夜の続き
目が覚めた時、天井が見えた。
白い。いつもの天井。僕の部屋だ。
ベッドの感触。掛け布団の重さ。枕の匂い。全部いつも通り。
いつも通りなのに体が変だった。腹のあたりがじんじんする。痛みはない。
でも、体が重い。立つのが少しだけ億劫だった。血を、たくさん失ったような。
わからないけど、なんとなくそういう感覚があった。
体を起こす。手の甲に、四角い絆創膏が貼ってある。剥がすと、小さな赤い点があった。注射の跡、みたいだった。
でも、ここは病院じゃない。僕の部屋だ。
窓の外は暗くて、カーテンの隙間からは街灯の光が細く差し込んでいる。
枕元にある時計を見た。時刻は零時を過ぎていた。
え……?
最後に覚えているのは夕方だ。商店街を歩いていた。カレーの材料を買って、帰る途中だった。
何があった?
頭の中を探る。でも靄がかかったみたいに何も見えない。ただ、一つだけわかることがある。すごく、嫌なことがあった。それだけは、体が覚えている。
嫌なこと。
嫌なことって何。
手が震え始めた。息が浅くなる。やばい。わかんない。わかんないのに怖い。
理由のわからない恐怖がじわじわと胸の奥から湧いてくる。
そうだ、父さん。
布団を跳ね除けて立ち上がった。足が少しふらついた。でも、歩ける。
廊下に出る。電気はついていない。でもどこに何があるかはわかる。手探りで父さんの部屋に向かう。
ノックをした。
「父さん」
返事がない。
もう一度ノックした。
「父さん」
返事がない。
三回目。四回目。だんだん強く叩く。
「父さん。ねえ、父さん」
返事がない。
「寝てるのかな」
そう呟いた。自分でも変なことを言っているのはわかっていた。こんな時間だ。仕事に行っているのかもしれないし、寝ていてもおかしくない。おかしくないはずなのに、胸の奥がざわざわする。嫌な予感が、どんどん大きくなる。
「父さん。起きてよ」
五回目。六回目。ノックの音が夜の廊下にやけに響く。
「寝てるんだよ。きっと、疲れてるんだ」
誰に言っているのかわからない。自分に言い聞かせているのか。でも、声が震えている。
ふいに。
「コウタ」
背後から声がした。
振り返る。廊下の薄暗がりに、卯咲が立っていた。いつもの無表情。でも、どこか違う。顔色が悪い。唇が、白い。髪も乱れている。まっすぐ立っているのがやっとのように見えた。
「卯咲、あの、父さんが返事しないんだ。ノックしてるのにさ。何回も。寝てるのかな」
卯咲はじっと僕を見た。それからゆっくりと口を開いた。
「コウタ」
「うん」
「妖怪は、眠りません」
その一言で、頭の中が、真っ白になった。
卯咲が、静かにドアを開ける。
その隙間から、部屋の中が見えた。ベッドの上に、父さんが横たわっている。
「父さん……?」
部屋に入る。卯咲も続く。
父さんは眠っているように見えた。目を閉じて静かに横たわっている。白い装束。頭の上には狐の耳。シーツが一枚かけられているだけだった。呼吸に合わせて胸が小さく上下している。
いつもなら、絶対にこんな姿は見せない人だ。人間の姿でいるのが、父さんの常だった。化ける力もないんだ。
「父さん」
肩に触れる。冷たい。いつもより、ずっと冷たい。
「父さん、起きてよ」
揺する。揺する。でも、起きない。
「父さん。ねえ。起きて。起きてよ」
涙で、声がぐしゃぐしゃになる。
「卯咲、これ、どういうこと。ねえ卯咲」
卯咲はしばらく黙っていた。それから静かに言った。
「あの時、コウタは魏骸に致命傷を負わされました」
「……致命傷」
自分の声が、遠くで聞こえた。
「お父様が、その傷を治しました。莫大な力を使って」
治した。父さんが。僕を。
——そういえば、と思った。
六年前のあの日。魏骸に襲われて、足を斬られた。痛みで意識が飛んで、次に気づいた時には病院のベッドの上だった。足の傷は、消えていた。
夢だったのかな、と思っていた。
違ったんだ。
父さんが治したんだ。あの時も。
顔を上げると、卯咲がこちらを見ていた。
「あんな力を使ったら。お父様は」
言葉が途切れる。
「病院……」
呟いた。卯咲がゆっくりと首を振った。
「妖怪に人間の薬は効きません。毒も薬も同じです」
知らなかった。そんなこと。
じゃあ、どうすればいいんだ。
