修行
いつも通りの朝だった。
白い、見慣れた天井。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。もう昼に近いのかもしれない。
体を起こす。枕元の時計は十時を回っていた。
廊下に出る。父さんの部屋の前を通る。ドアの隙間から中を覗くと、父さんはまだ同じ姿勢で眠っていた。呼吸に合わせてシーツがわずかに動く。それだけが、生きている証みたいだった。
昨日のことを思い出す。魏骸。雷牙の言葉。起きない父さん。
ああ、やっぱり現実なんだ。胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
台所に行くと、誰かがいた。
卯咲が、流しの前に立っていた。手に包丁を持っている。まな板の上には人参。切りかけのまま、止まっている。
「卯咲?」
振り返る。いつもの無表情。良かった。だいぶ元気そうだ。
「おはようございます」
「おはよう。……何してるの?」
「カレーを」
「カレー?」
「昨日、作れなかったので」
そう言って卯咲はまた人参を切り始めた。包丁の音が一定のリズムで響く。
トントントン。
昨日行った商店街。みんなで買った玉ねぎと人参、安くなっていた牛肉。
あの時は、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
「唐傘も呼ぼうか」
「そうですね」
玄関に行くと、傘立に唐傘がいた。声をかけると、ポン、と人間の姿になった。
「カレーっすか。僕も食べます」
その声は元気がなかった。
三人で食卓を囲んだ。
カレーは普通の味がした。
食べながら、卯咲がぽつりと言った。
「あの時、何もできませんでした」
顔を上げる。卯咲は下を向いたまま、スプーンを動かしていた。
「氷壁を何枚も出して。それで妖力切れを起こして。自分の体に何が起きているのかすら、わからなくて」
「卯咲……」
「山では、戦ったことがなかったので。妖力の残量なんて、考えたこともなくて」
スプーンが皿の縁に当たって小さく鳴った。
「コウタを守れませんでした」
唐傘が、黙ってカレーを口に運んでいる。いつものおしゃべりは、鳴りを潛めていた。
僕は、何と言えばいいのかわからなかった。卯咲は悪くない。僕が弱いから、守られるしかなかったんだ。
「次は、大丈夫だよ」
それだけ言うのが、精一杯だった。
卯咲は小さくうなずいた。
でも、本当は大丈夫じゃなかった。
僕は、二人に隠していることがある。それを隠したまま「大丈夫」なんて、言えた義理じゃない。
「二人に、話しておきたいことがあるんだ」
カレーを食べる手を止めて、僕は言った。唐傘が首を傾げる。卯咲は無言で僕を見た。
「僕の中に、魏骸のかけらがある」
唐傘の手からスプーンが落ちた。カチン、と音を立てて床を転がる。
「……え?」
「父さんから聞いた。でも、なぜあるのか、いつからあるのかは僕にもわからない」
卯咲は動かなかった。ただ、目だけが少しだけ大きくなった気がした。
「今までは父さんが術で抑えてくれてた。だから僕は、魏骸が見えなかった。普通に暮らせてた。でも父さんが倒れて、今は不安定な状態になってる。……それは、雷牙が言ってた」
唐傘が床に落ちたスプーンを拾う。手が震えているのが見えた。
「僕の中に魏骸がいる。これはもう、二人に隠しておけないことだと思った」
唐傘の顔が、強張っている。卯咲は目を閉じて何かを考えていた。
言ってしまってから少しだけ後悔した。
二人は、しばらく何も言わなかった。
やがて卯咲が口を開いた。
「……コウタは、コウタのままです」
僕は、首を振った。
「でも、魏骸になるかもしれない」
「それは、私たちも同じです」
卯咲は、僕から目を逸らさなかった。青い瞳の中で、静かに雪が降り続いている。
「私たちだって、魏骸になるかもしれません」
沈黙が落ちた。台所の換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「僕もっすよ」
唐傘がスプーンを置いた。
小さな声だった。いつもの元気な声じゃない。
「僕だって妖怪っす。いつどうなるかわからない。魏骸になるかもしれないのはコウタだけじゃないっす」
卯咲が唐傘を見た。唐傘は、少しだけ笑った。それから僕の方を向いた。
