日常のおわりに
「ぶっ殺してやる。覚悟しろよ、化け物」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男の体が消えた。
いや、消えたんじゃない。速すぎて目が追いつかなかっただけだ。
「コウタ!」
唐傘の声がした。と同時に、その体が僕と男の間に飛び込んできた。
鈍い音がした。男の拳が唐傘を打つ。唐傘の体が地面に叩きつけられ、そのまま傘の姿に戻って転がった。
「唐傘!」
動かない。そのまま、ぴくりともしない。
男は、地面の傘を見た。まるで邪魔なものが消えたとでも言うように。
その時、空気が凍る音がした。
きぃん。
「コウタ、下がって」
卯咲だった。
掌を前にかざして集中する。指先が白く光る。今までとは違う。地面がみしりと鳴った。男の四方から、氷の壁がせり上がる。まるで籠のように、男を中に閉じ込めていく。さっきまでとは比べものにならない分厚さだった。
「…氷か。さっきから思ってたが」
中から声がした。閉じ込められているのに、その声はよく通った。それどころか、壁の向こうで笑っているみたいだった。
「無駄なんだよ」
一拍置いて氷の壁が四方に勢いよく砕けた。粉々になった破片が夕方の光を反射して、きらきらと舞う。きれいだった。きれいなのに、怖かった。
卯咲が、もう一度掌を突き出す。でも何も出なかった。
「……っ」
指先が震えていた。掌を向けたまま。でも何も起きない。氷が出ない。出そうとしても、何も。
「卯咲?」
卯咲は、膝をついた。
がくりと、その場に崩れるように。息が荒い。顔色が、悪い。具合が悪そうだった。
「最悪な気分だろ?」
男が、卯咲を見下ろす。
「頭が割れるみたいに痛いだろ。耳の奥でずっと誰かが囁いてるみたいにうるさい。目の前がぐるぐる回る。体の芯から力が抜けて、意識を保つだけで精一杯。呼吸も、まともにできない。……まるで、この世の終わりが全部来たみたいだよな」
静かに言った。
「妖力切れだよ。短時間で威力の高い氷壁を生み出し続けたら、そうなる」
卯咲は、男を見上げた。何も言えなかった。言えなかったんじゃない。わからなかったんだ。何が起きているのか。自分の体に、何が起きているのか。
「俺は戦うとき、常に妖力の残量を計算してる。勝負もつかないうちに力切れするとはな」
男の目は冷たかった。でも、どこか興味深そうでもあった。
「……さてはお前、戦ったことがないな?」
そう言って、口元をわずかに緩めた。
卯咲は、答えなかった。答えられなかった。
膝をついたまま自分の手を見ている。瞳が揺れていた。
卯咲の顔に、初めて焦りが浮かんでいた。いつも無表情な彼女が、今は明らかにうろたえていた。息が浅い。肩が、小さく上下している。苦しそうに、口元を押さえている。
僕は、その姿を見ていることしかできなかった。
唐傘は、傘のまま転がっている。卯咲は、膝をついて動けない。僕は何もできない。守られるだけだった。卯咲に守られて、唐傘に守られて。僕はただ、そこに立っているだけ。
男が、僕のほうへ歩いてくる。
「いつまで人間のふりをしているつもりだ?」
眉が、苛立たしげに歪んだ。
「腹かっ捌いて、中身を引きずり出してやる」
僕は声も出せなかった。
足が、動かなかった。
その時だった。
「コウタ!」
声がした。
路地の入り口に、父さんが立っていた。紺色のダッフルコート。青みがかった銀髪。肩で息をしている。走ってきたんだ。
僕を見た。それから、男を見た。
その瞬間、空気が変わった。
ふわりと風が吹いた。いや風じゃない。もっと静かなもの。世界が、静かになった。
男が足を止めた。
父さんは一度だけ大きく息を吐いた。それから、低い声で言った。
