【番外編】隣を歩きたい
その日、僕は卯咲と唐傘と一緒にリビングにいた。
たわいのない話をしていた。唐傘は珍しく黙って座り込んでいた。大きな一つ目が何かを考えこんでいる。
「そもそも、妖怪ってその辺にいないよね」
「基本的に皆、姿を隠して暮らしていますから」
「街にもいる妖怪ってなんだろう。大きいドブネズミの妖怪とか?」
「…それはちょっと嫌ですね」
そのときだった。唐傘がぴょんと立ち上がった。
「僕は、思ったっす」
声は真剣だった。
「人間の姿に、なりたいなと」
「…なんで?」
僕は思わず聞き返した。突然の告白だった。
唐傘はしみじみと続けた。
「いや、僕普段はいつも傘の姿で誰かに持ってもらってるじゃないっすか」
「仕方ないです。その姿だと周りの人も驚きますので」
卯咲が、静かに言った。僕もうんうんと頷く。
「誰かに頼らないと、一人じゃ街も歩けない。そんな自分が、嫌になったんす」
唐傘は、一度、言葉を切った。
「僕はいつでもどこでも自分の足で歩きたいっす。人の目を気にせず卯咲や父さんみたいに」
唐傘が……人間の姿に? ずっと傘として生きてきたのに、そんなことできるのかな。
彼は、期待するように卯咲のほうを見た。
「…それは、難しいと思います」
卯咲が、少し困った顔をした。
「私たち妖怪には、得意なことと不得意なことがあります」
「私は雪女なので、変化できるのは人間の姿だけです。それも、着物を洋服に変える程度。顔は変えられないし、背の高さも髪の色も。少し整えることしかできません」
「父さんは狐の妖怪って言ってたからそういうのは得意そうだよね。見たことはないけど……あっ」
僕は気が付いた。
そういえば父さんの服って、コートぐらいしか見たことがない。あれって服も一緒に変化してるってことなんだ。
ご飯も服もいらないなんて、妖怪って意外と経済的なんだなぁ。
「唐傘は傘のお化けだから、ボロボロの傘に戻るしかできないってことだよね」
「そうです。あのボロボロの」
「うぅ……ボロボロじゃなくて古いって言ってほしいっす……」
唐傘が言った。消え入りそうな声だ。
「ごめんごめん。古い傘ね」
「おそらく」
卯咲が、静かに言った。
「こればっかりは、持って生まれた才能です。やはり難しいかと……」
「僕には…無理っすかぁ…」
唐傘がへこんでいく。まずい。このままでは心じゃなくて骨まで折れてしまう。
そこへ、玄関のドアが開く音がした。
「どうかしたのですか」
コートを着た父さんが、リビングに入ってきた。用事があって一時帰宅したらしい。少ししたらまた戻るという。
僕たちはこれまでの経緯を話した。
父さんはコートを脱がずにソファに腰を下ろした。話を聞き終えるとふむ、と小さくうなずいて、何か考えていた。それから静かに口を開いた。
「それは、前提から間違っているかもしれませんね」
父さんは、紙とペンを手に取った。
「妖怪には、本来の姿と、変化した姿があります。まずはそこから整理しましょう」
「本来の姿?」
僕は繰り返した。
父さんは紙に簡単な絵を描き始めた。棒人間を二つ。その間に矢印を描く。……はずだった。
僕は思わず、二度見した。
一つは頭の上に犬の耳みたいなものと、尻尾らしき線。もう一人はただの棒人間。どちらもバランスがやけに悪い。小さい子が描いた絵みたいだ。
「父さんそれ……」
「すみません。絵は苦手なんです」
そう言って少しだけ視線を落とし、描きかけた紙をそっと伏せた。
あの父さんにも苦手なことがあったのか。
父さんは気を取り直して説明を始めた。
「たとえば僕は狐の妖怪です。コウタも見たことがあるでしょう、装束で耳と尻尾のある姿。あれが本来の姿で、今の人間の姿はそこから変化したものになります」
僕は思い出した。父さんが昔、僕を助けた時の姿だ。
「卯咲は雪女。雪女が本来の姿で、人間は変化した姿です」
卯咲が、うなずいた。
「では、唐傘はどうでしょう」
父さんは僕のほうを見た。
「えと……本来の姿が、この唐傘お化けで。変化したのが、古い傘……かな」