沈黙が、部屋を満たした。
父さんの顔を見た。眠っているように穏やかな顔。いつもと変わらない。いつもの少し困ったような優しい顔。
でも、妖怪は眠らない。
じゃあこれは何なのか。
卯咲も、何も言わなかった。わからないんだ。答えられないんだ。僕と同じで。
その時、ドアの影から唐傘が顔を出した。
「……コウタ。あの」
唐傘の声はいつもの元気がなかった。ドアの枠に手をかけて、ようやく立っているように見えた。顔色も悪い。あの男に殴られてから、まだ本調子じゃないんだ。
「安城さんから連絡が」
「連絡?」
「うん。コウタが起きたら、来てほしいって」
父さんをもう一度見る。それから、卯咲を見る。小さくうなずいた。
「私と唐傘は、ここにいます」
「でも卯咲、具合が」
「大丈夫です」
卯咲はそう言った。だけど見るからに悪そうだった。顔が蝋みたいに白い。
心配だったけど、僕はうなずいた。
「行ってくる」
部屋を出る。廊下を歩く。玄関で靴を履く。
外に出ると、夜の空気は冷たかった。冬だ。息が白くなる。
正面玄関からビルの中に入る。
受付で待っていると安城さんが迎えに出てきてくれた。
「コウタ君」
黒いスーツ。いつもと変わらない優しい声。でも、今日はその顔に少し疲れが見えた。
「辛い時に、来てくれてありがとう」
その言葉で、なんでだか、少しだけ涙が引っ込んだ。
「あの、手に注射の跡みたいなのがあったんですけど」
安城さんは、少しだけ目を細めた。
「ああ。君が運ばれてきた時、傷は完全に塞がっていたんだけど、血が足りなかった。化生対策室で輸血をしたんだ。病院じゃないよ。だから、家で目が覚めたんだ」
「そう、だったんですか」
僕は、静かにうなずいた。
エレベーターに乗り込む。二階。三階……。
五階でドアが開く。前にも来た。化生対策室のオフィスだ。
安城さんが奥の部屋に案内する。会議室みたいな部屋だった。
長いテーブル。パイプ椅子。天井の蛍光灯。その部屋の一番奥の椅子に、誰かが座っていた。
黒髪。鋭い目。人間の姿をしている。でも、わかる。あの時の男だ。間違いない。
見た瞬間、背筋が凍った。
思わず、一歩下がる。
「大丈夫。もう彼に敵意はないよ。君を襲った魏骸は、彼が倒してくれたんだ」
「え……」
「成り行きでね。結果的に君は助かった」
「魏骸を、この人が」
安城さんは僕の前に立った。
「魏骸のこと、化生対策室のことは彼に教えた。君たちのことは、まだ話していないけれど」
僕の顔をのぞき込む。
「私から話そうか?」
僕は、首を振った。
「自分で、話します」
安城さんは、少しだけ目を細めた。それから、うなずいた。
「わかった」
部屋を出ていく。ドアのところで振り返った。
「何もするなよ。コンが悲しむ」
男が、けだるそうに言った。
「やらねぇよ。こっちはすっかり興が削がれちまってんだ」
安城さんがふっと笑ってから、部屋を出る。ドアが閉まる。
二人きりになった。
椅子に座ることもできなかった。足が震えている。でも逃げなかった。
男は、僕をじっと見ていた。さっきまでとは違う目だった。獲物を見る目じゃない。もっと冷たい。値踏みするような目。
「あの時、僕のこと化け物って」
そう言うと、男はゆっくりと口を開いた。
「言ったな」
「……うん」
「お前の中に何かあるのは、本当だ」
男は、そう言った。
「あの、名前」
そう言うと男は少しだけ目を細めた。
「雷牙」
短く答えた。
「……雷牙」
その名前を繰り返した。
「お前は」
「コウタ」
「そうか」
それだけだった。でも、なんだか、さっきまでより空気が軽くなった気がした。
雷牙が口を開く。
「話せ。お前が知ってること全部」
息を吸った。それから話し始めた。
六年前のこと。魏骸に襲われて父さんに助けられたこと。
家族を失った僕を父さんが引き取って育ててくれていること。
一人で戦う父さんを助けたくて仲間を探していたこと。
唐傘と卯咲はその時に出会った仲間だということ。
全部、話した。途中で声が詰まった。何度も止まった。でも、最後まで話した。
雷牙は、黙って聞いていた。相槌も打たなかった。ただ、じっと僕を見ていた。
話し終えると、雷牙が言った。
「お前は、自分の中のものについて何か知ってるか?」
首を振った。
