕は咄嗟に腕を振る。白い布が魏骸の体に素早く巻きつく。前脚。胴。首。相手を縛る。捕まえる。
暴れる。ものすごい力だった。布が引っ張られる。腕が抜けそうになる。
「押さえてる!」
「今っす!」
唐傘が傘で魏骸の横っ面を打つ。魏骸の頭がわずかに逸れる。卯咲が手を振り下ろす。氷の刃が魏骸の背に突き刺さる。
でも魏骸はまだ動く。抜け出そうと、引きちぎろうともがく。白い布がきしきしと音を立てる。
布を引く僕の手に、少しずつ繊維が千切れていく感覚が伝わってくる。
「うぅ…布が…」
僕は必死に歯を食いしばる。
その時だった。
布の色が変わった。
魏骸の体に巻きついたまま、染み広がるように黒く染まっていく。
その途端、黒い布は魏骸の体を強く締め上げた。動くほどに布がぎりぎりと食い込んでいく。
魏骸の唸りが、変わった。苦しそうな声。暴れる力が、弱まっていく。
「卯咲、お願い!」
言うと同時に、卯咲が両手を振り下ろした。氷の刃が二本同時に飛んで、魏骸の首と胴を貫く。
魏骸が、崩れる。黒い塊は地面に落ちて、そのまま動かなくなった。
布が、すっと白に戻った。そのまましゅるしゅると掌の中に引っ込んでいく。
「や…やったっす!」
唐傘が、息を切らしながら叫んだ。卯咲は膝に手をついている。
雷牙が、ゆっくりと歩いてきた。
「見てたぞ」
「うん」
「布の色が一瞬、変わったな」
僕は、自分の掌を見た。白い布はもう引っ込んでいる。でも、さっきは間違いなく黒かった。
「あれは、何」
「知らねぇ。けど、お前の中のものが反応したんだろうな」
雷牙は、そう言って、僕の頭に手を置いた。
「ま、初陣にしては上出来だ。よくやった」
その手は、思ったより、温かかった。
家に帰ると、安城さんが玄関で待っていた。
「お疲れさまでした」
「ただいま」
「雷牙が映像を送ってくれたんですよ。今、コンが見ています」
リビングに入る。唐傘と卯咲も続いて入ってきた。父さんは、ソファに座っていた。パソコンの画面を見ている。その表情は真剣だった。
画面には、さっきの戦いが映っていた。雷牙が撮ってくれてたんだろう。
見終わって、父さんは僕に言った。
「コウタ」
「うん」
「その手を、見せてください」
僕は、掌を差し出した。赤い線が何本も並んでいる。
父さんは僕の手を取った。冷たい手だった。そのまましばらく、何か考えていた。
「映像を見て、目に見えて攻撃力が上がった瞬間がありました」
「うん」
「布の色が変わったようにも見えました」
「うん」
「力を使い続ければどうなるかわかりません。……それでも戦うのですか」
父さんの瞳が僕を見る。光を宿した、吸い込まれるような琥珀色だった。
「……それでも戦う」
僕ははっきりと答えた。
父さんは何も言わずに、そっと手を離す。そして小さく息を吐いた。
「話し合いは無駄みたいですね」
雷牙の方をちらりと見た。雷牙は「ん?」と首を傾げた。
以前、雷牙が父さんに言ったセリフだった。それを、僕にそのまま使ったのだ。
「驚きました。強くなりましたね。コウタ」
その声は静かだった。でもはっきりと僕を認めていた。
唐傘がニンマリとした顔をしている。卯咲は無表情のまま、目だけがわずかに細くなった。二人に「やったね」と褒められた気がした。
僕は父さんを見た。ほんの少しだけ笑っていた。声を出さないいつもの静かな笑い方だった。




