化け物
夕方の商店街は、どこか眠たげだった。
シャッターの下りた店の前を卯咲と唐傘と三人で歩く。買い出しの帰りだ。
唐傘は、まだその体を持て余している。背が伸びて、僕より頭一つ分高い。
高校生くらいの見た目になったのに、歩き方はまだ少し硬い。傘だった頃の癖が抜けきらないのか、時々、歩幅が不揃いになる。 でも、もう日常で困ることはない。
スーパーの袋が片方の手で揺れている。中には玉ねぎと人参と、安くなっていた牛肉が入っている。今日はカレーだ。
「せっかく人間の姿になれたから、唐傘も料理してみますか?」
卯咲が言った。唐傘はきょとんとした顔をする。
「えぇっ?僕っすか?」
「カレーなので、簡単ですよ」
「まずは包丁の持ち方から覚えないとね」
「うぅ。この体にも、まだ慣れきってないのに……」
唐傘は自分の手を見下ろした。ついこの間まで傘だったのに、今はこうして歩いて出かけられるようにまでなった。その手は、僕よりずっと大きい。
そんな話をしながら歩いていると、視界の端に見慣れた場所が入った。
空き地だった。
以前は建物が建っていたはずの場所。今は更地になっている。地面は整地され、砂利が敷き詰められていた。周りには仮囲いのフェンスが立っている。重機が一台端のほうで停まっていた。
あの火事からもう一ヶ月以上経った。建物はとうに解体されて、何も残っていない。
そこを通りかかった年配の女性二人が、ひそひそと話していた。
「ここの火事、煙草のポイ捨てだったんですって」
「やーねー。怖いわねぇ」
そう言って、二人はあっさりと通り過ぎていった。
僕はその背中を見送った。
あの日僕は必死だった。卯咲が焼け死ぬと思って火の中に飛び込んだ。今思えば無茶だった。でも後悔はしていない。
……まぁ、全部僕の勘違いだったんだけど。
「良かったっすね。焼身自殺じゃなくて」
唐傘が、いたずらっぽい顔をして僕を見た。
「何のことですか?」
卯咲が不思議そうな顔で尋ねる。
「ううん、なんでもない」
僕はそう言って笑った。
唐傘も、何も言わずについてくる。たわいのない話をしながら、三人で歩く。
なんてことのない、普通の帰り道。こんな時間がずっと続けばいいのに。
ふいに視界の端に誰かが映った。
黒髪。鋭い目。年の頃は二十代前半くらい。人間の姿をしているのに、人間じゃない。そんな気がした。人混みに紛れているのに、その男だけ空気が違っていた。まるで別の場所から切り取ってきたみたいだった。
――目が合った。
男は、立ち止まっていた。じっとこちらを見ている。瞬きもせず、僕の中を探るみたいに。
誰だろう……?
僕は首をかしげた。でも足は止めなかった。男は再び、ゆっくりと歩き出した。
商店街の雑踏の中で、距離が少しずつ詰まっていく。
十歩。五歩。三歩。
すれ違う。
その瞬間、背筋に悪寒が走った。
ぞわりと内側から何かが凍りつくような感覚。足が止まる。理由はわからない。寒いわけじゃない。でも体が勝手に反応した。これは僕の感情じゃない。もっと深いところから勝手に湧き上がってくる恐怖だった。
気づいた時には振り返っていた。
男も、こちらを見ていた。
その目はまるで獲物を見つけた獣の目だった。狩りを始める前の、静かで冷たい殺意。その目が僕を射抜く。
男の視線が、僕の頭のてっぺんから足元まで、ゆっくりと降りていく。値踏みするみたいに。そして、口を開いた。
「お前、化け物だろ」
低い声だった。静かな声だった。でも、その一言が、頭の奥まで突き刺さった。
え……?
僕は、何も言えなかった。
化け物。
その言葉が、頭の中で反響する。
化け物って……僕に言った?
僕は、人間だ。少なくともそういうふうに生きてきた。父さんがいて、卯咲がいて唐傘がいて。人間の姿をしている。人間の言葉を話す。人間のものを食べる。
でも。
この人は、気づいてる?