「……離れてください。野蛮がうつりますよ」
父さんの声は静かだった。でも、その静けさが怖かった。怒りを全部、内側に押し込んでいるみたいな静けさだった。
男は、父さんを見た。
「あんたもこの子の仲間か」
「はい」
「人間を守る妖怪がいるとは」
男の声に侮蔑が混じった。
「俺が住む山で化け物が出た。原因を追っていたら、この町にたどり着いた」
「そうしたらこの子供を見つけた。妖怪に守られる人間。……おかしいと思わないか? 」
父さんは、少し考えるように間を置いた。
「ええ、思います。ですが、あなたには関係のないことです」
笑った。だけど目は笑っていなかった。
男の視線が、僕を射抜いた。
「そいつは人間じゃない」
父さんの指が、わずかに動いた。
「あんたが助けようとしているその子は、化け物だ。俺にはわかる。俺の鼻は、化け物の匂いを嗅ぎ分ける。そいつの中に、とんでもないもんが眠ってる」
「違います」
はっきりと言った。
「コウタは、人間です」
「騙されてるな、あんた」
男は、嘲笑った。
「化け物に騙されてる。化け物が人間のふりをして、あんたを利用してるんだよ。妖怪は純粋だからな」
「違います。あなたは何も知らない」
「知ってるさ。化け物は、化け物だ」
「俺は、そいつを殺す。それが俺の正義だ」
「……正義、ですか」
父さんが、呟いた。
「あなたの正義は、一方的ですね」
あきれたような声だった。
「……話し合いは無駄みたいだな」
男が、静かに言った。
「ええ。残念です」
父さんが、笑った。
コートのポケットから小さな機械を取り出した。それを自分の耳に付ける。
「魏骸との戦闘ではありませんが、規則なので」
そう言って、また僕のほうをちらりと見た。いつもの困ったような笑みだった。
こんな時でも。こんな時なのに。
それから、男のほうへ向き直った。
「周りには誰もいません。あなたの正義とやら、全力で見せてください」
僕は知っている。化生対策室のひとたちが、裏で動いてくれている。この資材置き場に、誰も入れないように。誰にも気づかれないように。父さんが戦う時は、いつもそうだ。
りん、と鈴の音がした。どこからだろう。父さんの周りに、白い光の粒が浮かび始めた。蛍みたいに。雪みたいに。ゆっくりと、無数に。
空気が、ふわりと揺れた。父さんの銀髪が、風もないのに持ち上がる。コートの裾が、はためく。
「父さん……?」
父さんは、目を閉じていた。穏やかな顔。祈るみたいに。 体が、光に包み込まれていく。
ダッフルコートが、白い装束に形を変える。神主の衣装に似た、清らかな白。銀髪が光を受けてきらめき、頭のてっぺんから狐の耳が現れる。それに、さっきの小さな機械がついている。ボディカメラだ。化生対策室のひとたちと、情報を共有するための。
背中には、大きな白い尻尾が一本。ゆっくりと弧を描いて揺れている。腰には、青い鞘の刀。手がその柄にそっと添えられる。
光が、ゆっくりと収まっていく。
そこに立っていたのは、狐だった。いや人だった。どちらとも言えなかった。
人のかたちをした、神様みたいな何か。
白い装束。白い耳。白い尻尾。
琥珀色の瞳だけが、父さんのままだった。
僕は、息を呑んだ。
この姿を、僕は知っている。六歳の時。魏骸に襲われていた僕を、父さんが助けてくれた。あれから六年。ずっと見ていなかった。忘れていたわけじゃない。こんなに、きれいだったなんて。こんなに、かっこよかったなんて。
これが、父さんの本当の姿なんだ。
男が、嗤った。
「なら、俺も本気で行く」
父さんは少しだけ笑った。首をかしげる。耳の先で、紙垂がさらりと揺れた。
「どうぞ?」
その瞬間、男の体が弾けた。
