騙せると思うなよ
冬の山は、静かだった。
空気が澄んでいる。息を吸うと、肺の奥まで冷たさが届く。
ここは本州の南。霜は降りるが、雪が積もることはない。
山は常緑の木々に覆われ、冬になっても深い緑を保っている。
谷を流れる川の音が、遠くから聞こえてくる。水は冷たい。でも、凍らない。
俺は木の上にいた。
太い枝に腰かけて遠くを見ている。といっても、特に何かを見ているわけではない。ただ、視界に入るものを眺めている。山の稜線。空の色。風の動き。
長い年月をそうして過ごしてきた。妖怪にとって、時間は流れるものではない。ただ、そこにあるものだ。
見上げると、満月だった。
丸い。雲一つない。月の光が山を照らしている。木々の影が、地面に複雑な模様を描いていた。
その時、草をかき分ける音がした。
月明かりの下、谷のほうから何かが這い上がってくる。
大きさは二、三メートル。蜘蛛のような形をしていた。足が八本、節々で不自然に折れ曲がり、体は湿った黒い毛に覆われている。腹部の表面は月明かりを吸い込むように暗く、鈍く光っていた。
獲物を探すようにゆっくりと足を動かしながら、こちらへ向かっている。
「……またあいつだ」
俺は呟いた。低い声だった。山の静けさに、その声はすぐに溶けた。
枝から飛び降り、音もなく地面に着地する。奴はまだ気づいていない。俺は獲物を狩る体勢に入った。
空気が裂ける音が、遅れて届いた。
飛び散った血が辺りに散乱していた。蜘蛛の化け物だったものは、もう原型を留めていない。八本の足はあらぬ方向に折れ曲がり、湿った黒い毛の塊がそこかしこに転がっている。腹は裂け、どす黒い内臓が地面に散らばっていた。
俺は中央に佇み、その死骸を一瞥した。
あと数分もすれば、これもすべて煙のように消えるのだろう。
「……不快だ」
俺は手を払った。最近、こういうのが増えている。以前は見なかったものだ。ここ数年、山に迷い込んでくる。理由はわからない。だが、俺はこの山の主だ。少なくとも、俺自身はそう思っている。自分の場所を勝手に荒らし回るものがいる。それが気に入らなかった。
――
初めてその存在に気づいたのは、一ヶ月前だった。
山の中腹、杉の木の根元に鹿が倒れていた。俺は通りかかって、足を止めた。鹿は死んでいた。目を開いたまま、地面に横たわっている。
自然死ではない。年を取って死ぬなら、もっと穏やかな顔をする。動物の仕業でもない。野犬や熊なら、食うために殺す。食い散らかす。でも、この鹿は食われていなかった。ただ首が、ぱっくりと切られていた。巨大な刃物で一気に斬ったような、不自然な傷だった。
「何だこれは」
舌打ちが、静けさに響いた。
理由もなく生き物を殺す。それが気に入らなかった。食うために殺すならわかる。縄張りを守るために殺すならわかる。でも、これは違う。ただ斬っただけだ。いたずらのように。遊びのように。
そのうち、動物の死体が増えた。鹿。熊。猪。どれも同じような死因だった。体のあちこちを深く斬られ、放置されている。死体はどれも、恐怖に歪んだ苦悶の顔をしていた。目を見開き、口を歪め、必死に何かから逃れようとしていた。そんな顔だった。
俺は拳を握った。手の平に爪が食い込む。ただ腹が立った。
――
そして、ある日。
山の奥、誰も来ないような場所だった。
そいつは、そこにいた。
筋肉質で大きな体。人の形をしている。だが、人ではない。
俺は足を止めた。そいつから目が離せなかった。今まで数えきれないほどの生き物を見てきた。人も、妖怪も。だが、こんなものは見たことがない。
瞼には針金のようなものが打ち込まれ、目からは涙のように血が流れている。笑っているのか、泣いているのか。その表情は、読み取れない。口はだらしなく開き、喉の奥からは低いうめき声が発せられている。
妖怪でも、人間でもない。禍々しくて邪悪な存在。全身からどす黒い瘴気が溢れ出ている。
そいつが、こちらに気づいた。
言葉も理性もない。本能だけの獣。そういう目をしていた。