父さんは首を振った。
「逆です。彼の本来の姿は古い傘のほう。唐傘お化けはそこから変化した姿なんです」
唐傘は、黙った。
僕は頭の中で整理する。古い傘が長い時を経て唐傘お化けになる。それが変化。
つまり唐傘はすでに一度姿を変えている。
「そういえば、父さん。唐傘のこと付喪神って言ってたよね」
「ええ。物に魂が宿った存在です」
父さんは、伏せた紙の横にペンを置いた。
「付喪神というものは、我々純粋な妖怪とは性質が異なります」
「性質?」
父さんはペンを手に取り、少し迷って、また置いた。
「まず、純粋な妖怪について。我々は生まれながらにして姿が決まっています。卯咲が人間の姿しか持てないのは、雪女という妖怪がそういうものだからです。変化の幅は、生まれた時からある程度決まっている」
卯咲が、少しだけうつむいた。
「ですが、付喪神は違う。もともとただの物だったものが、魂を得て形を変えた存在です」
唐傘が、小さくうなずいた。
「物として長い時間を過ごしてきた。自分は何者かというイメージがそのまま姿になっている」
僕は、唐傘のほうを見た。彼はじっと父さんの話を聞いている。
「唐傘、あなたは長い間ずっと『傘』として自分を見てきた。だから今の姿も傘のままなんです」
唐傘の一つ目が、少しだけ揺れた。
「逆に言えば自分を傘以外の何かとしてイメージできれば、姿もまたそこへ変わっていく余地がある」
卯咲が、ふと口を挟んだ。
「つまり、唐傘が自分を人間だと思い込めばいい、ということですか」
「近いですね。ですが、ただ思い込むだけでは足りません。毎日、具体的に思い描き続けることが必要なのです」
父さんは、少し考えてから続けた。
「たとえばですが、本体に何かを付属させる。傘以外のイメージを呼び込めるような、そんな小さなものでも構いません。傘でありながら、別の何かでもある。その重なったイメージが、やがて新しい姿へつながっていく。そういう仕組みです」
僕は、なんとなくわかった気がした。
卯咲は、変われない。雪女という種がそう決めているから。
でも唐傘は、変われる。付喪神という性質が、その余地を残しているから。
「実際、古い書物の中には付喪神が人間の姿をしていたという記述もあります。あなたが目指すものは、決して無茶な話ではない」
「…本当っすか」
唐傘の声が明るくなった。
――
「本体に何かを付属させると良い」
父さんの言葉を頼りに、僕と卯咲は街の雑貨屋へ行った。
ストラップにキーホルダー、チャーム。棚いっぱいに、色とりどりの小物が並んでいる。
「人の形をしたものがいいんですよね」
「そうみたい。探してみよっか」
店の中を歩き回る。犬、猫、ハート、スイーツ…。人の形をしたものは思ったより少ない。
「これとか、どうです?」
卯咲が手に取ったのは可愛い女の子のストラップだった。悪くはないけど、唐傘には合わない気がする。
「もうちょっと、男の子っぽいのがいいかな」
「そうですね」
棚の端まで来たところで、見つけた。小さな男の子のキャラクターチャーム。丸い目をして、にっと笑っている。派手ではないけれど、どこか温かみのある顔だ。
「これ、いいんじゃない?」
「はい。なんだか少し唐傘に似ていますね」
僕はそれを手に取った。小さな体に、唐傘の面影を重ねる。
家に帰ると、唐傘は玄関の傘立にいた。僕に気が付くと、ポンッと唐傘お化けになった。
「コウタ、お帰りなさいっす。卯咲とどこ行ってたっすか?」
「唐傘」
僕はチャームを差し出した。
「これ、あげる」
唐傘の一つ目が、じっとそれを見つめる。
「人の形をしたやつ。柄に付けるといいって、父さんが」
「……ありがとうっす」
その声は、少しだけ震えていた。大きな一つ目が、潤んでいる。
僕はチャームを、古い傘の柄にそっと付けた。
「これで、いつでもイメージできるっす」
「うん」
「コウタ、卯咲。選んでくれたんすね。僕のために」
「二人で選んだんだよ」
「……嬉しいっす」