黄色い光。ビカビカのまぶしすぎる光。父さんの白い光が静かな水面なら、これは雷そのものだった。点滅する。明滅する。夜の街を切り裂くネオンのように。もう、目を開けていられない。
光が破裂した。
ドカーンという音が、腹の底に響く。
光の中で、男の姿が変わる。
牙が伸びる。爪が伸びる。頭の上に虎の耳。背中から虎の尻尾。体の周りに、雷が走る。着ていた服が中国風のゆったりとした装束に変わる。
虎だった。
それも普通の虎じゃない。雷を纏った虎だ。
男が動いた。
速い。さっきまでとは比べ物にならない。虎の姿になってから、男の動きは桁違いだった。爪が空を裂く。雷が走る。地面が焦げる。
でも、父さんは動かなかった。
ギリギリまで引きつけて刀を立てる。爪と刀がぶつかる。火花が散る。体が、わずかに後ろに滑る。踏ん張った。受け流した。
「……重いな」
呟く。でも、表情は変わらない。冷静だった。
男が連続で爪を振るう。上下、左右。斬撃が父さんを囲むように走る。それを刀で受け、いなしかわす。一歩も引かない。でも、攻めもしない。
「守ってばかりだな」
男が笑う。
「その程度か、狐」
答えなかった。
男が大きく踏み込む。渾身の一撃。爪が父さんの胸を狙う。速い。避けられない。
その瞬間、父さんの姿が消えた。
いや、消えたんじゃない。狐火だ。青白い炎が、男の視界を遮る。
「何っ」
男が目を細める。その一瞬。
父さんは、男の死角にいた。
真横から、刀が閃く。男が反応する。でも遅い。刀が男の脇腹を掠める。赤い血が飛ぶ。
「っ」
男が後ろに跳ぶ。でも父さんは追う。
父さんは、下から斬り上げる。
男が爪で受ける。体勢が崩れる。父さんはすかさず、蹴りで男の体を打つ。
男がよろける。
「…多才だな」
男が笑った。でもその笑みは苦い。
「炎に、刀に、蹴りってか。狐ってのはみんなそうなのか?」
「さあ」
「僕だけじゃないですか」
父さんは、刀を構えた。
「ひとつ、良いことを教えましょう」
男の眉が、ひそんだ。
「あなたの戦い方は、獣と同じだ」
何も言わなかった。でも、目がわずかに揺れた。
「本能のまま、ただ強いだけ。それも強さではあります。ですが」
父さんの声は、静かだった。
「僕は、命をかけて魏骸と戦ってきた」
刀が青白い炎を纏った。鞘から滲み出るように、静かに刀身を這い上がっていく。夕暮れの資材置き場に、青い光が揺れた。
「仕掛け、駆け引き、殺し合い。あなたの戦いには、それがない」
男の口元が歪んだ。牙が、のぞく。
「……ふざけるな」
低い声だった。地の底から響くような。
僕は、息を呑んだ。男の怒りが、空気を震わせている。さっきまでの余裕は、もうどこにもない。
でも父さんは、動じなかった。
「強いだけでは、勝てない」
目が、静かに光った。
「これで、終わりにしましょう」
父さんが刀を振り上げた、その時だった。
ふいに空気が、軋んだ。
資材置き場の奥。夕闇の向こう。何かがいた。
黒い靄。人の形をしている。でも人じゃない。目が縫い閉じられていて、表情はわからない。笑っているようにも見える。
「……魏骸」
父さんが呟いた。
「まさか、このタイミングで」
あれが、魏骸。
喉が、詰まった。
見える。なぜ。
父さんが封じてくれたはずなのに。
魏骸が、動いた。
冷たいものが、僕の腹を一気に切り裂いた。
「コウタ!」
遠くで、父さんの声が聞こえた気がする。
僕の体から力が抜けていく。膝が折れる。地面が近づいてくる。冷たい。地面が冷たい。腹が冷たい。何かが抜けていく。ああ、これ、僕の中身かな。
視界が暗くなる。
父さんの声が、遠くなる。
ああ、父さん、ごめん。
僕は、意識を手放した。