咄嗟に体が反応した。重心を低くして、爪を構える。
そいつは、待っていたかのように動いた。うめき声をあげながら、手に持った巨大な斧を振りかざす。
「…俺の山だと思ってるんだがな。好き勝手しやがって」
俺は右手を振った。爪が閃く。一瞬遅れて、そいつは真ん中から裂けた。
断面から、血が吹き出した。黒い血だった。内臓のようなものがびちゃびちゃと地面にぶちまけられる。どす黒い肉片が、辺りに飛び散った。地面に落ちた細切れは、しばらくの間動いていたが、やがて煙のように消え去った。
血の匂いも肉の重みも、すべてが風に溶けていく。
俺は自分の爪を見た。汚れはない。だが、手のひらが気持ち悪かった。斬った瞬間の感触が、まだそこに残っている。べったりと、まとわりつくようで振り払いたくなる。
「なんなんだ、こいつは」
俺は、その正体を探すことにした。
人間が嫌いだった。山を下りるのは嫌だった。でも、それよりも知りたい気持ちが上回った。自分の山に現れる、正体不明の何か。それを放っておくのは、負けた気がした。
――
山を下りてからも、俺は奴らを何度も斬った。
街の外れ。使われなくなった資材置き場。人気のない公園。奴らはどこにでも現れた。大きいやつも、小さいやつもいる。ただ浮かんでいるだけの奴もいた。そいつは何もしない。だから放っておいた。
斬って斬って斬り続けるうちに、わかるようになったことがある。
こいつらには匂いがある。いや、匂いというより気配だ。空気が薄く濁るような、胸の奥がざわつくような。とにかく、その気配を覚えると、遠くにいても奴らの居場所がわかってしまう。これは厄介なことだった。気づけば、斬らずにはいられない。
辿るうちに、だいぶ北へ来た。
俺は高台に上がった。街を見下ろす。遠くからでもわかる。あの黒い気配が濃い。まるで、あの土地そのものが吐き出しているかのように。山で出会ったあれと同じ匂い。いや、もっと濃い。
「多い。あの街は、おかしい」
――
商店街は、静かだった。
シャッターの下りた店。空き家。剥がれかけた看板。全盛期を知らない俺でも、そこに残る気配だけで昔はもっと賑わっていたんだろうと想像できる。すれ違うのは、年寄りばかりだ。人の匂いは薄い。だが、それでも俺には十分に不快だった。
俺は人間が嫌いだ。ぞろぞろと歩く靴の音、中身のない話し声、様々なものが混じった匂い。どれも、俺は苦手だった。人間はなぜこんなに騒がしいのか。なぜ、こんなに狭い場所に集まるのか。山では、こんなことはない。風の音と川の音と、木々のざわめきだけだ。
そんなことを考えていると、俺の目に三人組が映った。
商店街の真ん中で、少年と二人の連れが並んで歩いている。少年は十代半ばといったところか。茶色の髪にどこか柔らかい雰囲気をまとっている。両隣にはスカートを履いた女と、妙にそわそわした様子の若い男。買い物帰りか。三人は楽しそうに笑いながら歩いていた。
「ん……?」
その姿に違和感を覚え、俺は目を細めた。
あいつら、妖怪だ。うまく化けてはいるが、俺にはわかる。なぜ妖怪がこんな街中を人間と一緒に歩いている。
そして俺の視線は少年の胸あたりで止まった。
微かだが、少年の中に何かがある。黒い。煙のような。山で斬ったあれと同じものだ。小さい。よほど注意しなければわからない。なのに、それは深いところまで根を張っている。まるで、少年そのものと混ざり合っているかのように。
俺は、立ち止まった。
少年がこちらに気づいた。目が合った。
その目は、人間のものだった。化け物の匂いがするのに。
両隣の二人は、まだ俺に気づいていない。
「……騙せると思うなよ」
俺は、眉をひそめた。
嫌いなものはいくつかある。
人が集まる場所。騒がしい音。理由もなく生き物を殺すやつ。
そして化け物が、人間のふりをしていること。
三人は、そのまま歩いていた。
俺は歩き出した。奴の横を抜ける。
その瞬間、少年が足を止めて振り返った。俺を見た。その目に初めて恐怖の色が浮かんだ。
俺は、確信した。