「でも、先のことなんてわかんないっすよ。明日、僕がなるかもしれないし、コウタがなるかもしれない。どっちもならないかもしれない」
声は笑っていなかった。いつも軽口ばかり言っている唐傘が、初めて見せる顔だった。
「……でも、もしコウタが魏骸になりそうになったら、僕が必ず止めるっす。卯咲もいるし雷牙もいるし父さんもいる。僕一人じゃ心もとないけど四人がかりならなんとかなるっす」
唐傘は、まっすぐに僕を見ていた。
「だから、大丈夫。今は気にしなくていいんすよ」
僕は少しだけ息を吐いた。肩から力が抜けていくのがわかった。
「……そうか。きっと、大丈夫だよね」
言ってから、少しだけ笑えた。僕は、一人じゃない。それだけで大丈夫な気がした。
僕は、二人を見た。
ずっと、モヤモヤしていた。父さんからかけらのことを聞いた時から、二人に言うべきかどうかずっと考えていた。言えば怖がられるかもしれない。距離を置かれるかもしれない。そう思って、言えなかった。
でも、言ってよかった。
卯咲が、静かに口を開いた。
「話してくれて、よかったです」
僕は、うなずいた。
その時、スマホが震えた。
画面を見る。知らない番号。でも出てみると聞き覚えのある低い声だった。
『今から来れるか』
雷牙だった。
『地図を送る。唐傘と卯咲も連れて来い』
「うん」
電話は、それだけですぐ切れた。
雷牙が指定した場所は、歩いて十五分くらいの人気のない河原だった。
川沿いの土手。草は枯れて、水は冷たい色をしている。冬の河原は、風が強くて耳が痛いくらいだった。
行くと、もう雷牙がいた。土手の上に立って、こちらを見下ろしている。
「遅ぇぞ」
「ごめん」
「まあいい。それより、今日からお前らを鍛える」
雷牙は、僕たち三人を見回した。
「あの狐が寝てる間、俺がこの町の魏骸を片付けてる。別に俺一人でもできる。けどな、お前らにも戦力になってもらう。手が足りねぇのは事実だからな」
そう言って、卯咲を見た。
「まずは雪女からだ」
卯咲が、びくりと肩を震わせた。
「お前は力の使い方が下手すぎる。威力だけ高くて、すぐ切れる。山で暮らしてただけあって、戦闘はド素人だ。無駄が多すぎる」
何も言わなかった。でも拳をぎゅっと握っているのが見えた。
「まずはあれだ」
雷牙が河原に空き缶をいくつか並べた。五メートルくらい先に。
「あれに氷の刃を当てろ」
「刃…ですか」
卯咲は缶を見る。
「壁は守り。刃は攻め。壁は質量がでかすぎる。刃なら、ずっと少ない力で済む」
卯咲は、掌を前に出した。指先が白く光る。空気が、きぃんと鳴る。
でも、何も出なかった。
「…っ」
卯咲の顔が強張った。掌を握り直す。もう一度前にかざす。指先が光る。でも氷は出なかった。
「壁は出せるんだろ」
「……はい」
「大きいものはイメージしやすい。だが刃のように小さいものは、輪郭を掴むのが難しい。お前は今まで、雑に大きいものだけ作ってきたんだ」
卯咲は、唇を噛んだ。
「もう一回だ」
卯咲は何度も試した。十回。二十回。指先が光るたびに僕は息を止めて見ていた。でも空気が凍るだけで刃は出ない。
目に見えて集中力が切れていくようだった。それだけ大変なのだろう。
「次、ビニ傘」
「素材で呼ばないでほしいっす!」
唐傘が、声を張り上げた。雷牙は面倒くさそうに片眉を上げた。
「じゃあ何て呼べばいいんだ」
「唐傘っす! ちゃんと名前があるっす!」
「……唐傘な」
「そうっす!」
「お前は付喪神だろ。物から妖怪になった。なら、元の姿から形を変えられるはずだ」
唐傘を見る。
「お前の本体は古い傘だろ。そこから変化できるレパートリーはいくつある?」
「人間と、唐傘おばけの二種類だけっす……」
雷牙はふむ、と何か考えていた。
「じゃあその二種類を融合して、『傘を持っている人間の姿』をイメージしろ」
唐傘は、きょとんとした顔をした。
「人間の姿になっても、武器がなければ戦えない。体当たり一本で戦うつもりか?お前の姿は武器と使い手、両方になるんだ」
雷牙は、唐傘の頭のてっぺんから爪先までをじっと見た。それから、当然のことのように続けた。
「傘を武器に指定したのは手っ取り早いからだ。お前の頭にはもう傘のイメージがあるからな」
「やってみるっす」