「知らない。でも父さんが押さえてくれてるって言ってた。魏骸が見えなくなったのもそのせいだって」
雷牙は、しばらく黙った。それから小さくつぶやいた。
「なるほどなぁ」
椅子の背にもたれて天井を見上げた。はぁと息を吐く。
しばらくして体を起こして座り直す。
「俺からも、話してやる」
そう言って、話し始めた。
「お前が腹を切られた時、あの狐は戦闘をやめて真っ先にお前のところに来た。魏骸もいる。俺もいる。そんな状況なのに、だ。奴はお前しか見ていなかった」
僕は息を呑んだ。
「俺が魏骸を倒した後も、ずっとお前を治してた。無防備な姿で。莫大な力を使って。……妖怪が人間の体を治すってのは、並大抵のことじゃねぇ。ましてや、あれだけ大きな傷だ。あの狐はとうに限界を超えていた。見ていてわかった。顔色が、どんどん悪くなっていく。指先が、震えていた。それでも手を止めなかった。必死だった」
雷牙は、少しだけ目を細めた。
「その時に、思った。こいつらは本当に俺の敵なのか、ってな」
何も言えなかった。
「お前らが運ばれてから、あの安城ってやつが来て俺を呼んだ。来れば、俺が追っている化け物の情報がわかるかもしれないと思った。それで、ここにいる」
椅子の背にもたれた。
「それでだ。お前の中のものの話だが」
「うん」
「あれは、俺のせいでもある」
僕は、雷牙を見た。
「お前の中のかけらは俺に会ったことで活性化した。俺の気配が呼び水になったんだ。ある意味お前の魏骸化が進んでしまった」
息を呑んだ。
「魏骸側に近づいたことにより、お前は魏骸が見えるようになった。そして魏骸は共食いをする。だからお前を見つけた時真っ先に襲った。喰うために」
喰うために。
その言葉が胸に刺さった。
「あの狐が倒れたことで、お前にかかっていた術も不安定になった。だからこれからは、お前は魏骸に喰われる側になる。いつ、どこで襲われてもおかしくない」
……父さん。
眠っている父さんの顔が浮かぶ。白い装束。狐の耳。シーツ一枚。起きない父さん。
雷牙を見た。
「父さんは、どうなるの? 助かるの?」
雷牙は少し考えた。それから言った。
「あいつは、強い妖怪だからな。大丈夫だと思う」
「思う?」
「確証はない。でも、あの程度でくたばるような奴じゃない。戦った俺が、そう言ってる」
少しだけ、ほっとした。ほっとしたけどまだ、胸の奥が重い。
「あの時、なぜ魏骸が」
そう言うと、雷牙は少しだけ眉を動かした。
「安城から聞いた。あの日、奴はあの辺りで魏骸の気配を追っていた。そこにお前たちの連絡が入った。奴は、追跡よりお前たちを優先した。結果、追っていた魏骸が出てきた。最悪のタイミングでな」
忌々しげに吐き捨てた。
それから、椅子の背にもたれ直す。
「化生対策室の実働って、現状あいつ一人しかいないんだってな。他の連中は見習いで、魏骸を倒せる戦力にはならねぇ。つまり、あいつが倒れたら誰も魏骸を倒せないってことだ」
その言葉がじんじんと響く。父さんはずっと、一人で戦ってきた。誰にも知られないように。僕にも、本当のことは話さないように。ずっと。
「…助けてよ」
気づいたら、声が出ていた。
雷牙の目が、細くなる。
「父さんを助けてよ。父さんが今までやってきたことを、無駄にさせないでよ」
怖かった。それでも目は逸らさなかった。
雷牙は、しばらく僕を見ていた。それからふっと息を吐いた。
「ま、俺の責任でもあるか」
そう言って、立ち上がった。
「それに、この町には魏骸が多すぎる。俺が山を下りてきた意味も、ここにあるかもしれねぇしな」
口の端が、片方だけ上がる。
その顔を見て思った。この人は、決めたんだ。
「あの狐が目覚めるまで俺が代理をやってやる。その代わりお前も強くなれ。喰われる側のままじゃ話にならねぇからな」
雷牙は、ドアの方へ歩き出した。
僕はそのまま、立っていた。
ふと、ポンと頭に何かが乗った。
振り返る。
雷牙がいた。片手を僕の頭に置いている。
「……悪かったな。化け物とか言って」
声は、少しだけ小さかった。
手が離れる。雷牙は、そのまま部屋を出ていった。
僕は一人、取り残された。
強く。
自分の手を見た。まだ、震えている。腹のあたりがじんじんする。でも。
強く、ならなくちゃ。
そう思った。