傘の布に、小さな染みができた。僕は何も言わずに、そっと撫でた。
その日から、唐傘は玄関の傘立から出てこなくなった。
傘の姿のまま、じっとしている。普通の傘のように。時々、布がかすかに震えているのが見えた。
「頑張っているのですね」
卯咲が、ぽつりと言った。
「うん」
「私たちにできることは、見守ることだけです」
「…そうだね」
魏骸が現れた時、父さんはよく唐傘と卯咲を連れて行っていた。でも今回は、本人には知らせなかった。きっと集中できるよう、気を使ってくれたんだと思う。
僕たちは、話しかけすぎないようにした。邪魔をしないように。でも、完全に放っておくこともできなかった。
一週間がたった。
いつもおしゃべりな唐傘がいないと、家の中がなんだか広く感じる。リビングにいても、卯咲と二人きりだと会話も自然と少なくなる。あの大きな一つ目が、いつの間にか僕たちの日常の一部になっていたんだと、改めて思った。
僕は、玄関に行った。傘は、いつもの場所に置かれている。
「唐傘」
「…はいっす」
声は、沈んでいた。きっと、うまくいっていないのだろう。
「無理しなくてもいいんだよ」
僕は、そう言った。しゃがんで唐傘の高さに目を合わせる。
「人間の姿になれなくても、僕も卯咲も、唐傘のことちゃんと持つよ。一緒にいるよ」
慰めのつもりじゃなかった。本当にそう思っていた。傘のままでも、一緒にいたい。
唐傘は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「僕、傘になって誰かに持たれている時、父さんと卯咲はコウタと歩けるのに、どうして自分はダメなんだろうって、ずっと思ってたっす」
僕は、何も言えなかった。
「寂しいっす。僕も、コウタの隣を歩きたい」
唐傘の声は、震えていた。
「コウタと公園で遊びたい。コウタと街を歩きたい。コウタと一緒にお出かけしたい」
「それに……もっとコウタを守りたい。ほら、コウタってすぐ無茶するから」
図星だった。僕は返す言葉が見つからず、へへっと笑うしかなかった。
「へへっ」
唐傘も、つられて笑った。
「僕が隣にいれば、いつでも守ってあげられるっす」
その声は、とても頼もしかった。
唐傘は、少しの間を置いた。それから声のトーンがすっと真剣になる。
「僕、父さんに言われたんす。コウタを守ってほしいって。コウタを守るのは僕っす。雨だけじゃなくて、もっといろんなものから守りたい」
僕は、胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。うまく言葉が出てこなかった。
「だから、いつかコウタと並んで歩けるようになるっす」
唐傘は、そう言った。
それから、また一週間。
学校から帰ってくると、玄関に男の子の後ろ姿があった。誰だろう。知らない子だ。
僕が近づくと、その子が待っていたかのように振り返る。
短い黒髪。くりっとした二つの大きな目。活発そうだけど、優しい顔をしている。
一目で唐傘だとわかった。
「コウタ、僕、やったっすよ」
その子が、言った。
「人間に、なれたっす」
「唐傘……唐傘なの?」
僕は、声が震えるのを抑えられなかった。
その子の前に立って、まじまじと顔を見た。鼻があって、口があって耳があった。ちゃんと人間の姿をしている。
「本当に」
「うん」
「唐傘なんだね」
「うん」
僕は、手を伸ばしてその子の髪に触れた。少しだけ、冷たかった。まだ傘の名残があった。
「……冷たい」
「うん。まだうまくできてないんす」
僕は、笑った。
それから、その子の手にそっと触れた。手はまだ、少しだけ硬かった。傘の骨の名残があった。でも、僕は気にしなかった。
「すごい。すごいよ、唐傘」
「うん」
「頑張ったんだね」
「うん」
「…これで、一緒に歩けるね」
僕はその手をぎゅっと握った。
手のひらに、唐傘の指の力がじんわりと込められる。
ちゃんと握り返してくれている。
冷たかった手は、いつしか僕と同じ温かさになっていた。