僕の中に何かがあるって。
その時、強く右手を引っ張られた。
体がぐいと前に傾く。足が勝手に一歩前に出た。はっとした。息をしていなかった。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
「コウタ、走りましょう」
卯咲の声だった。いつもと変わらない。淡々としていて、抑揚がなくて。
でも、その手は少しだけ震えていた。
彼女はいつも無表情だ。何を考えているのかわからない。でも今は、その無表情のままで奥歯を噛み締めているのがわかった。目尻が、ぴくりと引きつる。
「早く」
三人で走り出した。唐傘も、必死についてくる。
商店街を抜けて細い路地に入る。迷路のような道を曲がってはまた曲がる。そのたびに卯咲が手を動かす。掌を上に向けて手前に引く。まるで「こっちへ来い」とでもいうみたいに。それに合わせて地面から氷がせり上がってくる。
きぃんと空気が凍る音。振り返るたびに後ろの路地が分厚い氷で塞がっていく。
一枚また一枚。氷の壁が僕たちとあの男の間に積み重なっていく。
後ろを振り返る余裕はなかった。でも、わかる。追われている。あの男が、来ている。
僕たちは路地の奥まで来た。抜けた先で視界が開けた。資材置き場だった。
昔、この辺りに建設会社があったらしい。倒産したんだと、誰かが言っていた。
錆びた鉄骨が野積みになっている。パレットが崩れかけたまま積まれている。
ブルーシートをかぶった建材。フェンスには古い看板が引っかかっていて、文字は半分消えている。もう誰も来ない場所。そういうふうに見えた。
卯咲は振り返り、両手を前に出す。空気が、低く唸った。地面がみしりと鳴る。目の前に、より一層分厚い氷の壁が現れた。路地を塞ぐように、そびえ立っている。
「これで、しばらくは……」
その声はいつもよりずっと小さかった。息が上がっている。走っただけじゃない。力を使ったんだ。
周りが静かだった。さっきまで商店街の音が聞こえていたのに、もう何も聞こえない。遠くで車の音。風の音。それだけ。助かったんだ。そう思った。
「なんなんすかあの人!いきなり人のこと『化け物』って……やべー奴っすよ!アタマおかしいんじゃないっすか!?」
唐傘が騒いでいる。声が上ずっている。でも、僕は、何も言えなかった。
化け物。
あの人は、確かに、僕を見て言った。
僕に言ったんだよね……?
卯咲も唐傘も妖怪だ。でもあの人の目は二人じゃなくて僕を見ていた。
あの人、気づいてる。僕の中にある何か。父さんが言ってた、何か。
……魏骸のかけら。
手が震えていた。知らないうちに息が浅くなっていた。
「コウタ?」
卯咲が、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
どうしよう。どうしよう。頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。
その時、指が勝手に動いた。気づいた時には、一番慣れた番号を押していた。
父さん。
コールが三回鳴った。
『どうしました?』
父さんの声だ。落ち着いた、いつもの声。
「父さん!父さん、助けて!」
『コウタ、落ち着いて。大丈夫ですか?』
声が、いつもより少しだけ早い。かすかな焦りが混じっている。父さんが動揺している。それを聞いて、余計に涙が出そうになった。
「わかんない、わかんないけど変な人が……僕のこと、化け物って……」
『コウタ、今どこに』
「商店街の近くの……路地を抜けたところ……あの、資材置き場……」
うまく言葉にならない。息が詰まる。喉が痛い。
『資材置き場ですね。ちょうど近くにいます。そこを動かないで』
電話が切れた。画面が暗くなる。ちょうど近くにいる。偶然。でも、そんな偶然が今は神様みたいに思えた。
僕はしばらくそのままスマホを見つめていた。
顔を上げる。路地の入り口には、まだ氷の壁がある。分厚くて何枚も重なっていて、向こう側は見えない。しばらく待った。十秒。二十秒。何も来ない。もう追ってこないのかな。そう思った。
「来ないですね」
「逃げきった……すか?」
唐傘が、恐る恐る言った。
ふいにぱきんと硬い音がした。ガラスが割れるような、それでいてもっと鋭い音。
見上げる。氷の壁に、ひびが一本入っていた。
次の瞬間、壁が勢いよく砕けた。
氷の破片が夕方の光を反射して、きらきらと舞う。その向こうから、あの男が歩いてくる。
卯咲が何枚も重ねたはずの氷が、一瞬で、あっけなく砕かれた。
「逃げれると思ったのか?」
低い声だった。
路地の入り口にあの男が立っていた。
男は、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。その顔には、憎悪が滲んでいた。
「ぶっ殺してやる。覚悟しろよ、化け物」