唐傘は、目を閉じた。手を握る。力を込める。しばらく何も起きなかった。
「……出ないっすね」
「もっとイメージしろ。お前の本体は何だ」
「傘っす」
「お前は、どんな傘になりたい」
「強い傘になりたい。どんな攻撃でも折れないような。どんな敵でも倒せるような」
「そうだ。それをイメージしろ。手の中に呼び出せ」
唐傘は、何度も目を閉じた。手を握っては開き、握っては開き。でも何も出なかった。
「ダメっす。全然できないっす」
「初めから出来たら苦労しねぇよ。何事も継続だ」
唐傘は自分の手をじっと見つめた。それからまた目を閉じた。
二人が修行を開始してから、三十分が経った。唐傘はへたり込んだ。卯咲は膝に手をついて肩で息をしている。
「はい、一旦休憩。二十分後にまた始めるぞ」
雷牙がそう言った。卯咲と唐傘は悔しそうに下を向いた。
「それじゃ次は」
言いかけた雷牙がふいに顔を上げた。
「……魏骸が出たな」
「え?」
「倒してくるから、少し待ってろ」
そう言って、雷牙は走り出した。あっという間に土手を駆け上がって、見えなくなった。
「パワフルっすねぇ」
唐傘が、ぽつりと言った。
「山育ちだからかな」
僕がそう言うと、唐傘が笑った。でもその笑い方は、いつもの元気がなかった。
「頑張らないとっすね」
「うん」
その声は、自分に言い聞かせているように聞こえた。
十分ほどで雷牙が戻ってきた。服が血だらけだった。
息を呑む。返り血だろうか。赤い染みが袖からも裾からも広がっている。
僕が見ていると、雷牙は面倒くさそうに言った。
「すぐに消える」
確かに、染みがじわじわと薄くなっていく。
雷牙は僕の前に立った。
「次、お前だ」
心臓が、跳ねた。
「コウタ。お前の中に魏骸がいるってのは、悪い話ばかりじゃない」
「……どういうこと?」
「考え方によっちゃあ、その力を使ってお前自身が戦うことだってできる。俺たちのようにな」
僕も戦える。その言葉が、胸に落ちた。
「安城の話だと魏骸ってのは元になってる妖怪がいるんだよな」
「うん」
「なら、当然お前のかけらにも元の妖怪がいるはずだ」
僕は、自分の胸に手を当てた。ここに、いる。何かの妖怪が。
「お前の中にあるもの、確認させろ」
雷牙は、僕の胸に近づいた。鼻をすんと鳴らす。
「ふむ……」
少し考える。
「なに?」
「一反木綿だな」
「一反木綿」
僕は、家で読んだ妖怪図鑑のことを思い出した。一反木綿。布の妖怪。細長い白い布の姿をして、空を飛ぶ。人を包んだり絡め取ったりする。確かそんなようなことが書いてあった。
「じゃあ始めるか」
雷牙は僕の右手を取った。爪を立てて、掌に当てる。
でも、そこで手が止まった。
「……どうしたの?」
「いや」
雷牙は少し考えて、それから小さく息を吐いた。
「後であの狐に怒られるだろうな」
心配しているんだ。傷つけることを。
「大丈夫。僕の意思だって言うよ」
雷牙は、僕の顔を見た。それから、ふっと口元を緩めた。
「そうか」
爪が、すっと掌を走った。
「…っ」
鋭い痛み。血が線になって滲む。赤い。掌の上で玉になって盛り上がる。
「その傷口から、布が出てくるところをイメージしろ」
「布?」
「白い布だ。包帯みたいに細く長い」
痛みが、じんじんと広がる。掌の上の血が、夕方の光を反射している。
布。布。白い布。包帯みたいに細くて長い。
目を閉じる。掌の痛みだけがはっきりとある。その痛みの奥に何かがいる気がした。
でも。
何も出ない。
「……出ない」
「もう一回だ」
目を閉じる。布。白い布。掌の奥。いるはずだ。いるのに。
やっぱり何も出ない。
「焦るな。お前は今まで、こいつを封じられていた。六年間だ。いきなり出せと言われて出るもんじゃない」
雷牙の声は、思ったより静かだった。
「……うん」
すっかり、日が暮れた。
「今日はもういい。明日もやるぞ」
その日はそれで終わった。
帰り道、僕は自分の掌を見ていた。かさぶたができかけの傷。その下に、何かがいる。でもまだ出てこない。
家に帰って父さんの部屋を覗いた。父さんはまだ眠っていた。
「父さん」
声をかける。返事はない。
「僕、まだ何もできないや」
布団の横に座って父さんの顔を見た。眠っているように穏やかな顔。本当に、神様みたいだ。
「でも、明日も行くよ。強くなりたいから」
そう言って、僕は部屋を出た。




