【番外編】まねごと
コウタが卯咲を連れてきてから一週間。台所の調味料が、異様な早さで減っていく。
僕は玄関で足を止めた。
ゴミ袋が二つ並んでいる。明日の朝に出すつもりだったのだろう。
なんとなく中身が目に入り、首を傾げた。
空の調味料ボトルがいくつも入っている。醤油、みりん、料理酒、ソース……。
どれもこれも、底を叩けば数滴しか出てこないような状態だ。
「……多いな」
先週補充したばかりの醤油がもう空だ。こんなに使うような料理をコウタがしているだろうか。
自分の部屋に戻ろうとして、ふと足を止めた。
台所の灯りがついている。こんな時間に誰かいるのか。
覗いてみると、卯咲が立っていた。
背中を向けている。長い髪がさらりと揺れた。
手に持っているのは一升の醤油ボトル。
それを——コップで飲んでいた。
「……あの」
思わず声が出た。
卯咲が振り返る。口の端に醤油がついている。赤いリボンが、ぴょこんと跳ねた。
「あ、お父様」
「何をしているんですか」
「味を、覚えようと思いまして」
真顔で言う。醤油のボトルを、まだ手に持ったまま。
「ずいぶん熱心ですね」
「コウタが少しずつ味見をしろと。でも少しずつだとどれがどの味かわからなくなるので」
「だからコップで?」
「刺激は強い方が、覚えやすいかと」
僕はため息をついた。だがその真剣な顔を見て、少し笑ってしまった。
「卯咲」
「はい」
「それは、味を覚えているのではありません。味覚を壊しているんです」
卯咲は、きょとんとした顔をした。醤油のボトルを、まだ離さない。
「座りなさい」
僕はそう言って彼女からボトルを取り上げた。
「味を覚えたいなら、別の方法があります」
「別の方法」
「逆算です」
卯咲は小首を傾げた。リボンがまたぴょこんと跳ねる。
「逆算、とは」
「料理を食べる。すると、そこには必ず複数の味が混ざっています。醤油の塩気、みりんの甘み、出汁の旨み。それを、ひとつずつほどいていくんです。この味は醤油、これは砂糖、と」
卯咲は黙って聞いていた。
「調味料そのものを飲んでも、混ざり合った味はわかりません。料理は足し算です。足し算の答えから、足した数を逆に考える。それが逆算です」
「足し算の、答えから」
卯咲は、ゆっくりと繰り返した。真剣な顔だった。まるで、新しい呪文でも覚えるかのように。
「はい。最初は難しくても、慣れれば自然にできるようになります」
「……やってみます」
卯咲は、深くうなずいた。
それから彼女は変わった。
台所に立つ時間が増えた。調味料を飲まなくなった代わりに、自分で作った料理を一口食べて目を閉じるようになった。
僕はリビングで資料に目を通しながら、その様子を横目で見ていた。
「醤油の味が、わかる」
「この甘みは、みりん」
「出汁が、効いている」
独り言のように小さく呟いている。
彼女は何を入れたか知っている。でも、それが今、ひとつずつ確かめられるようになっていく。
少しずつ、彼女の中の何かが変わっていった。
僕は、そんな彼女を見るのが少しだけ楽しみになっていた。
ある日の夕方。雨が降っていた。
コウタは唐傘を連れて学校へ行った。リビングには雨音だけが響いている。
「卯咲」
「はい」
「今日は、外で食べましょうか」
卯咲は、目を丸くした。
「外、ですか」
「ええ。たまには、いいでしょう」
連れて行ったのは街の外れにある料亭だった。古い日本家屋で、門をくぐると静かな庭が広がっている。卯咲は、門の前で足を止めた。
「お父様。ここは」
「知っていますか」
「いえ。でも、高そう、です」
「ふふ」
僕は笑って先に歩いた。卯咲は少し遅れてついてきた。
通されたのは、庭に面した個室だった。障子越しに、雨に濡れた木々が見える。
部屋には、椅子とテーブルがしつらえてあった。掘りごたつではない。普通の椅子だ。
僕は席に着き、卯咲もおずおずと腰を下ろした。背筋をぴんと伸ばして、まるで出陣前の武士のようだった。
「ここには、よく来るのですか」
「たまに来ます」
僕は湯呑みを手に取った。
「コウタには秘密ですよ」
「ひみつ」
卯咲は、その言葉を繰り返した。意味を確かめるように、ゆっくりと。
そこへ、料理が運ばれてきた。
先付、椀物、向付、焼き物、煮物。どれも季節のものを丁寧に仕立ててある。
卯咲は、目の前の器を見て息を呑んだ。
「きれい、です」
「食べてみてください」
卯咲は椀を手に取った。少しだけ迷って、一口すする。
その瞬間。
彼女の表情がほんの少しだけ、変わった。
目が、少しだけ見開かれる。喉が小さく動く。手が止まる。ほんの一瞬の変化だった。でも、僕にはわかった。
「どうですか」
卯咲は、すぐには答えなかった。もう一口、すする。今度は目を閉じて。
それから、静かに椀を置いた。
少しだけ首を傾げた。
「お父様」
「はい」
「今、私の中に、何かが」
「何か」
「あたたかい、ような。胸のあたりが少し。それから、気分が高揚するような。これが、何なのかわからなくて」
「それは、おいしい、と言います」
卯咲は、顔を上げた。
「おいしい」
「はい。それが、おいしい、という感覚です」
「……これが」
「ええ。あなたが今、感じたものです」
卯咲は、しばらく黙っていた。それから、もう一口すする。今度はずっとゆっくりと。
「おいしい」
小さく、確かめるように言った。
僕は、少しだけ笑った。
卯咲は、まだ椀を見ていた。
「妖怪は、食事を必要としません」
向付の鯛を口に運んだ。
「僕も必要ありません。食べたものは体内で消えてしまいます。栄養にもなりません。だから本来は、食べなくても生きていける」
卯咲は、箸を止めて僕を見た。
「では、なぜ」
「人間のまねごとですよ」
僕は、続けた。
「人間と暮らすなら、人間の感覚を知りたい。おいしい、嬉しい、楽しい。そういうものを、僕は知りたかった」
卯咲は、何も言わなかった。
「僕も、最初は味がわかりませんでした。でも、こうして味を覚えればおいしいという感情も湧いてくる。そう考えると、悪くないでしょう。人間のまねごとも」
彼女は、しばらく僕を見ていた。それから、また箸を取った。
「……はい」
その声は、前より少しだけ柔らかかった。
翌日のことだ。
僕はリビングで報告書に目を通していた。
台所からコウタの声が聞こえてきた。顔を上げて、そちらを見る。
「卯咲」
「はい」
「これ、すっごくおいしいんだけど」
卯咲は、いつもの真顔で手を止めた。
「そうですか」
「うん。これ、どうしたの。何かあったの」
卯咲は、少しだけ考えて。それから静かに言った。
「ひみつです」
その顔は、ほんの少しだけ笑っているように見えた。
僕は、静かに報告書に目を戻した。




